パラリンピック〈6〉1960年ローマでパラプレジックオリンピック開催
今日は令和元年10月28日。
昨晩に引き続き、
8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の
読み物化をします。
前投稿で書いた、ストーク・マンデビル病院で行われた競技会は、
ストーク・マンデビル大会と呼ばれました。
1948年に始まったストーク・マンデビル大会は、
それ以後毎年開催され、
しだいに世界各国から選手が参加するようになり、
国際競技大会へと発展していきます。
1960年には、オリンピック開催都市で、
ストーク・マンデビル大会を行おうと、
開催委員会が決めました。
1960年、イタリアでのオリンピックに合わせて、
ローマでストーク・マンデビル大会が行われました。
その時に大会名は、パラプレシアとオリンピックを合体させた
パラプレジックオリンピックという愛称が、
大会関係者の間で使われていたそうです。
公式にパラリンピックという言葉が使われ始めたのは、
1964年の東京でのオリンピックからでした。
1964年のパラリンピック階差に向けて、
尽力した人物がいました。
日本パラリンピックの父、中村裕(ゆたか)さんです。
大分県で医師をしていた中村さんは、
当時最先端のリハビリ技術を学ぶため、
1960年にストーク・マンデビル病院に留学しました。
そこで、スポーツによるリハビリに感銘を受け、
1964年の東京大会を日本における障害者スポーツのための
第一歩にしようと決意しました。
順調にいけば、1964年のストーク・マンデビル大会は
東京で行われるため。中村さんは発起人となり、
大会準備委員会を立ち上げ、大会に向けて奔走しました。
しかし、この大会を東京で開催するのに反対する声も
ありました。
どのような声があったと思いますか?
私にはすぐに浮かびませんでした・
次の記事で書きます。
つづく
コメント