2019年10月28日 (月)

20191023報告 兀岳・夏焼山報告②兀岳下山で見た景色

  

今日は令和元年10月27日。

  

兀岳の頂上から下山中にみた景色です。

うれしいことに、1500~1600mは紅葉でした。  

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大平峠に戻ってきました。

峠のトンネルです。☟

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13年前も同じように撮影していました。☟ 11月の終わりでした。

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道路横の木が太くなったように思えます。

  

   

昼食は大平峠の東屋(あずまや)で食べました。

ふと天井を見たら、スズメバチの巣がありました。

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むむ、ハチはいるのかなと思って見ていたら、

顔を出しました。失礼しました。

差し障りのないように昼食を食べました。

前回の登山でも、スズメバチに出合っています。

季節がそういう季節なんですよね。

   

昼食中に、ドライブ中のご夫婦と話をしました。

名古屋在住の方。

山好きの方たちで、しばらく山の話をしました。

驚きは、平山明神山でヒルにやられたという話。

うわ~、三河の山々はどんどんヒルが増えいています。

大好きな山の一つ、平山明神山までも。

まいったなあ。

昼食後、夏焼山と県民の森を歩きました。

次の記事で書きます。

20191023報告 兀岳・夏焼山報告①まずは兀岳に登りました

  

今日は令和元年10月27日。

  

本で読んだり、テレビ番組で見たり、

インターネットで知ったことを、

実際にどうなんだろうと出向いて確かめる。

それが楽しい。

  

いい本があります。

3年前に注文した本です。

ここでも道草 12月24日の風越山登山その4 乙女の滝(2016年12月25日投稿)

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」(中嶋豊著/信濃毎日新聞社) 

この本には、著者が実際に歩いて描いた登山道の絵地図があります。

ほれぼれします。

そこを実際に歩いて、今もそうなっているんか実際に確かめる。

ぜひやりたいと思っていましたが、3年経ってやっと実行しました。

  

兀岳(はげだけ)と夏焼山周辺を歩いてきました。

同行者はKさんとSさんです。

13年前に登ったコースです。

  

まずは兀岳に登りました。

Kさんが用意してくれた国土地理院の地図です。

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兀岳登山口の標識です。☟

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ちなみに13年前の2006年11月です。☟

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13年の年月を感じさせてくれる標識です。

  

  

信州山歩き地図Ⅳ 里山編」の絵地図です。☟

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この絵地図を見て、ブナを見上げてみたいと思っていました。

実行しました。素晴らしい木でした。☟

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」の絵地図です。☟ 分岐です。

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実際はこうでした。☟

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山は紅葉でした。

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御嶽山です。☟ 雪をかぶっていました。初冠雪です。

この日、富士山も初冠雪。南アルプスも初冠雪でした。

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右奥には、乗鞍岳が見えました。☟

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頂上です。☟

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13年前の頂上です。☟

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信州山歩き地図Ⅳ 里山編」の絵地図です。☟ 

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兀岳頂上には、13年前にも絵地図でもベンチがありました。

しかし、現時点では全くありませんでした。

頂上を示す標識も、草の中にうつぶせに倒れていました。

様変わりしていました。

実際に行ったから、わかったことです。

  

 

パラリンピック〈8〉2020年、56年ぶりに東京でパラリンピック開催

  

今日は令和元年10月28日。

  

前投稿に引き続き、

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

  

  

再び同じ都市で開催されたのは1988年の韓国のソウルでした。

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この時、東京大会で初めて使われた「パラリンピック」の名前が

国際オリンピック協会に認められ、正式名称になりました。

(東京大会では公式名称だったけど、正式名称ではなかった。

ややこしい)

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「パラリンピック」の「パラ」は、オリンピックと「並行」して

行うことをさす「パラレル(並行)」へと、解釈が変更されました。

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来年、パラリンピックは56年ぶりに東京に戻ってきます。

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東京パラリンピックの開会式は、2020年8月25日です。

  

 

チコちゃんの質問の正式な答え。☟

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※注釈 ☟

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パラリンピックのことを継続して書いていこうと思っています。

基本中の基本の「パラ」の意味を確認しました。

  

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の読み物化完了。

  

パラリンピック〈7〉1964年東京でパラリンピック開催

  

今日は令和元年10月28日。

  

前投稿に引き続き、

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

  

1964年にストーク・マンデビル大会は東京で開催するのに

反対する声もありました。

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中村裕さんの長男の中村太郎さんが教えてくれました。

聞き書きします。

 

中村:(父が行おうとしたことは)必ずしも、

  世間、医療界の評価も良いものではなかった。

  「せっかく(病状が)良くなたのに、スポーツをして

  悪くなったらどうするんだ」とか、

  「障害者を見せ物にするのいか」と。

  みんなの前でスポーツ大会をすることは、およそ、

  その頃の日本では考えられなかった。

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そこで中村裕さんは、東京開催の2年前、

1962年のストーク・マンデビル大会に自身の患者さん2人に

参加してもらい、障害者でもスポーツができるとアピールしました。

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中村さんの熱意に押されて、東京大会開催が正式決定。

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中村さんをはじめ準備委員会のメンバーは、

この大会の名前をパラリンピックとし、

公式にうちだすことを決めました。

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そして1964年11月8日。

参加22か国でパラリンピックが東京で開催されました。

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これでパラリンピックは、

オリンピックと同じ都市で行われたかと言うと、

そうではありませんでした。

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東京大会以降、「パラリンピック」という名前は使われず、

オリンピックと同じ都市での開催は行われませんでした。

  

私自身の記憶でもそう思います。

「パラリンピック」という大会名は、昔からあったという記憶ではなく

比較的新しい記憶なのです。

では、いつ復活したか。

 

次の記事で書きます。

                                                                                                                  

パラリンピック〈6〉1960年ローマでパラプレジックオリンピック開催

 

今日は令和元年10月28日。

  

昨晩に引き続き、

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

  

前投稿で書いた、ストーク・マンデビル病院で行われた競技会は、

ストーク・マンデビル大会と呼ばれました。 

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1948年に始まったストーク・マンデビル大会は、

それ以後毎年開催され、

しだいに世界各国から選手が参加するようになり、

国際競技大会へと発展していきます。

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1960年には、オリンピック開催都市で、

ストーク・マンデビル大会を行おうと、

開催委員会が決めました。

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1960年、イタリアでのオリンピックに合わせて、

ローマでストーク・マンデビル大会が行われました。

その時に大会名は、パラプレシアとオリンピックを合体させた

パラプレジックオリンピックという愛称が、

大会関係者の間で使われていたそうです。

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公式にパラリンピックという言葉が使われ始めたのは、

1964年の東京でのオリンピックからでした。

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1964年のパラリンピック階差に向けて、

尽力した人物がいました。

日本パラリンピックの父、中村裕(ゆたか)さんです。

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大分県で医師をしていた中村さんは、

当時最先端のリハビリ技術を学ぶため、

1960年にストーク・マンデビル病院に留学しました。

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そこで、スポーツによるリハビリに感銘を受け、

1964年の東京大会を日本における障害者スポーツのための

第一歩にしようと決意しました。

順調にいけば、1964年のストーク・マンデビル大会は

東京で行われるため。中村さんは発起人となり、

大会準備委員会を立ち上げ、大会に向けて奔走しました。

 

しかし、この大会を東京で開催するのに反対する声も

ありました。

どのような声があったと思いますか?

私にはすぐに浮かびませんでした・

次の記事で書きます。

  

つづく

2019年10月27日 (日)

パラリンピック〈5〉パラリンピックの「パラ」は?

今日は令和元年10月27日。

  

10月18日の記事の続きで、

パラリンピックシリーズです。

  

 

8月23日放映の「チコちゃんに叱られる!」の

読み物化をします。

チコちゃんの質問はこれ。☟

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答えるのはナインティナインの岡村さん。

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岡村さんが、苦しまぎれに言ったのが、

ワフルン」

その答えに対して、チコちゃんからは決まり文句。☟

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チコちゃんの答え。☟

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「パラプレジア」の「パラ」と言われても、

岡村さんをはじめゲストの皆さんも

「パラプレジア」って何?って顔でした。

私もそうです。

  

今回、解説してくれる人はこの人。☟

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「パラプレジア」の意味は、「下半身まひ」の意味です。☟

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パラリンピックは、もともと車いすに乗る人だけが参加する

大会とされていました。

その起源は1948年です。

それは第2次世界大戦後、初めてオリンピックがロンドンで

行われた年です。

このオリンピックに合わせて、ロンドン郊外にある

ストーク・マンデビル病院で、

第2次世界大戦で負傷した人たちが、

リハビリの成果を競い合うアーチェリーの競技会が行われました。

 

  

  

今晩はここまで。

また明日。

  

つづく。

  

 

薬の話/半減したけどまた元にもどる

今日は令和元年10月27日。

  

毎週心療内科に通っています。

7月4日に最後の薬の増量があって、

薬の量は変わりませんでした。

とても調子がよくなってきたので、

ほぼ3ヶ月経った10月17日に

薬を減量しました。

アモキサンカプセルの量を半減しました。

アモキサンカプセルの効果

いよいよ治ってきたと、うれしい気持ちでした。   

  

  

そしたら、不安感が出てきてしまいました。

自動車を運転していたら、

事故を起こしてしまうのではないかと思って

スピードが出せませんでした。

働いている人を見ると、

働いていない自分にくよくよするようになってきました。 

しばらく感じなかったいろいろな不安感が、

浮かび上がってきてしまったのです。

薬の量で、こうも変化する今の自分に

軽いショックを受けました。

  

  

10月24日の診断でそのことを正直に

お医者さんに伝えたら、

アモキサンカプセルの量は元に戻りました。

半減ではなく、少しずつ減らしていきましょう

ということになりました。

  

 

コレステロールの薬も含めて、

できたら、飲む薬を減らしていきたいと思っている私。

少しずつ自分を改善していきたい。

2019年10月26日 (土)

4代目RICHOのCX5/今日から使い始めます

 

今日は令和元年10月26日。

  

ここでも道草 RICOHのCX5の中古を購入 2016年バージョン(2016年3月23日投稿)

2016年3月24日から使ってきたデジカメ、

RICHOのCX5がだんだん不調になってきて、

撮りたいと思った時に動かないことが重なりました。

3年7カ月、常に身近にあって、

たくさんの写真を撮ってきましたが、

ここらが限界です。

次のカメラを注文して、今日届きました。

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何と、またRICHOのCX5です。

写真の手前が新しいCX5。

奥が今まで使ってきたCX5です。

中古で、安く手に入りました。

CX5でいうと4代目(4台目)です。

 

歴史をまとめると・・・・

2009年に接写が得意と薦められて、

RICHOのCX1を買いました。

※関連:ここでも道草 冬芽・葉痕の接写(2010年1月28日投稿)

RICHOのデジカメとは、もう10年のお付き合いです。

  

2012年7月に後継機のCX5を買いました。

※関連:ここでも道草 昨日(7月25日)出会った夕焼け(2012年7月26日投稿)

CX5が気に入ったので、2代目、3代目は中古で買いました。

そして今日から4代目です。

 

世の中、スマホで写真を撮る時代。

デジカメで撮っているのは、時代遅れになってきたかな。

それでも、接写力は魅力だし、使い慣れているので、

今回また購入してしまいました。

  

このブログに頻繁に載せているテレビ画面の写真は

ほぼ全てCX5で撮ってきました。

これからもそうです。

頼むぞ、4代目。

「異色の戦争画」③人を圧倒する絵

 

今日は令和元年10月26日。

  

前投稿に引き続き、9月8日放映の

日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家 小早川秋聲

より。

  

前投稿の聞き書きのつづき。

  

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ナレーター:戦争末期の昭和19年。小早川が戦争画の

  集大成のように描いたのが「国之楯」です。

  暗闇の中から浮かび上がるように

  軍服を着た犠牲者が横たわっています。

  当時、戦死者は「英霊」とされました。

  顔は、寄せ書きの入った日の丸でおおわれ、

  頭の周りは仏の円光(えんこう)のように、

  光の輪が描かれています。

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  この絵には、従軍画家となって以来、

  小早川がこだわってきたモチーフが描きこまれてきています。

   

  一つは「日の丸」です。

  小早川は、ただ「日の丸」がひるがえるだけの絵を

  いくつも描いています。

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  これは「武運長久」の文字と寄せ書きが入った日の丸。

  長年戦場でさらされてきたためか、

  端は破れ、傷んでいます。

    

小早川:国旗に対しての尊厳、ありがたさ。

  一度祖国を離れて、外国で日章旗を仰ぎ見たとき、

  反射的に、無理屈に、祖国を思うの念が、

  湧き上がってまいります。(記事)

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ナレーター:もう一つのこだわりは、「戦争の犠牲者」です。

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  月明かりが浮かび上がらせているのは、戦友の墓の前で、

  敬礼する姿。

  小早川は、こうした弔いの光景を幾度も描きました。

    

  従軍画家として、また東本願寺の慰問使として、

  前線で数多くの戦死者を見て来た小早川。

  これは全ての犠牲者に捧げる絵だったのでしょうか。

  

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浅田裕子さん:この作品が完成する間近に、師団長と部下たちが

  秋聲のアトリエに来て、この作品に圧倒されて、

  帽子をとって、頭を下げたという話が残っています。

  この作品を持ちだすときに、手伝いに来た女性の方が、

  この絵の前で泣き崩れたという話が、伝わっています。

  何度も、この美術館では、展示をしてきました。

  その中で、なかなか作品の前から動けない方がおられましたので、

  お声掛けしましたら、自分の兄だか弟だったと思いますけど、

  戦争で亡くなったんだと、その姿を重ねて、

  涙が出ておられたようでした。

    

  

私も、この絵は圧倒される絵だと思います。

横たわる死体という題材としても、

さらには幅2mを超えるサイズも、圧倒的です。

忘れたくない絵、そして画家だったので、書き留めました。

  

これで「日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家 

小早川秋聲」の読み物化完了。

「異色の戦争画」②作戦記録画

  

今日は令和元年10月26日。

  

前投稿に引き続き、9月8日放映の

日曜美術館 異色の戦争画 知られざる従軍画家 小早川秋聲

より。

  

番組開始から21分過ぎから聞き書きをします。

  

ナレーター:昭和16年。真珠湾の奇襲攻撃に始まった太平洋戦争。

  開戦とともに、日本軍が画家たちに委嘱して、

  戦争画を描かせる動きが明確化します。

  特別に「作戦記録画」と呼ばれた戦争画。

  真珠湾攻撃の絵を軍から依頼されてのは、

  藤田嗣治(つぐはる)でした。

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  奇襲部隊が撮った写真をもとにしたというこの絵。

  アメリカの軍艦が、水柱を上げて沈む姿が、

  上空からの視点で、リアルに描き出されています。

  

  日本軍は、南方の石油資源を確保するため、

  インドネシアの油田地帯を落下傘部隊によって占領します。

  青空をバックに、無数の落下傘が舞い降りています。

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  敵陣の中に降下していく兵士たちは、

  空の「神兵」と称えられ、その快挙が歌にされました。

    

  シンガポールを陥落させた日本軍。

  山下奉文(ともゆき)将軍は、イギリス軍のパーシバル将軍に

  イエスかノーかと降伏を迫りました。

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  ニュース映画そのままに、会見の様子をリアルに描き出した

  宮本三郎の絵。

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  当時、戦争画の最高傑作と称えられました。

  

  小早川秋聲は、昭和18年、作戦記録画の制作者に選ばれます。

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  ビルマのイギリス軍の降伏場面を描くように指示されました。

  前の年の昭和17年。日本軍はビルマ全土を制圧しました。

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  しかし、昭和18年に入ると、

  各地でイギリス軍の反撃が始まっていました。

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  小早川が従軍画家として赴(おもむ)いたのは、その頃でした。

    

  小早川はビルマでの体験を、新聞に従軍記として書きました。

  

小早川:数機編隊の空爆をくらった。壕の土を震わし、

  私の肉を通して、骨に響いた。足もやられた。

  そこを守る勇士は、壮烈なる戦死をした。

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ナレーター:小早川は、ジャングル地帯の最前線の

  悲惨な実態を記しています。

  

小早川:水は、池の泥水と、瓶にためた雨水。

  これとても泥で濁っている。

  汁に浮かぶ菜のごときものは、野草である。

  毒草でない限り、牛馬が食うものは人間も食べられると

  将兵はそれを食い、英気を養っている。

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ナレーター:帰国後、小早川が描いたイギリス軍旅団長が

  捕虜となる絵。

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  現在、絵は行方不明。

  絵葉書でようやく絵柄を知ることができます。

  

  これはビルマ従軍の後に描かれた風変わりな戦争画です。

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  陸軍の大佐と思われる軍人が、茶を飲む姿です。

  小早川は、従軍記の中で、こう書いています。

  

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小早川:急に出陣の命令が達したので、部隊長は心静かに

  茶碗で一服、薄茶を立てだした。

  茶は黄土色にがしている。

  香気も風味もないはずである。

  隊長の落ち着き、心構えは、武人として、

  いかにもゆかしい極みである。

  

   

小早川秋聲は、満州事変から日中戦争でも従軍して、

見たものを描いてきました。

戦闘している絵は少なく、兵士が休んでいたり、

寒さの中で火にあたっていたり、あるいは、

上記のお茶を飲む姿といった、

日常の何気ない姿を絵にしました。

その多くが絵葉書になり、戦地と内地との間で交わされた

軍事郵便としても使われました。

イギリス旅団長の降伏の絵のように、

元の絵が行方不明になっていて絵葉書が残っているものが

たくさんあるそうです。

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