2018年「山が笑った日」/本「治りませんように」からの引用
今日は4月9日。
昨日は日曜日でしたが、やっていないことがあって学校へ。
その通勤途中に、山が笑っているのに気がつきました。
金・土曜日に雨が降り、日曜日は日差しがありました。
こういう展開が「山を笑わせる」ことが多いです。
案の定、山が笑っていました。
恒例の「山が笑った日」一覧です。
※参考:2017年「山が笑った日」(2017年4月18日投稿)
平成17年 4月21日
平成18年 4月21日
平成19年 特定できず
平成20年 4月19日
平成21年 4月10日
平成22年 4月14日
平成23年 4月18日
平成24年 4月16日
平成25年 4月 8日
平成26年 4月10日
平成27年 4月11日
平成28年 4月 8日
平成29年 4月18日
平成30年 4月 8日
季節ごとの表現も毎年復習のために書いておきます。
春・・・山笑う
夏・・・山滴る(したたる)
秋・・・山装う/山粧う(よそおう)
冬・・・山眠る
ナガミヒナゲシも目撃しています。
4月4日に通勤途中で見かけました。
この雑草は、春先にずっと注目してきたものです。
今年も、オレンジ色を使って、
主張してきました。
べてるの家について書かれた
本「治りませんように~べてるの家のいま」
(斉藤道雄著/みすず書房)から引用。
長く引用します。
治さない
20世紀前半のアメリカで画期的な精神医療をきりひらいた
H・S・サリヴァンは、 精神医学は「対人関係の障害の学である」といい、
「似た者は似た者によって治される」とくり返し述べている。
その治療の柱は、精神病院に入院してきた患者に「似た者」、
つまり患者にできるだけ共感できる資質を持つ
スタッフを寄り添わせることだった。
そうすることで治療は多大な成果をあげたという。
精神分裂病、いまでいう統合失調症が早発性痴呆などと呼ばれ、
不治の病とされていたころのことである。
「似た者は似た者によって治される」というのは、
べてるの家でいう「仲問のところにいって治す」
という言い方とよく重なっている。
当事者のことは当事者、あるいは当事者になりうる資質をもった
スタッフがいちばんよくわかる、ということなのだろう。
当事者とスタッフのちがいはあっても、
精神病はそうした人びととのかかわりによって
好転すると考えていたサリヴァンは、
規律と矯正による支配が一般的だった当時の時代背景を考えれば、
傑出した精神科医だった。いや、 いまでもその考えは
傑出しているといえるかもしれない。
(中略)
しかしそのサリヴァンも「治さない」という医療までは
思い至ることがなかった。
もちろん時代と環境の差は大きく、いまのような薬がないこともあって、
百年前にそんなことは夢想だにできなかったろう。
それ承知のうえで、私は思わないわけにはいかない。
もしサリヴァンが、べてるの家のような「ものいう当事者の群れ」に
取り囲まれていたならば、彼もまた
「治さない医者」を標榜したのではないかと。
彼もまた、七夕ならぬクリスマスの飾りに「治りませんように」と
書いたのではないだろうかと。
時代における医療の先進性、あるいは異端性ということでは共通していても、
サリヴァン先生と浦河日赤の川村敏明先生を隔てているのは、
おそらくこのものいう当事者の群れなのだ。
川村先生の周囲には、浦河弁を身につけ、
「ありふれた人間仲間との接触」を重ねながら、
自らを語る力をもった当事者が群れをなして暮らしている。
彼らがいるからこそ先生は患者に、半分だけ治しておくからといい
あとは仲間のところにいって治しておいでといえるようになった。
「治さない医者」を標榜し、「薄味」で「低脳薬」、
ときには「無脳薬」の医療を追い求めることができるようになった。
医者ががんばらないから患者がものをいうようになったのか、
患者がものをいうから医者が鍛えられたのか、
いずれにしても浦河の精神医療は医者ひとりが
作りあげたのではないというのが川村先生の自慢である。
日赤病院にはいまだに、都会で十分な精神科の医療を受けながら、
それに飽きたらずにやってくる患者があとを断たないが、
彼らを見ながら先生はこういう。
「ちょっと生意気なことをぼくがいうようだけれど、
(一般的な精神医療が)濃すぎるわけですよ、
ぼくの実感としては。
われわれが薄い分だけここはいろんな、
いわゆる仲間っていわれる人たちとの情報交換、助けあい、
ミーティング等がふんだんに用意されている。
本人が自分自身のニーズに気づくあるいはニーズに応じたものが
用意されているんで、わたし、そんなに張り切ったり、
そんなに治さなくていいわけですよ」
精神科医ががんばらなくても、患者はミーティングや当事者同士の
多様な人間関係に支えられて病気と向きあうことができる。
そういうしくみが、この町には備わっている。
精神科医がなにをするのかではなく、
なにをしないかが問われ、その分患者や仲間、
スタッフがなにをするかが問われている。
「みんなが出番があって、みんながひとことをもってる。
この、『ひとこと俺にいわせろ」っていう感覚が
とってもいいような感じがする。
それ、医者にだけまかせてしまう、先生がいったからっていって
ぜんぶ決まっちゃう、そういうところは・・・・・ 一見、
悩みも少ないようにみえますけれども、
だれの悩みだったんだろう、だれの病気なのこれ、と。
だからぼくら、悩みを減らすより悩みを増やすっていうのは、
つねにあなたが主役だよねって、スポットライトをあてつづけたいという
思いが(あってのことで)、そこからしか、この病気と出会ってしまった、
しかしそれがけっして否定的じゃないという、
そういう答えが生まれようがないと思うわけですよね」
もし医者が主役になっていたら、あるいは家族が、医療が、
福祉が主役になっていたら、患者の当事者性は失われ、
「この病気と出会ってしまった」ことの意味を考えられなくなってしまう。
そんなことが医者に許されるだろうか。
ほかの病気はいざ知らず、「この病気」との出会いは、
そこをはずしたら無明の世界に陥るだけではないか。
この思いが、突き放すようではあっても、
「あなた」を主役にし「あなた」にスポットライトをあてつづける。
(198~201p)
もう少し引用。
精神科医の役割·と题して行った2008年夏のスピーチで、
川村先生は、じつは自分は
「患者さん、家族の期待を長年裏切りつづけてきた」
のではないかと、当時をふりかえっている。
「わたしに 『先生が治してくれました』、『先生のおかげです』って
いう感謝を述べて退院していった患者さんが数多くいます。
しかしその人たちはみな、再発してもどってきました。
(では自分は)感謝される医者なのかと。
感謝されるような治療をして、全員がまた再発するっていうことは、
ぼくは不思議だなぁって考えるようになってきたですね。
自分の仕事っていうのはなんだろうか、
こんなに感謝されながら、みんなが悪くなる、
これはなにか大事なことがそこにあるんだなっていうふうに
考えるようになりました」
思いあたることのひとつは、よくなる患者、
つまりかんたんに再発することのない患者は、
医者と「一対一」の関係のもとで回復しているのではない、ということだった。
いろいろな人のお世話になってよくなっている、
あるいはあれこれの人間関係作りだし、
そのなかで自分を取りもどしていくという過程が、そこには見えてきたのである。
そういう患者は退院するとき、 いろいろな人に、意外な人にまで、
「お世話になりました」、「おかげさまで」とあいさつしている。
先生にだけお礼をいって退院するのは、
だいたい再発してもどってくる患者だった。
そこに、大事なことがみえてくる。
「治療の世界にいると、医者が主役のように見えてしまう、
あるいは主役の役割でなければ満足しないような、
そういう考えにだんだんなっていったんですね。
でも、だーれもよくならない。そんな治療が治療だろうかっていう、
ま、徐々に考えが(出てきて)、悩む医者にだんだんなっていきましだ。
悩ませてくれる人たちがたくさんいたっていうところがまた、
浦河のいいところだなと思います」
(201~202p)
村上公也先生を思い出します。
特別支援学級の子どもたちにとって必要なのは、
「つながり」「人間関係」であると主張されています。
学級ではそれを重視した教育がなされるべきで、
学力は副産物だと言います。
上記の引用文中にも出てきましたが、
教育が「規律と矯正の支配」になってしまってはダメだと思います。
今回の引用は、特別支援教育の指導法を考える時に、
きっと必要な大事なことを含んでいると思います。
今日、図書館に返してしまう本なので、
アプリ「OCR」を使って、たくさん引用しました。
何度か読み返したい文です。
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