2019年10月26日 (土)

通算6600本目の投稿/「異色の戦争画」①日本兵の死を描いた作品

  

今日は令和元年10月26日。

  

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9月8日放映の「日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家

小早川秋聲」を見ました。 

番組の内容を少しだけ読み物化します。

  

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鳥取県日南町にある美術館に異色の戦争画があります。

横幅2メートルをこえる画面に、戦死者の姿が描かれています。

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絵のタイトルは「国之楯(くにのたて)」

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昭和19年の作品です。描いたのは小早川秋聲

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陸軍から要請されて戦争画を描いていた小早川ですが、

この「国之楯」は陸軍から受け取りを拒否されました。

  

戦争中、多くの画家たちが、国民の士気を高めるために

戦争画を描きました。

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☝ 戦争前期。日本軍の落下傘部隊の勇ましい戦闘の絵。

  

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☝ 戦争後期。日本軍が玉砕した戦いの絵も描かれましたが、

殺されているのは、日本兵はなくて敵国アメリカ兵でした。

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日本兵の死は描かない。

そんな暗黙のルールがあった戦争画にあって、

「国之楯」は異色だったのです。

  

つづく

  

薬の話/7年間飲んできた薬

今日は令和元年10月26日。

  

7年前の記事です。

ここでも道草 コレステロールを減らすぞ(2012年12月27日投稿)  

コレステロールが高くなるのを抑えるために飲み始めた薬。

7年前は「コレステロールをさげるぞ!」と

意気盛んでした。

当初はクレストール錠でしたが、

今はロスバスタチン錠2.5mg「DSEP」を毎晩2錠飲んでいます。

Photo QLIFE

 

もう7年も内科病院に通っています。

4週間ごとです。

自分の性格上、薬はほぼ忘れずに飲んでいます。

時々血液検査をします。

コレステロールの値は確かに正常です。

  

でもふと思ったのです。

一生、この薬を飲み続けなければいけないのか。

4週間に一度内科病院に行き、

待たされる時には1時間以上の時もあり、

短い時間診察されて、「大丈夫ですね」のくり返し。

お金も毎回2350円(診察代・薬代)かかります。

血液検査があると3670円です。

  

動脈硬化で死にたくはないけれども、

一生薬を飲み続けるのは異常ではないかと思ったのです。

ふだんの生活を改善して、自力で治せないものかと

思い始めました。

  

 

先日、内科病院の先生に聞いてみました。

この薬は一生飲み続けなければならないのかと。

そしたら立てつづけにこう言われました。

  

飲み続けなければいけません。

副作用もないし、いい薬です。

検査の結果、いい結果が出ています。

だからやめてはだめです。

私も飲んでいます。

惑わされては行けません。

  

「惑わされては」は、私が何か飲まなくてもいいのではと

アドバイスを受けたと思っての発言だと思います。

う~ん、直接アドバイスを受けたことはありませんが、

気になっている本はありました。

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今度読もうと思って、図書館に予約しています。

  

一度、飲み続けてる薬について考えてみたいです。

  

2019年10月25日 (金)

あの緩やかな尾根を歩いてみたい

 

今日は令和元年10月25日。

  

先日、鳳来寺山に登った時に見えた、

気になった山について書きます。

ここでも道草 20191015報告 鳳来寺山前編(2019年10月22日投稿) 

☝ ここに写真を載せました。

今一度載せます。☟

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この平らな山頂が気になりました。

 

鳳来寺山を一緒に登ったKさんが、調べて教えてくれました。

この山の名前は浅間山弓張山(ゆみはりやま)でした。

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国土地理院

 

弓張山と浅間山は、鳳来寺山から見たら南東にありました。

グーグルマップの3Dで見てみます。

グーグルマップ 弓張山 

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浅間山と弓張山との間の、緩やかな尾根を歩いてみたいです。

     

    

  

そう思っていたら、どうやら昔、登ったことがあるようです。

17~18年ほど前だと思います。

う~ん、忘れています。

汗をかいて登ったのに、忘れてしまいました。

でも同じ場所に立てば思い出すかも。

明日は「原子力の日」/ポスターコンクールは見合わせたまま

今日は令和元年10月25日。

  

明日、10月26日は「原子力の日」であり、

「反原子力の日」でもあります。

今日は何の日~毎日が記念日~10月26日から引用します。

 

原子力の日

日本政府が1964(昭和39)年に制定。

1963(昭和38)年、茨城県東海村の日本原子力研究所で、

日本初の原子力発電が行われた。

また、1956(昭和31)年のこの日には

日本が国際原子力機関(IAEA)に加盟した。

  

反原子力デー

「原子力の日」に因み、各地で原発反対の運動が行われる。

  

最近は福島原発関係の勉強をしていましたが、

ずっと以前からは原子力発電については、

関心があり、ブログに書いてきました。

一部、読み直してみようと思いました。

  

ここでも道草 脱原発の映画・トークその1・・・脱原発デザイン(2011年10月9日投稿)

ここでも道草 脱原発の映画・トークその2・・・大気と海で薄まる発想(2011年10月10日投稿)

ここでも道草 脱原発の映画・トークその3・・・劣化ウラン弾によるヒバクシャ(2011年10月15日投稿)

ここでも道草 脱原発の映画・トークその4・・・今こそ、エネルギーシフト(2011年10月16日投稿)

 

☝ 2011年10月16日投稿の記事では、

今こそ、エネルギーシフト

(飯田哲也/鎌仲ひとみ著 岩波ブックレット)より次の文を

引用しています。

 

そもそも、日本の教育の中で、「被曝」や「放射線」の

基本を教えるということがされてこなかった、

ということも指摘すべきでしょう。(中略)

反対に、教育に取り込まれてきたのは

「わくわく原子力ランド」という副読本で、

原子力発電の優秀さと安全性ばかりを強調したものです。

そして、原子力の日(10月26日)に子どもたちに

ポスターを描かせて表彰したりして、

まさしく国家ぐるみでプロパガンダを

教育の中で行ってきたのです。

( 鎌仲ひとみ 22p)

  

 

「原子力の日」にポスターを描かせて、

表彰することを今もやっているのでしょうか。

調べました。

「原子力」「ポスター」で検索したら、

このようなチラシを発見しました。☟

 

Photo  

まだやっているのかなと思って、さらに見ていくと・・・・

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平成22年のものでした。

2010年のことです。

東日本大震災があった前年のことです。

それ以後はどうなのか調べました。

  

response 原子力ポスターコンクールを中止 文科省と経産省

☝ 引用します。

  

2011年5月11日(水) 23時57分 

文部科学省と経済産業省は、共催で実施してきた

「原子力ポスターコンクール」について、

東日本大震災に伴う東京電力株式会社

福島第一原子力発電所の事故を踏まえ、

当面開催を見合わせると発表した。

  

  

 

廃止とは言っていないのかな。

ずっと見合わせたままで行くのかな。

やはり福島第一原発で起ったことは、

私の、国民の意識を変えたと思います。

尊い教訓を活かさなければいけないと思います。

  

  

 

今回のように、自分の過去記事を読み返して復習し、

さらに知識を重ねていくのは、理想的です。

2019年10月24日 (木)

「死の淵を見た男」/教訓をいかせず大惨事となった

 

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

 

この本は、図書館に返します。

手元から離れます。

でも読み直したい文章はたくさんあるので、

ブログに書き留めています。

今回がラスト。

長く引用します。

 

  

大津波がもたらしたこの未曾有の原発事故は、

あらゆるものに深い傷跡を残したのである。

私は、取材をつづけながら、この原発事故が

さまざまな面で多くの教訓を後世 に与えたことを

あらためて痛感した。それは、単に原子力の世界だけの

教訓にとどまらず、さまざまな分野に共通する警句であると思う。

  

そして、現場で奮闘した多くの人々の闘いに敬意を表すると共に、

私は、やはりこれを防ぎ得なかった日本の政治家、官庁、

東京電力……等々の原子力ェネルギーを管理·推進する人々の

「慢心」に思いを致さざるを得なかった。

  

この事故を防ぐことのできる“最後のチャンス”は、

私は実は「二度」あったと思う。その最大のものは

9・11テロの「2001年9月11日」である。

  

あらためて言うまでもないが、安全を期して二重、三重に

「防御」を張りめぐらしている原発の敵は、

「自然災害」「テロ」である。

  

今回の福島第一原発の事故の最大の要因となった、

海面から10メートルという高さに対する過信は、

その中の「自然災害」に対するものだ。

「まさか10メートルを超える津波が押し寄せるわけがない」

その思い込みには、過去千年にわたって福島原発の立つ浜通りを

「そんな大津波が襲ったことがない」という自然に対する

「侮(あなど)り」、言い替えれば「甘え」が根底にある。

  

しかし、自然災害が過去の災害の「範囲内」に終わるという保証は、

まったくない。それは、人間の勝手な思い込みに過ぎない。

これは、自然に対する人間の驕(おご)りとも言えるだろう。

  

この驕りに対して、警鐘を鳴らしたのが、実は、

あのオサマ・ビン・ラディンによる9・11テロだったと思う。

ビン・ラディンは自然災害とは関係がない。彼がおこなったものは、

テロである。だが、およそ三千人もの犠牲者を出したこのテロは、

原子力発電に対しても、大きな警鐘を鳴らした。

予想を超えた規模のテロは、原発に対する最も大きな脅威で

あることを人々に知らしめたのである。

  

アメリカの原子カ関係者の動きは素早かった。

ただちに、テロ対策を強化し、その中で、

「すべての電源を失った場合、原子炉の制御をどうするか」

ということが、以前にも増して議論されることになった。

そして、5年後の2006年、

アメリカのNRC(原子力規制委員会) が対策のための

文書を決定し、それは、日本にも伝えられた。

   

その中には、全電源喪失下の手動による各種の装置の

操作手段についての準備や、持ち運び可能な

コンプレッサーやバッテリーの配備に至るまで

細かく規定されていた。

  

テロがもたらすものも、自然災害がもたらすものも、

原発にとっての急所は、「全電源喪失」であり、

「冷却不能」であるという事態に変わりはない。

しかし、わが国の原発では、「全電源喪失」「冷却不能」の

状態がもたらされる可能性を、それでも想定しようとはしなかった。

「日本では、そんなテロが起こるはずがないーー日本に照準を

定めるミサイル配備をおこなっている国を周辺に

抱えているにもかかわらす、根拠のないそんな思い込みが、

ここでも原子力エネルギーを推進、管理する指導者たちに

蔓延していた。だが、その「テロ」に匹敵する、いや、

ある意味ではそれ以上の「災害」が原発を襲ったのである。

  

非常に辛練で俗っぽい表現だが、私はあえて

"平和ボケ”という言葉を使わせてもらおうと思う。

日本だけは「テロの対象」になり得ない、 あるいは、

日本では原発がミサイル攻撃を受けるはずがない

という幼児的ともいえる楽観思考は、原子力行政にあたる

指導者として、あるいは実際の原子力事業にあたるトップとして

「失格」であると私は思う。

  

テロ、あるいは紛争が原発にもたらすだろう

「全電源喪失」「冷却不能」という事態を少しでも

考慮に入れていたなら・・・と私は残念でならない。

アメリカと同様、いくばくかの措置に踏み込んでいたら、

「全電源喪失」「冷却不能」に対処する方法が考えられ、

言いかえれば、自然災害においても、これほどの大惨事には

至らなかったということだ。

だが、その最大のチャンスは、失われた。

(368~370p)

  

 

教師は、さまざまな教訓を知っていて、

目の前の児童・生徒に伝えるのも仕事であると思います。

9・11テロを実際に見た者として、

福島第一原発の惨事を見た者として、

発信しなくてはいけないと思います。

そのためには、見ただけでなく、見えなかったことも

知る必要があると思います。

今回の本を読んでそう思いました。

  

福島にいくぞ!

最後に映画の宣伝。この本が原作です。


YouTube: 福島第一原発事故を映画化!『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)特報

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「死の淵を見た男」/すごい58歳

 

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

  

すでに、身体はぼろぼろになっていた。

免震重要棟のトイレは、真っ赤なっていた、と伊沢は言う。

「トイレは水も出ないから悲惨ですよ。

流すこともできませんからね。

みんなして仮設トイレを運んできて、それが一杯になったら、

また次の仮設トイレを組み立てながらやってましたけど、

とにかく真っ赤でしたよ。みんな、血尿なんです。

あとで、三月下旬になって、水が出るようになっても、

小便器自体は、ずっと真っ赤でした。

誰もが疲労の極にありましたからね」

(278p)

  

現場の過酷さを物語る出来事だと思いました。

  

  

吉田(一弘)の「やり残したこと」とは、何だったのか。

「かみさんに”ありがとう”という感謝の気持ちを

伝えていなかったことです。

もう自分は、生きてはいられないかもしれない、

と、思っていました。

緊対室は、テレビが映っていたので、自分たちのいる発電所が

どうなっているかは、家族にはわかっているだろうと思っていました。

そういうことを書いた上で、かみさんに”ありがとう”と伝えました。

これまで幸せだった、と」

(中略)

妻から吉田に返ってきたメールには、こう書かれていた。

〈何を言ってるの、必ず帰ってきて。今すぐ帰ってきて〉

それは、愛する家族の偽らざる気持ちが凝縮された言葉だった。

(314~315p)

  

  

 

それぞれの人間が、それぞれの「家族」を背負って闘っていた。

伊沢は、吉田所長が「各班は最少人数を残して退避!」という

指示を出した時、初めて26歳を筆頭とする3人の息子たちに

緊対室からこんなメールを送っている。

「お父さんは最後まで残らなくてはいけないので、

年老いた祖父さんと、口うるさい母ちゃんを、

最後まで頼んだぞ」

それは、ユーモアを交えながらも自分の覚悟を

息子たちに伝えたものだった。

息子たちからは、「おやじ、なに言ってるんだ。死んだら許さない」

というメールが返ってきた。

(317p)

 

結果的に生きて、再会できてよかったです。

  

  

福島第一原発の運転管理部に所属していた

寺島祥希(よしき/享年21)は地震発生後、

4号機の点検のために同僚1人と一緒に

地下に入って津波に巻き込まれ、3週間近くが

経過した3月30日に同僚と共に遺体となって発見された。

(320~321p)

  

ここにも犠牲者がいたことを忘れないでいたいです。

書き留めました。

  

  

吉田(昌郎/まさお)は、事故から八ヶ月後、突然、

食道癌の宣告を受けた。

凄まじいストレスの中で闘ってきた吉田の身体は、

いつの間にか癌細胞に蝕まれていたのである。

(351p)

福島第一原発所長として、最前線で指揮を執(と)った

吉田昌郎氏に私がやっと会うことができたのは、

事故から1年3ヶ月が経過した時だった。(中略)

癌に倒れ、手術を経た吉田氏は、げっそりと痩せ、

事故当時の姿とはすっかり面変わりしていた。

病いを押して都合二回、4時間半にわたって私のインタビューに

応えてくれた吉田氏は、2012年7月26日、

3回目の取材の前に、凄まじいストレスや闘病生活で

ぼろぼろになっていた血管から出血を起こし、

ふたたび入院と手術を余儀なくされた。

(8p)

 

吉田さんのその後。

Wikipediaには次のように書いてありました。

  

治療のかたわら、原発事故に関する回想録の執筆を行なっていたが、

2013年7月8日の深夜に容態が悪化、翌7月9日、

食道癌のため慶應義塾大学病院で死去。58歳没。

  

今の自分と同じ年です。

すごい58歳でした。

「死の淵を見た男」/最近のニュースとつながる

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

 

 

津波から12時間余が経過し、

ついに原子炉に水が注入されるのである。

吉田は、こう語る。

「海水注入なんて、誰でもすぐにできると思っているとかも

しれませんが、そんなことではないんですよ。

それを簡単にできるかのように思っているかもしれませんが、

そんなことはないんですよ。

それを簡単にできるかのようにおっしゃる方もいますが、

そういう話を聞くと、憤りを感じますね。

現場が、どんな気持ちで水を見つけ、

そして進路を確保してやっているのか、

そういうことをまったくわからないまま、想像もしないまま、

話していますからね。

頭で考えるよりも、時間はいくらでもかかるわけです。」

しかし、福島第一原発の消防車は、三台のうち二台が

津波で打撃を受け、まともに動けるのは「一台」しかなかった。

消防車の確保、それが喫緊の課題となっていた。

(101p)

  

この状況で駆けつけたのが自衛隊の消防車でした。

  

 

東電の副社長、武藤栄(60)は、この時、

池田と共にオフサイトセンターにいた。

武藤は、地震が発生して1時間も経たない午後3時半に

本店を出発、東電が契約している江東区新木場にある

ヘリポートから、福島に向かっている。

事故が起きた場合は、地元の自治体への対応など、

現地にはさまざまな仕事がある。

とにかく副社長である自分がオフサイトセンターに

行かなければならない。

武藤は、そう考えていた。

だが、武藤の福島入りは困難を極めた。

民間のヘリは、日没になれば飛ぶことが規制されるため、

その前に現地入りしなければならない。

しかし、3時半に本店を出た武藤は、

地震による都内の大渋滞に巻き込まれ、車が立ち往生したのだ。

そのため、武藤は途中で車を降り、「走って」いる。

この時、埋立地の江東区で液状化した道路で

武藤は砂の中に嵌(は)まってしまった。

身長186センチという長身の武藤が、

液状化による砂に膝の上まで嵌まって動けなくなったのだ。

人に助けてもらって砂の中を抜け出し、

下半身を泥だらけにしながら、

二度もヒッチハイクをして、やっとの思いで新木場の

ヘリポートに到着している。

武藤を乗せたヘリが離陸したのが午後5時12分、

福島県双葉郡富岡町の福島第二原発の敷地に着陸したのは

午後6時29分のことだった。

(133p)

 

9月19日に福島第1原発事故を巡り、

業務上過失致死傷罪で強制起訴された旧経営陣3人に

無罪判決が下りました。

その中の1人が武藤栄さんでした。

Photo sputniknews

武藤さんは、その時一生懸命でした。

  

  

彼ら原子力制御のプロたちは、放射線の怖さは頭に染みついている。

強い放射線に曝(さら)されれば、人間の細胞は破壊され、

無残な最期を遂げることになる。

1999年に起こった茨城県東海村のJCO臨界事故の

被曝作業員が、身体中の細胞がぼろぼろになって

凄惨な死を余儀なくされたことは、彼ら原子力に携わる人間たちには、

忘れようとしても忘れられないものだった。

(180~181p)

 

1999年の事故は今年で20年。

ニュースで流れていました。


YouTube: JCO臨界事故から20年 茨城・東海村職員らが黙とう(19/09/27)

Photo_2  

自分の中では、風化してしまった事故だったので、

本を読んで思い出せ、ここに書き留めることができてよかったです。

「死の淵を見た男」/原発が誘致された理由

今日は令和元年10月24日。

  

前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より

引用していきます。

  

冬場が来れば一家の主が大都会に出稼ぎに出ることが

あたりまえだった福島県双葉郡。

その地元を活性化させるために原発誘致を目指す自治体側と、

初の原子力発電所をこの地に誕生させたい東京電力との

意向が合致し、福島第一原発の一号機は、

1966年末に着工したのである。

東京電力で誘致に特に熱心だったのが、

福島県伊達郡の梁川町(現在の福島県伊達市)出身の

木川田一隆社長(当時)である。

なんとしても出身地・福島県に原発を誘致したかった

木川田の思いは、冬場は出稼ぎに頼らざるを得ない

福島県の浜通りの貧困さと無縁ではなかっただろう。

(16p)

 

なぜあの場所に原発があったかの歴史は知っておくべきです。

※関連:ここでも道草 「中間貯蔵施設に消えたふるさと」③/売却を説得した渡辺さん(2019年10月8日投稿)

その上で、どうしたらよかったのか。

これからどうするかです。

  

 

福島第一原発の1~4号機の非常用ディーゼル発電機と

配電盤は、海面10メートルの敷地にあるタービン建屋の

地下室に設置されていた。

福島第一原発の津波の想定は、建設時には約3メートル、

その後、2009年には、およそ6メートルの高さへの

対策となった。

しかし、それ以上の高さに対する備えは、

まったく施されていなかった。

非常用ディーゼル発電機やメタクラ(メタル・クラッド・

スイッチ・ギア metal clad switch gear)呼ばれる

高圧配電盤がタービン建屋より高い場所に移されることはなく、

今回の津波によって、ひとたまりもなく

水没してしまったのである。

そこにこそ、自然災害に対する東電の油断と驕(おご)り、

さらに言えば慢心が存在したのではないか、と思われる。

(54p)

    

この事故はやっぱり教訓にならないといけないのです。

台風15号、19号の被害もしかり。

自然災害の想定を上げなければいけないのですね。

個人レベルでも。

   

 

吉田(昌郎)は、そんなことを指示しながら、

「次」のことを考えていた。

消防車の手配である。原子炉を冷やすことができなければ、

直接、水で冷やすしかない。

水なら海にいくらでもある。

では、その水をどうやって運ぶか。

「とにかく水で冷やすほかはない。では、もし、

水を入れられなかったら、どうなるんだろうと。

それはもうずっと、その時から思っていましたね。

私は水をプラントに入れるには、消防車しかない、

と思いました。

海からの距離がありすぎて、消防車のホースが

届かなければ、消防車を”つなげばいいじゃないか”と。

そう考えました。」

多くの専門家が驚くのは、この早い段階で吉田が、

消防車の手配までおこなわせたことである。

(59p)

  

対応策が浮かぶかどうか。

それまでの体験・知識をフル稼働して

アイデアが浮かぶかどうか。

これはどの仕事でも、追い込まれた時には、

浮かぶ頭にしておきたいと思います。

  

  

(元大熊町長の)志賀は昭和6年(1931年)10月に

生まれた。福島県双葉郡熊町村(注=現在の大熊町)の

夫沢(おっとざわ)である。

彼ほど福島第一原発にあるこの地の変遷を知る人物は

おそらくいないだろう。

志賀はこの地がただの原野だった頃、

そして戦時中に造成されて陸軍の飛行場になった時期、

さらには戦後に同地が塩田になった時も、

そして福島第一原発がつくられ、近代的な施設が

立ち並ぶ地に変貌したすべてを目撃し、

そして、それらに直接かかわってきた人物なのである。

(84p)  

 

私が今行きたいと思っているのは福島県大熊町です。

関連:ここでも道草 「中間貯蔵施設に消えたふるさと」①/中間貯蔵施設とは?(2019年10月8日投稿)

知識を積み重ねておいて、

実際に現地で味わってきたいと思っています。

この本を読んだ理由でもあります。

  

 

2019年10月23日 (水)

昨日、また本を読破しました

今日は令和元年10月23日。

  

昨日、また本を読破しました。

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死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日

(門田隆将著/PHP研究所)を読みました。

※関連:ここでも道草 活字中毒になってきたぞ(2019年10月14日投稿)

  

 

休みをいただいたことで、

本を読破できるようになりました。

拾い読みが精一杯だったのに、

今はできます。

教材研究のつもりで読みました。

いつか役にたつかもと思っています。

  

 

375pの本の374pから引用します。  

「おわりに」の終わりの方の文章です。

  

 

私は、これまで多くの太平洋戦争の関連の書籍を上梓している。

太平洋戦争の主力であり、二百万人を超える戦死者を出した

大正生まれの人々を、私は「他人のために生きた世代」と捉え、

それと比較して現代の日本人の傾向を

「自分のためだけに生きる世代」として、論評してきた。

しかし、今回の不幸の原発事故は、はからずも現代の日本人も、

かつての日本人と同様の使命感と責任感を持ち、

命を賭けてでも、毅然と物事に対処していくことを教えてくれた。

その意味では、この作品で描かせてもらったのは、

原発事故の「悲劇の実態」と共に、最悪の事態に放り込まれた時に

日本人が発揮する土壇場の「底力と信念」だったかもしれない。

なぜ彼らは、ここまで踏ん張れたのだろう。

同時代を生きるひとりの人間として、私は取材のあいだ中、

そのことを考えつづけた。

その答えが、本作品で読者の皆さんに少しでも伝われば、

これに過ぐる喜びはない。

   

 

大正生まれの人たちを「他人のために生きた世代」と

捉えたところが、なるほどと思いました。

   

なぜ踏ん張れたのか。

その答えをここに書けませんが、

同じ状況に置かれたら、自分はどうするだろうかと思いながら

読みました。

無理かもしれないけど、自分も踏ん張りたいと思いました。

お手本を示された気持ちです。

クイズ番組「東大王」で知った「擽る」の読み方

今日は令和元年10月23日。

  

今晩放映のクイズ番組「東大王」で 大きな収穫がありました。

難読オセロのコーナーで、「擽る」の読み方を知りました。

何と読むかわかりますか?

少し考えてみてください。

  

  

 

  

  

  

  

「擽る」

手偏に「楽しい」です。

その読み方は、

くすぐる」でした。

Photo 朝の元気になるイラスト画像コーナー♪

 

手偏で「楽しい」で、「くすぐる」と読むなんて

素晴らしい!

うれしくなってしまいました。

  

教育手法として「くすぐり」を

真面目に考えている私にとって

飛び上がって喜ぶほどのことでした。

  

※参考?:ここでも道草 くすぐってでも笑わせる実践/教育は伝染・感染(2017年5月1日投稿)

    :ここでも道草 この1年間のキーワードは「くすぐり」(2018年3月23日投稿)

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉