「死の淵を見た男」/すごい58歳
今日は令和元年10月24日。
前投稿に引き続き、「死の淵を見た男 吉田昌郎と
福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)より
引用していきます。
すでに、身体はぼろぼろになっていた。
免震重要棟のトイレは、真っ赤なっていた、と伊沢は言う。
「トイレは水も出ないから悲惨ですよ。
流すこともできませんからね。
みんなして仮設トイレを運んできて、それが一杯になったら、
また次の仮設トイレを組み立てながらやってましたけど、
とにかく真っ赤でしたよ。みんな、血尿なんです。
あとで、三月下旬になって、水が出るようになっても、
小便器自体は、ずっと真っ赤でした。
誰もが疲労の極にありましたからね」
(278p)
現場の過酷さを物語る出来事だと思いました。
吉田(一弘)の「やり残したこと」とは、何だったのか。
「かみさんに”ありがとう”という感謝の気持ちを
伝えていなかったことです。
もう自分は、生きてはいられないかもしれない、
と、思っていました。
緊対室は、テレビが映っていたので、自分たちのいる発電所が
どうなっているかは、家族にはわかっているだろうと思っていました。
そういうことを書いた上で、かみさんに”ありがとう”と伝えました。
これまで幸せだった、と」
(中略)
妻から吉田に返ってきたメールには、こう書かれていた。
〈何を言ってるの、必ず帰ってきて。今すぐ帰ってきて〉
それは、愛する家族の偽らざる気持ちが凝縮された言葉だった。
(314~315p)
それぞれの人間が、それぞれの「家族」を背負って闘っていた。
伊沢は、吉田所長が「各班は最少人数を残して退避!」という
指示を出した時、初めて26歳を筆頭とする3人の息子たちに
緊対室からこんなメールを送っている。
「お父さんは最後まで残らなくてはいけないので、
年老いた祖父さんと、口うるさい母ちゃんを、
最後まで頼んだぞ」
それは、ユーモアを交えながらも自分の覚悟を
息子たちに伝えたものだった。
息子たちからは、「おやじ、なに言ってるんだ。死んだら許さない」
というメールが返ってきた。
(317p)
結果的に生きて、再会できてよかったです。
福島第一原発の運転管理部に所属していた
寺島祥希(よしき/享年21)は地震発生後、
4号機の点検のために同僚1人と一緒に
地下に入って津波に巻き込まれ、3週間近くが
経過した3月30日に同僚と共に遺体となって発見された。
(320~321p)
ここにも犠牲者がいたことを忘れないでいたいです。
書き留めました。
吉田(昌郎/まさお)は、事故から八ヶ月後、突然、
食道癌の宣告を受けた。
凄まじいストレスの中で闘ってきた吉田の身体は、
いつの間にか癌細胞に蝕まれていたのである。
(351p)
福島第一原発所長として、最前線で指揮を執(と)った
吉田昌郎氏に私がやっと会うことができたのは、
事故から1年3ヶ月が経過した時だった。(中略)
癌に倒れ、手術を経た吉田氏は、げっそりと痩せ、
事故当時の姿とはすっかり面変わりしていた。
病いを押して都合二回、4時間半にわたって私のインタビューに
応えてくれた吉田氏は、2012年7月26日、
3回目の取材の前に、凄まじいストレスや闘病生活で
ぼろぼろになっていた血管から出血を起こし、
ふたたび入院と手術を余儀なくされた。
(8p)
吉田さんのその後。
Wikipediaには次のように書いてありました。
治療のかたわら、原発事故に関する回想録の執筆を行なっていたが、
2013年7月8日の深夜に容態が悪化、翌7月9日、
食道癌のため慶應義塾大学病院で死去。58歳没。
今の自分と同じ年です。
すごい58歳でした。
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