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2015年4月12日 (日)

ペリリュー島に関するニュース5/父親の記憶がない遺族、戦車地雷

  

今日は4月12日。

  

前投稿のつづき。

  

下記の投稿で、田中恭子さんのことを書きました。

ここでも道草 ペリリュー島に関するニュース2/両陛下の9日の動き(2015年4月11日投稿)

その田中さんについては、4月9日の朝日新聞夕刊に記述がありました。

ペリリュー島の記事は、1面に大きく載っていましたので、

4分割してスキャナしました。

載せてみます。

Epson578

Epson579

Epson581

Epson580  

田中さんの記事は4つ目です。

「遺族」と言いますが、田中さんのように、

父親の記憶がない遺族もいるわけです。

その田中さんは父親の姿を追って、月日を重ねてきたようです。

自分は昨年やっと知ったペリリュー島の戦いは、

このような遺族を生み出していました。

  

  

土田喜代一さんは、「瓶の中の2匹のサソリ」発言をした人として、

とても印象に残っています。

ここでも道草 「ペリリュー」その2/瓶の中の2匹のサソリ/砲身の細い戦車(2015年8月19日投稿)

 

その土田さんが、また印象に残る話をしています。

 

「決して忘れることのできない光景」と話すのは、

地雷を手に米軍の戦車に向かっていった1等兵の姿だ。

周囲がおじけづく中、

「行って参ります!」と真っ先に手を挙げた。

「彼の勇気に命を救われたのです」

  

強烈な体験です。

そりゃあ、忘れられない体験です。

その場に居合わせたら、と考えると背筋が寒くなります。

しかし、こうやって土田さんが生き残ったから伝えられた話です。

きっと戦場では、勇気ある行動がたくさんあったと思いますが、

それを目撃した人も死んでいては、結果埋もれていってしまいます。

無念なことだと思います。

  

  

戦車地雷について調べました。

「九三式戦車地雷」がヒットしました。

「あんぱん」と呼ばれた地雷でした。

次のサイトが参考になりました。

鎮魂の旧大日本帝國陸海軍 旧軍関連収載品

このサイトを開いてスクロールしていくと、

たくさんの写真とともに紹介されています。

Wikipediaには、気になる記述がありました。

  

本地雷は対戦車用途を主眼とする。

開発は昭和4年(1929年)6月1日に始まった。

研究のための審査が行われ、結果はできるかぎり軽量化を目指すこととなった。

昭和8年(1933年)4月から本格的に研究がおこなわれ、

同年5月、伊良湖射場にて爆薬を使用し威力と薬量を算出した後略)

 ・・・・「九三式戦車地雷」(Wikipedia)

  

「伊良湖射場」は「陸軍技術本部伊良湖試験場」のことのようです。

その気になれば行くことができる場所です。

ここに訪問した人の報告があります↓

寄る辺ない軍事遺産の旅 陸軍技術本部伊良湖試験場

また行きたい場所が増えました。

試験場の中枢施設があった場所は、小中山児童公園となっているそうです。

Photo

レ点の場所が、小中山児童公園のある場所です。

 

  

土田さんは、4月9日の「NEWS23」でも、この体験について語っています。

次の投稿で書きます。

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