2019年11月19日 (火)

「燃える海山」④/北海道空襲 室蘭艦砲射撃

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

   

ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

☝ まずはここから引用します。

  

7月14日-15日  北海道空襲。死者約2000人(室蘭艦砲射撃の死者数を含む)。 

  

この空襲に関する「燃える海山」の記述を引用します。

  

1カ月前の7月14日、北部軍管区司令部は、B29、20機と

艦載機300機が、くりかえしくりかえし7時間ものあいだ、

函館、室蘭、帯広、釧路を攻撃した、と発表した。

 

根室では350機の集中攻撃を受けて、町は延えん19時間も

燃えつづけた。3500戸のうち2500戸を焼いた火は、

家いえにある石炭に引火して、昼も夜も炎を吹きあげた。

 

この日は、青函連絡船もしつこい攻撃を受け、12せきのうち

11せきがしずめられた。今朝男(けさお)が通信士として

のっていた第四青函丸は、6キロの沖で8機の敵機につかまり、

蛇行したままにげまわったものの、とうとう沈没した。

アメリカ機は、船がしずんでからも漂流する人間をねらい撃ってきた。

今朝男はなんども水中にもぐって、やっとのことで助かった。

  

つぎの15日には、ただ1せきのこった第一青函丸も、

青森県三厩(みんまや)灯台1キロのところで、グラマン19機に

おそわれてしずんだ。2日にわたる攻撃で、北海道と本州をむすぶ

船便はまったく絶たれたことになる。

  

おなじ15日、和彦の高射砲隊がいる室蘭市の輪西(わにし)は、

午前9時半からきっかり1時間、顔もあげられないほどの

艦砲射撃に見まわれた。日本製鋼、日本製鉄は炎えんと黒煙をあげ、

死者は500人をこえた。子どもがかくれた防空壕が直撃され、

30人が即死した。

(218~219p)

 

  

繰り返しますが、地元の豊橋空襲(昭和20年6月19日‐20日)と、

豊川海軍工廠空襲は、それなりに調べて知っています。

でも全国で空襲はあって、悲劇が起こっていました。

今回の読書で、北海道の空襲のことを少し知ることができました。

 

すこし調べました。

室蘭艦砲射撃慰霊碑(北海道室蘭市中島本町2-8)

Photo_00 総務省HP

碑文を引用します。

  

慰霊碑  

第二次世界大戦も終局に近い昭和二十年七月十四日十五日

の両日にわたる艦砲射撃のために中島社宅在住の人達

百九十二名の尊い人命が失われた

当会では終戦後毎年この人々の冥福を祈ると共にこのよう

な過ちを再び繰り返さないために慰霊祭をおこなって来た

がこの度この碑を建立し犠牲者の冥福を祈るものである

 

  昭和三十四年三月二十一日  中島社宅民和会

 

 

それぞれの地域に忘れちゃいけない歴史があります。

「燃える海山」③/「隊長はじめ全員が死んだ。」

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

広島に新型爆弾が投下されてから3日後の8月9日、

カラフトではふいにソ連軍が国境をこえた。

敷香(しずか)の町にながれこむ幌内川(ほろないがわ)の

上流国境地帯は、ミズゴケやハイマツのしげるやせた

ツンドラ地帯である。その広大な原野にいくつかの派出所が

あって、8人の警官が常駐していた。

ソ連兵が侵入してきたのは、午前7時半ごろである。

銃弾がかすめ飛ぶ中を、警察官は応戦しながら、家族をつれて

南方へとにげた。うまいぐあいに、うしろにびっしりと霧が

閉ざした。ソ連兵は追ってこなかったが、撃たれたものか

ふたりの巡査もすがたを見せなかった。これが最初の交戦だった。

とっくに電話線は切断されていた。

(178p)

  

8月8日にソ連は、日本に宣戦を布告。

その知らせを受けていない国境で、このようなことが

起こっていたのですね。

        ☟ ここが当時の国境

Epson118 (裏表紙裏の地図をコピー)

そして終戦の8月15日には次のようなことがありました。

長いけど引用します。

  

翌(8月)15日、ソ連軍はますます数をまし、戦車は50台、

砲十数門、兵は千数百人にふくれあがっていた。

古屯(ことん)兵舎には速射砲が二門あったが、

戦車砲を2,3発受けただけでしずかになってしまった。

あとに弾薬箱だけがのこった。

この部隊に、明治43年につくられたという、おそろしく古い

連隊砲が1門のこされていた。訓練用の見本で、カラフトにきてから

一発も実弾を発射したことがないという骨董品だった。

 

戦車が近づいてくるのを見た下村伍長らが、このやたら砲身の長い

大砲をひっぱりだしたときだった。

「敵戦車接近します。」

という声に、しっかりと陣地をさだめるゆとりもなく、

「ゼロ距離射撃、直接照準。」

下村伍長が大あわてで号令をかけた。

「撃てっ。」

水平にした砲身から、どっと砲弾がふいた。すると、おどろくべき

ことがおこった。速射砲も歩兵隊砲もまるで受けつけなかった戦車が、

かく座※してうごかなくなったのである。中からあわてた迷彩服の

ソ連兵がとびだしてきた。  

  

味方がワッと歓声をあげた。はじめての戦果だ。明治の大砲はなおも

火を吐きつづけた。3台め、4台めと戦車はうごかなくなり、

とびだした兵が空に飛ぶ。7台めは300メートルほど前方で

キャタピラが吹っとび、くるりと向きをかえてうごかなくなった。

5,6秒できめるのだが、ねらいはたしかだった。ほとんど一発で

命中させた。命中させると、土塀の裏にひっぱりこんで弾丸をこめる。

つぎの目標があらわれたとなると、路上にひきだしてぶっぱなした。

15台、16台・・・・。

  

この骨董品の連隊砲は、なんと32台の戦車をかく座したあと、

沈黙した。味方はふるいたった。何台もの戦車を破壊したのは大きかった。

しかし、敵は大部隊である。負傷兵は担架にくくりつけられたまま、

兵舎の庭にほうりだされたままだった。横山中隊長はじめ、つぎつぎと

戦死していく。小村大隊長はのこった60人ほどをあつめて、

森の中ににげた。夜になるのを待って斬りこむつもりだった。

しかし、あべこべにつっこんできた敵兵にあい、隊長はじめ全員が死んだ。

  

ソ連軍は、とうとう古屯川をわたりはじめた。ひざまでの水を

けとばしながら、自動小銃をめった撃ちにしながらおしわたってくるのは、

からだがすくむほどの迫力だった。日本軍も撃ちに撃った。

小銃の撃しんは赤く焼けた。こわいから撃っていたともいえる。

戦友の遺体を楯に撃っていた者も、いつのまにか息絶えていた。

  

夕方になって、ソ連兵の射撃がやんだ。かたっぱしから幹を

ひきさかれたシラカバが、むごいほど赤い夕日に焼けていた。

あちこちでうめき声がきこえる中を、わずかに生きのびた日本兵が、

ツンドラの上の水をすすりながらにげた。

軍馬がしょんぼり立っていても、ふりかえる者はなかった。

はるばる日本からはこばれてきた馬は、いまはじゃまでしかない。

  

これが、8月15日のことである。ポツダム宣言を受けいれて

日本が無条件降伏をした日、カラフト国境では、いま非常理な

戦闘が開始されたばかりだった。

(184~186p)

  

※【かく座】=擱座 戦車・車両などが破壊されて動けなくなること。

  引用:goo辞書

   

著者の川村さんは、取材をして実際にあったことを書いていると

思って読みました。自分だけが読んだだけでは、不十分。こういうことが

あったということは、私のブログの読者に知ってもらいたいと思い、

書き留めました。 

 

8月15日以降、兵士や非戦闘員の人たちがいっしょくたになって

ソ連と戦い、ソ連から逃げたかを、8巻後半は書いていました。

「燃える海山」②/置戸の強制労働・土浦の空襲

  

今日は令和元年11月19日。

  

前投稿に引き続いて、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)より引用していきます。

  

置戸(おけど)に千人をこす中国人がはこばれてきたのは、

昭和19年の5月からだった。子どものような若者から、

髪の毛が半分白いやせた男たちまで、貨車をおりると

ぞろぞろと坂をのぼってきた。憲兵や巡査が前後をかためていた。

捕虜だという者も、いや〈兎狩り〉でつかまったのだと

うわさする者もあった。土地の顔役に金をつかませておいて、

14,15歳から50歳ぐらいまでの男を、むりやりかすめとって

くるというのである。事務所の中でも、真相はよくわからなかった。

憲兵がついているのは、脱走のおそれがあるからだろう。

坑道のちかくに、三つの華人寮がたてられ、1キロほどはなれた

ところに、300人ほどの朝鮮人も収容された。

(143p)

  

新十津川物語は、歴史上の出来事を巻き込んできます。

北海道の「置戸」では、戦時中に水銀採鉱が行われていました。

そこに大量の中国人、朝鮮人が連れてこられ、強制労働が

行われました。この置戸には、主人公のフキの長女あやが住み、

水銀採鉱にかかわります。

 

  

 

昭和20年6月10日の茨城県土浦。

ここには主人公フキの孫の中崎勲が予科練生として

土浦海軍航空隊にいました。

そこがアメリカ軍の空襲を受けました。

 

高射砲の弾幕がつぎつぎと空に打ちあがりました。

味方の機銃も火を吐いている。しかし、高度わずか500、600

メートルの低空を飛んでいる巨体はびくともしない。

頭上をよこぎるとき、日をさえぎって地上はほんのすこし

くらくなる。ちかくで見るB29はそれほど大きかった。

(中略)

30機ばかりのB29の編隊は、黒々と土浦の町はずれを

通過していった。やがて、霞ケ浦航空隊のあたりでも爆弾の音がした。

むこうでも乗員を養成していた。鳥人たちの巣を、まだひなのうちに

たたいておこうというのであろうか。

(172p)

  

この日、土浦だけで280人が、霞ケ浦では111人が死んだ。

土曜から日曜にかけて外出していた士官もおおかったから、

平日ならもっと犠牲者がでたことだろう。三波にわたった

B29の群れは、ほぼ30メートルおきに250キロ爆弾を

落としていったことになる。

(176p)

私が住んでいる近くで起こった豊橋空襲、

豊川海軍工廠空襲については勉強し、

このブログにも書いてきました。

しかし、昭和20年は、全国のいろいろなところで

空襲がおこり、悲劇があったんだよなとあらためて思いました。

※参考:ここでも道草 昭和20年6月19日~10月15日の出来事(2011年6月25日投稿)

2caf1ad36d33eec14bb30ba15b3b1d54 太平洋戦争とは何だったのか   B29

 

  

次の記事では、樺太であったことを書きます。

主人公フキの息子、孫たちが巻き込まれていきます。

「燃える海山」①/浩次郎が志願して「回天」に搭乗

 

今日は令和元年11月19日。  

  

昨日、「燃える海山 新十津川物語8

(川村たかし著/偕成社)を読み終えました。

51lysanefal amazon

全10巻の「新十津川物語」の8巻目です。

  

図書館に返却する本なので、手元に残しておきたい文章は

いつものように書き留めておこうと思います。 

山口県の大津島に、主人公のフキの孫、中崎浩次郎が赴任します。

そこは新兵器「回天」の秘密基地でした。

浩次郎は志願しての赴任でした。

  

「よし。わたしは当隊指揮官、坂倉少佐である。貴様たちは

きょうこれから、おれの部下になる。数千人の中からえらび

ぬかれた精鋭ときくが、いままでの教育隊とちがって、

実施部隊、戦闘部隊である。なにごとにも、いのちがけで

立ち向かうように。」

浩次郎はわけもなく、小さくふるえた。すぐそばに死がある

という実感だった。司令のことばがさりげないだけに、

ぎくっとするような重みがあった。いままでことばの上で

わかってはいたものの、死ぬということはまだ自分のそばには

きていなかった。だが、ここにはもう足もとに生と死の

別れ道がある。

(38p) 

  

フキの家族が「回天」にかかわります。人間魚雷の「回天」。

それにかかわった人たちは「死」をどう感じたのでしょうか。

川村さんはここで「すぐそばに死がある」と表現しました。

少佐の話の続きです。☟

  

「貴様たちには、この兵器にのってもらう。回天という。

いまは機密保持のために『丸六』といっているが、

いうまでもなく人間魚雷だ」  

少佐はあたりを見まわした。

「数日まえ、これをつくりだしたひとり、黒木大尉

(だいい/海軍では、とくにダイイとよんだ)が訓練中殉職した。

わらわれは黒木のしかばねをこえてゆかねばならん。

当隊はまだ発足したばかりだが、海軍首脳部の回天によせる

期待は絶大である。回天、すなわち天をめぐらす起死回生の兵器、

戦いの流れをかえるという意味を考えれば、貴様らは日本の

苦境を打開する尖兵(せんぺい)である。」

(39p)

  

「回天」がなぜ生まれたかが語られています。

もう少し「回天」の説明部分を引用します。

  


人間魚雷回天が試作されたのは、昭和19年2月に、日本軍の

敗戦がほぼ確実になってからである。潜水学校を卒業した

黒木博司と仁科関夫のふたりの士官の発案である。

巡洋艦から発射される九三(きゅうさん)式魚雷を改造した

もので、頭部に1.55トンの火薬をつめ、人が操縦する。

ただし、帰還することははじめから考えられていなので、

中からハッチをひらくこともできない。いちど発射してしまえば、

生きて還えることは万に一つもないしくみになっていた。

(40p)

  

中からハッチをひらくことができないのは、ショックでした。

狭い空間に閉じ込めあっれて、自分では出られない状況は、

計り知れない恐怖だった思います。

  

「回天」と言えば、小説「出口のない海」(横山秀夫著/講談社)が

忘れれられません。実際に自分が「回天」を操縦しているかのように

思わせる小説でした。

残念ながら映画は、そこまで表現できませんでした。

41tvq170jfl__sy445_ amazon  2006年製作

  

小説「出口のない海」をこれを機会に再読してみようかな。

2019年11月18日 (月)

次こそ見逃さない!「ETV特集 静かで、にぎやかな世界」

  

今日は令和元年11月18日。

  

11月15日の朝日新聞朝刊の記事です。

Epson117  

ドキュメンタリー番組「ETV特集 静かで、にぎやかな世界」を

制作したディレクターの長嶋愛さんを紹介した記事。

  

この番組が放映されたのは、2018年5月26日

再放送があったのが、2018年11月24日

再々放送があったのが、2019年5月5日

私の「録画したい番組メモ」によると、2018年5月26日

3番組録画していますが、この番組は見逃しています。

2018年11月24日も3番組を録画していますが、

この番組は録画していません。

2019年5月5日は、日曜日で、大河ドラマ「いだてん 

第17話 いつも2人で」のみ録画していました。

  

せっせと毎日録画している身としては、こういうのが残念。

番組表を見て、限られた情報でいい番組を見極めて録画する。

そんな能力をつけたいと思っています。

  

記事の引用。

 

ある日、訪れたろう学校で「輝いている先輩」と紹介された。

「あの子たちにうそをつきたくない」

  

いいきっかけが長嶋さんに訪れて、それを活かしました。

ここがいいなと思いました。

  

  

残念ながら3回もスルーしてしまった「ETV特集 

静かで、にぎやかな世界」ですが、もう一回、

私にチャンスをください。次は見逃さない。

Etv もっとNHKドキュメンタリー

  

  

 

 

旧田口線 三河大石駅の駅舎レプリカ

  

今日は令和元年11月18日。

  

前投稿で、旧田口線の三河大石駅のことを書きました。

50年前に廃線になった鉄道の駅です。

写真を探したら、すぐに見つかりました。

Photo_3

Photo_4以上2枚温泉野郎マクガイバーが行く!より

Photo_5 あつまりんて・しんしろより

  

このような駅だったのですね。

そしてビックリなのは、この小さな駅舎のレプリカがあるとのこと。

何度も通った道ですが、言われてみればあったぞ。

ストリートビューで見てみます。

ストリートビュー 三河大石駅レプリカ

Photo_6

Photo_7

見た覚えがありますが、駅舎のレプリカだと思って

見たことはありません。

今度行った時には、じっくり見てみたい。

次の水曜日に行くことができるかな。

  

  

三河大石より少し北に行ったところにあります。

静厳堂病院の道をはさんで向かいにあります。

20191113報告 黒曜石か松脂岩か? 解決篇

  

今日は令和元年11月18日。

  

今日もいろいろ動こう!

  

前投稿で、鳳来寺山中で石ころを拾ってきたと書きました。

その石が黒曜石なのか、松脂岩(しょうしがん)なのか、

鳳来寺山の麓になる鳳来寺山自然科学博物館で教えてもらためです。

ここでも道草 20191015報告 鳳来寺山中編 黒曜石か松脂岩か?(2019年10月22日投稿)

☝ この時にやりたいと思ったことを実行です。

拾ってきた石がこれです。☟

Rimg2182

Rimg2183  

下山後に鳳来寺山自然科学博物館に行き、館長に見てもらいました。

即、答えてくれました。

「これは松脂岩で間違いないです」

「黒曜石の違いは水分量。松脂岩は水分量が5~10%。

黒曜石は1%以下。

「松脂岩は欠けちゃうんで石器になりにくい」

「黒曜石は石器の材料として使うことができる」

そんな説明を受けました。

   

水分量の違い?

実はここが解決していません。

乾いている石のように見えますが、

この石の中に水分を含んでいるというか、

閉じ込めているということでしょうか?

水分を含むというのは、どういうことなのか、

また尋ねたくなりました。

  

 

館長さんと話している時に、新城市の国道沿いに

デーンんと居座っている大石も松脂岩であることを

教えてもらいました。

その大石のことはもちろん知っていて、

傍らに立っている説明板も読んだ覚えがありましたが、

印象に残っていませんでした。

  

さっそく見に行きました。

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説明板の中にちゃんと「松脂岩」の名前が入っていました。

今まで頭に入ってこなかった「松脂岩」が、

今回はすっと入ってきました。

グーグルアースで迫ります。

グーグルアース 三河大石

Photo

  

ストリートビューで下りてみます。

ストリートビュー 三河大石

Photo_2   

かつてこの付近に田口線三河大石駅があったそうです。

50年前に廃線になった田口線。

当時の写真はないのかな?

また探してみよう。

2019年11月17日 (日)

20191113報告 鳳来寺山登山

今日は令和元年11月17日。

  

久々の鳳来寺山登山報告です。

今回の登りは、乙女沢遊歩道を登山口にする初コース。

同行のKさんはすでに何回か歩いているので、

案内してもらいました。

国土地理院の地形図に、今回のコースを書き込みました。

Epson116   

地図の右下にある湯谷温泉駐車場が出発点です。

午前6時30分頃の出発でした。

 

乙女沢遊歩道入口です。☟

Rimg2123

小さな踏切を渡って、山の中に入っていきます。

 

不動滝です。☟

Rimg2125   

最初は、こんな鬱蒼とした道を進みます。☟

Rimg2128  

 

地図のP320です。☟ 大きな石が目印でした。

Rimg2130

今回、登る直前に、Kさんに「今日は四つん這いに

なるところありますか?」と尋ねました。

「ないと思ったよ」という返事でした。

ところが、ところが、岩場が出てきて、けっこうな角度に

登るところがあって、四つん這い・・・格好よくいうと

三点支持(手足3か所は斜面につける)で進みました。

「なかなかきついじゃありませんか」と言いながら

楽しんで登りました。

岩場です。☟ この木の左をそっと通りました。

Rimg2137_2

こんな岩場も・・・・どこを歩けばいいのかな?

Rimg2142

こんな岩場も・・・・

Rimg2144 

しっかり登っていて、ロッククライミングをしている

気分でした。

岩苔がありました。☟ 持って行ってしまう人もいるとか。

Rimg2139

なかなかハードな登りの連続で、

地図の「577」の地点へ。

ここに黒曜石か松脂岩(しょうしがん)か判断しかねる岩が

露出しています。

Rimg2146  

落ちていた小さな石ころを拾って、ザックのポケットに入れました。

判定してもらうためです。(次の記事で詳しく書きます)

 

この日の鷹打場です。

Rimg2147

この日の鳳来寺山本堂です。紅葉祭りの飾り付けがしてありました。

Rimg2152  

定点観測中のモミジです。思ったより赤くなっていませんでした。

Rimg2148  

※前回はここです→ここでも道草 20191015報告 鳳来寺山前編 (2019年10月22日投稿)

    

鳳来寺山定番の景色 ☟

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上の駐車場付近の紅葉はきれいでした。

Rimg2157   

湯谷峠の手前

Rimg2159

湯谷峠です。

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沢蟹(サワガニ)が登山道を横切っていました。

動きが早く、ピンボケです。

Rimg2164

ほぼ下山です。

Rimg2165

下山時刻は午前11時45分頃だったかな。

5時間15分間ほど山の中にいました。

お疲れさまでした。

地図中にある足湯に入ってくつろぎました。

 

2019

2019年11月16日 (土)

雹で、豊橋の柿が大打撃

今日は令和元年11月16日。

  

今週の月曜日、11月11日にこの地域で雹(ひょう)が

降りました。

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滅多にないことでした。

庭に出てみると、芝生の上にころころと雹がありました。

手の上に載せても融けることなく、

透明度の高い氷でした。

思わず食べちゃいました。

  

  

今日の朝日新聞朝刊の記事です。☟

Epson115  

このような被害が出ていたのですね。

雹が降るとこういうことが起こることを知りました。

社会科教師としては、知って良かったです。

食べてるどころではありませんでした。

 

枝豆ではなくて大豆でした

 

今日は令和元年11月16日。

  

今日、床屋さんに行ってきました。

自転車で30分ほどかかります。

途中の楽しみは、大豆畑です。

ここでも道草 枝豆がジャラジャラなっているのを目撃(2019年10月5日投稿)

☝ 前回の観察がこの時でした。

この時には枝豆だと思っていましたが、違いました。

今日の写真です。

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まだ収穫されていませんでした。

つまり、枝豆として収穫するのではなくて、

大豆として収穫するのだとわかりました。

無知でした。

最初は落花生と勘違い。次は枝豆と勘違い。

そして大豆。大豆でいいですよね。

一面の大豆畑です。

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ここをどうやって収穫するのだろうと思いました。

これだけ広いと、手作業とはいかないでしょう。

コンバインを使うと予想されます。

次の動画が参考になりました。


YouTube: 大豆の収穫盛ん、秋田市雄和 コンバイン軽快に

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きっともうじき、私の床屋さんへ行く道沿いでも、

このような作業が行われると思います。

実際に見てみたいなあ。

   

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