「雪虫の飛ぶ日」①/「玉置坊主」は本当にあったこと?
今日は令和元年10月29日。
本を読破しました。
「雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6」
(川村たかし著/偕成社)
図書館に返す本です。
印象に残った文章をここに書き留めます。
「玉置坊主(たまきぼうず)はどこまで
もちこたえられるかねえ。」
フキはつくろいものの手をとめて、
とおくを見る目になっていた。
(フキの)夫の豊太郎とおなじ級に、玉置直次という男がいた。
(中略)
入植しても学校がおなじ、日露戦争もいっしょだった。
その直次が、大正2年のひどい冷害のとき、
ひょろひょろした草ばかりの中に、たった1本、
花を咲かせている稲を見つけた。
直次は目をかがやかせた。
はやくから米づくりにうちこんでいただけに、
花をつけた1本の茎がどれほどのねうちがあるものか
わかったからだ。
彼は虫やスズメからこの穂をまもりとおした。
やがて秋になり、稲はみのって重くたれさがった。
たった1本の稲は翌年何升(なんじょう)かの
種もみにふえた。
冷害がやってくるたびに玉置種は見なおされ、
ひろがっていった。
寒さにつよいうえに、収量もおおい。
味もわるくなかった。
ただ穂の出るのがいくらかはやく、もみの色が明るい。
そのため、はじめは玉置の早稲(わせ)とよばれた。
だが、早稲というほどはやくもないので、
しだいに玉置坊主で知られるようになっていく。
大正8年、なお改良をのこしながら、玉置は若く死んだ。
41歳だった。
家族が札幌へ出たあとを杉岡という人がついだ。
昭和にもなると、空知(そらち)地方を中心に
玉置坊主は一万町歩もつくられるようになっていた。
ことしになって、またふえた。
昭和5年はたいへんな暑さで、稲はのびすぎて草に力がなく、
イモチ病がひろがった。
あちこちの田んぼはべったりとひれふしたが、
玉置坊主だけはほとんどたおれなかった。
寒さばかりか暑さにもつよいという評判のうえに、味もよい。
このごろではどの検査場でも、〇にタという赤い標識は
優良米としてあつかわれている。
豊太郎と直次の執念が、ようやく形をとりつつあった。
(50~51p)
北海道での米づくりでは、
実際にこのようなことがあったと思います。
ここまで詳細に書いてあるので、
「玉置坊主」は実話だと思って、
実際にインターネットで調べましたが、
見つかりませんでした。
知れば知るほど北海道米より年表を転載。☟
ふと脱線して、「ゆめぴりか」について書きたくなりました。
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