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2018年8月

2018年8月31日 (金)

野球部全員の顔の写った写真が届く

 今日は8月31日。

  

こうやってブログを書いていると、

予期せぬ人とのつながりができることが、

たまにあります。

それがとても面白い。

 

今回、次の記事にコメントが届きました。

ここでも道草 「8月15日のプレーボール」その6.芦屋中/ポール・ラッシュ中佐が贈った記念ボール(2018年8月24日投稿)

 

この記事で、芦屋中学の野球部メンバーの写真を載せました。

8月1日放映の「歴史ヒストリア」で使われた写真です。

Rimg0152_2

野球をやっていて楽しい!

そんな気持ちがあふれた写真です。

微笑ましい写真です。

ただ、「歴史ヒストリア」のマークで、

画面左の生徒の顔が消えているのが残念、

左端の部員さんの顔を、原本で見てみたい、

機会があれば・・・・、でもそんな機会はないかな?

と書きました。

そしてら、次のようなコメントが届いたのです。

 

この写真の左端の部員の顔がマークで消えていますが、

あなたのメールアドレスをご連絡くだされば、

芦高野球部五十年史に掲載された写真を

メールに添付して送信できます。

 

コメントの主は「兵庫県立芦屋高等学校同窓会」とありました。

ビックリです。

何と、その「機会」が舞い込んできたのです。

ありがたいことです。

ブログで発進したことが、届いたのです。

ブログをやっていると、たまにこういうことがあって面白い。

 

さっそくメールアドレスを送りました。

晴れて、「翠球」(兵庫県立芦屋高等学校野球部五十年史)

56ページに掲載されて写真の完全版を見ることができました。

これです↓

5056_2

左端に立つ生徒の顔がわかりました。

眼鏡をかけていたのですね。

右端の生徒の姿も全て写っています。

いい写真じゃないですか。 

この写真は、私のブログ上の宝物となりました。

 

この写真を送ってくださった方は、

翠球」の58pも一緒に送ってくださりました。 

Photo

第28回の大会の試合結果が一目でわかります。

試合の「戦評」の「己の体を知って」という言い回しに、

時代を感じました。

 

今日は出校日。

明日(9月1日)はキミヤーズ塾(京都)に行きます。

9月2日は新学期の準備。

そして9月3日から2学期。

台風がその頃やってくるらしい?

どうなる?

2018年8月30日 (木)

注目したい2人のインタビュー記事に出会う

今日は8月30日。

  

この夏は野球のことを記事にすることが多いです。

今日もきっと何本か書きます。

仕事もやらねばと思いつつ、道草多しの日々。

  

昨日のこの記事に注目。

@niftyニュース 【高校野球】金足農のサヨナラ2ランスクイズ 近江の2年生バッテリーが今明かす真相と心境

 

↓先日ブログで、近江高校の2年生バッテリーは

注目したいと書きました。(林優樹投手/有馬諒捕手)

ここでも道草 金足農業、秋田県勢で103年ぶりの決勝進出(2018年8月21日投稿)

その2人へのインタビュー記事なので、もちろん注目です。

  

引用します。

  

2-1で迎えた9回裏。

球場の九割ほどは金足農に対する大声援に包まれていた。

近年、甲子園でよく起こっている劣勢のチームを後押しする、

いわゆる“判官贔屓”のムードである。

だが、そんな空気の要因を有馬はこう見ていた。

「9回にああいう展開になってしまったのは、

自分たちが8、9回のチャンスを作っておきながら、

そのチャンスを生かせなかったからだと思います。

吉田投手のピッチングが、

観客を引き寄せるようなピッチングでしたし。

それがもう、勝敗を決める“流れ”になったんだと思います」

 

確かにそうです。

このように分析した有馬君に感心します。

 

さらに引用します。

 

「8回にピンチを三振で断たれたことで、

“吉田投手を応援しよう”みたいな空気になっていたので…。

それにしてもすごい声援でした」。

7番・菊地彪吾(3年)にも左前安打を許し、

続く菊地亮太(3年)にはストレートの四球。

無死満塁になった。

「ボールカウントが先行するだけですごい拍手と声援があって。

目に見えない圧力を感じました」。

バックネットを背にしている有馬でさえ

これだけのプレッシャーがかかっていたのだから、

視界にバックネット裏の観客が広がる林には

相当な重圧がかかっていた。

いつも聞こえる有馬の声が聞こえず、タイムも使い切っていた、

まず、どう投げればいいのか分からない。

いつもは淡々と投げる林の顔がこわばっているのが分かった。

  

すごい体験をあの場所でしていたんだなと思います。

  

「負けたことは悔しいですけれど、

8回と9回の自分たちのチャンスを抑えられた時も、

9回に2ランスクイズを決められた時も……

向こうはこういう場面を想定した練習を

ずっとやってきたんやなって思いました。

そんなチームとこんな試合ができましたし、

吉田投手のマウンドでの姿勢を見ていたら……

自分も見習うところがありました。

自分ももっと真っすぐのキレとスピードを上げていきたいです」

と林は誓う。

激戦から一夜明けて宿舎を発つ朝、

多賀章仁監督から新チームのキャプテンを命じられたという有馬の目は、

もう来夏に向けられていた。

「これからもっとしんどいこともあると思います。

注目されることで、厳しい試合も増えると思いますし……。

でも、自分がもっと林をうまくリードして、

来年も甲子園には必ず帰ってきたいです。

というより、甲子園は帰らないといけない場所だと思っています」

2年生バッテリーにとって、

あの空気の中にいたことは酷だったのかもしれない。

でも2人の受け止め方はむしろポジティブで、

“甲子園はこんなこともある”とさえ言っているようにも感じた。

「自分たちは、まだ来年があります」。

そう言って元気にグラウンドに駆け戻っていく有馬の後ろ姿に、

来年の楽しみがまたひとつ増えたような気がした。

(沢井史 / Fumi Sawai)

 

あの場面で、2人が思っていたことがすごくよくわかり、

さらにポジティブな発言も聞けました。

いい記事に出会いました。

見逃さなくてよかった。

このブログに書き留めておかないと、

手元から永遠に離れて行ってしまいそうで、

引用しました。

やはり、来年の甲子園が楽しみです。

大騒ぎせずに、息長く注目していきたい。

最期に、この記事に掲載されていた写真です。

林投手は、甲子園ですごいピッチングをした投手とは思えないほど、

あどけなさがあります。

Photo_2

 

2018年8月29日 (水)

テレビ朝日系の局で、なぜテレビ東京のドラマ?

 今日は8月29日。

  

今日は静岡県に行ってきました。

山登りのためです。

その時に、あれ?と思うことがありました。

  

テレビ朝日系の局で、

テレビ東京のドラマ「警視庁ゼロ係」が放映されていたのです。

Photo ドラマ「警視庁ゼロ係」HP

 

なぜ?

 

帰宅して調べました。

私の自宅は愛知県です。

愛知県は民放の放映が恵まれていて、

フジテレビ系、日本テレビ系、テレビ朝日系、TBS系、

そしてテレビ東京系が全て映ります。

その状態に慣れているので、今回の「警視庁ゼロ係」には驚きました。

 

静岡県はテレビ東京系を放映する局がないのです。

そもそもテレビ東京は全国に系列局は6局のみ!

それではなぜ「警視庁ゼロ係」が放映されたのか?

番組販売という方法によって、テレビ東京から番組を買って、

放映しているんです。

※参考:Yahoo!知恵袋 静岡県ってテレビ東京が映らないのですか?(2007年)

  

この図を見てください↓

都道府県別テレビ局一覧(2013年7月21日現在)

愛知県は恵まれていることがよくわかります。

愛知県在住だと、

いい番組に出会える可能性が高かったということです。

私のやっている実践は、愛知県在住が好環境でした。

  

  

Yahoo!テレビを使うことで、

47都道府県の番組表を見ることができます。

秋田県ではTBS系番組が見られないと聞きました。

そうなると、あのドラマ「この世界の片隅に」は見ることができない?

よけいなお世話ですが、調べました。

 

9月1日の午後9時をチェック。

愛知県で「この世界の片隅で」が放映される時間です。

(番組表をクリックして大きくして見てください)

 

9月1日愛知版↓

Photo_3  

9月1日秋田版↓

Photo_5  

確かに放映されていない。

でも次のサイトによると、秋田では

「この世界の片隅で」は1週遅れで放映されるとのこと。

まんず、ねまっていってけれぇ この世界の片隅に 秋田は1週間遅れ

探しました。

  

見つけた!

1週遅れで、お昼に放映されていました。

9月1日秋田版↓

Photo_6

 

でも、TBS系が全て放映されているわけではありません。

テレビ番組を使って、子どもたちを教えたい私としては、

ちょっと辛い県です。(秋田県の方、すみません)

2018年8月28日 (火)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」高木正雄さんのこと

 

今日は8月28日。

  

前投稿に引き続き、

後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)より。

  

沢村栄治さんが京都商業に入った時の話。

  

京都商業はまだ野球部が出来て間もないチームで、

沢村一人に頼るワンマンチームであった。

打線も貧弱だからよい投手に当たれば手も足も出ない。

当時の京都は平安中学がもっとも強く、

ミラクル投手高木正雄(後慶応大学、戦死)がいて

京都商業は地方大会でもなかなか勝つことはできなかった。

(11p)

  

ここを読んだ時に、

ふたたびあの言葉が頭に浮かびました。

 

「それぞれの街に、それぞれの沢村さんがいた」

ここでも道草 それぞれの街に、それぞれの沢村さんがいた(2018年8月21日投稿)

  

高木正雄さんに注目しました。

Wikipediaによると、甲子園に6回出場。1933年夏の大会で準優勝。

六大学戦でも活躍して、1939年秋季リーグで慶大の

13季ぶりの優勝の立役者となりました。

1942年に慶大を卒業。

その後応召され、1944年6月18日にビルマ・モガウンにて、

インパール作戦に従軍中にグルカ兵の急襲に遭い、

戦死しました。享年28。

東京ドーム内の野球殿堂博物館にある

戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれているそうです。

  

「戦没野球人モニュメント」に刻まれている方々の名前は、

次のサイトで見ることができます。

野球殿堂博物館HP 戦没野球人モニュメント

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」の名前が、

たくさんありました。

でも先日記事にした阿部正さんの名前はないので、

もちろん、このモニュメントに刻まれた人たちも、

まだその一部でしかないと予想できます。

 

 

慶応大学の人たちの部分だけ転載。

Photo  

高木さんの名前もあります。

沢村栄治さんが中卒ではなく、

入学が約束されていた慶応大学に進学していたら、

戦死する可能性は低かったと聞いたことがあります。

  

しかし、戦争は甘くはありません。

慶応大学に進学したとしても、

このように戦死している野球人がいたのです。

  

インパール作戦については、よくわかっていません。

今回、高木さんを調べていて出てきた作戦。

これを縁に、調べていきたい。

幸い、次の番組を録画しています。

2017年8月15日放映「NHKスペシャル 戦慄の記録

インパール作戦

2学期が始まる前に見ておきたい。

(もう録画して1年が経つんだなあ)

 

高木さんを襲った「グルカ兵」とは?

調べました。

Wikipedia グルカ兵

世界最強の戦闘民族グルカ兵

興味深い人たちでした。

またいつか記事にしたい。

  

  

高木正雄さんの写真を探しましたが、

見つかりませんでした。 

写真でも、高木さんを記録しておきたい。

戦場で行われた手榴弾投げ

 

今日は8月28日。

  

前投稿に引き続き、

後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)より。

 

沢村栄治さんが、戦場で手榴弾投げをして肩を痛めたとは、

聞いていました。詳しくは知りませんでした。

その様子が、この本には書いてありました。

  

軍隊内ではさかんに手榴弾投げ大会があった。

手榴弾は缶ビールほどの大きさで

重量はビール缶よりも重かった。

軍隊では30メートルを投げれば合格のところ、

彼は78メートルをゆうに投げていたという。

鉄の塊を70メートルも投げれば肩は完全に

壊れてしまう。

だが周囲は野球選手だからと好奇の目で見るために

どうしても遠投をしなければならなくなる。

沢村は連隊の格好の宣伝材料にされて投げまくり、

肩を負傷してしまったのである。

(28p)

  

沢村の速球は見る影もなくなっていた。

 

手榴弾投げが肩を壊した原因だが、沢村の投げた距離は

 

連隊中でもずば抜けていた。

 

前述したとおり、彼の投擲は相変わらず部隊一であった。

 

チームで沢村に可愛がられた多田文久三投手は

 

手榴弾投げについてこう語っている。

 

多田は歴代の巨人軍の選手の中でも

 

肩の強さはトップクラスであった。

 

 

「中国の機関銃はとても優れたものだったですね。

 

日本の軽機関銃はすぐ駄目になるんです。

 

一歩も前に出られないんです。

 

それで「手榴弾持って来い」と命令が出るわけです。

 

沢村さんは手で手榴弾を集めて、初めは寝投げ、

 

次に腰だけで立った腰投げ、最後に立って投げる立ち投げをやって、

 

敵を粉砕したという話を聞きました。

 

沢村さんは重たい手榴弾を100メートル以上投げられたとも

 

聞いています。鉄の塊を100メートル以上投げること自体凄いし、

 

それは肩を痛めるはずです。

 

肩がじーんと熱くなって完全にやられます。

 

私も一投投げたらもう二度と投げたくありませんでした。

 

言われても投げなかったですよ。ただ実力を認めさせないと

 

「貴様野球の選手のくせして」と責められる。

 

ふつう30メートルも投げる人はいなかったですよ。

 

沢村さんは続けて投げられていましたから、

 

そりゃ痛めるはずですよ。」

(37p)

  

こういうことがあったのですね。

  

「上官も沢村の将来を思って無理に投げさせなければと

悔やまれてなりませんでした」

(40p)

 

沢村の全盛期に対戦した小野田柏さんの言葉です。

でも、戦時中、個人のことはなかなか

配慮できなかったのではないでしょうか。

まずは生きのびること。

そのために、良かれと思ったことは、

優先的に行われたと思います。

将来野球をやるために・・・まずは生きのびなければ。

  

つづく

沢村栄治にとって心から幸福と思った一戦

 

今日は8月28日。

  

前投稿に引き続き、

後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)より。

 

沢村栄治さんのお父さん賢二さんが、

次のように言っています。

  

「もし栄治の野球生活にボールを握って心から幸福と思った

一瞬があるとすれば、この一戦の好投じゃなかったでしょうか」

(17p)

 

その一戦と言うのが、昭和9年(1934年)にべーブ・ルース等の

大リーグメンバーが来日して行われた日米決戦の第9戦です。

静岡県の草薙総合運動場硬式野球場で行われました。

それまでずっと大リーグのオールスターチームに、

圧倒されてきた日本チーム。

しかし、沢村栄治が先発したこの試合は違いました。

名だたる大リーガーが、沢村を打てない。

 

この試合の様子を、この本では詳しく書いています。

一部引用します。

  

0-0で迎えた7回。

 

この裏は全米チームは3番ベーブ・ルースからである。

絶好の攻撃の機会である。

ルースが全米の名誉にかけても打たんとする気迫が

マウンドの沢村にも伝わってきた。

だがルースは焦っていた。

沢村は意表をついたスローボールを外角いっぱいになげると、

簡単にバットを出して平凡な投手ゴロを打たせてしまった。

頬が充血したルースは、観劇に沸く観衆を横目で見て呟いた。

「この球場が悪い。太陽が目に入ったから打てなかったんだ」

(16p)

 

ベーブ・ルースにこんなことを言わせた沢村栄治。

気分よかっただろうなあ。

続く4番打者ゲーリックに、甘く入った変化球ドロップを打たれ、

ホームラン。

それでも、沢村が失った点は、この1点のみ。

日本は点を入れることができず、0-1で敗れるが、

9回まで息詰まる接戦でした。

こんなシーンもあったそうです。

  

一方では全米チームもスポーツマンシップを忘れなかった。

沢村が四球で塁に出たときはベーブ・ルースやゲーリックが

肩を冷やさぬようにと、駆け寄って自分が着ているセーターを

着せて、沢村の肩を叩いて激励をしてくれた。

(17p)  

 

こんなこともあったので、「心から幸福」と

思ったのでしょう。

沢村栄治18才。

まだまだ”大人”のしがらみが少なく、

体も絶好調だったので、

怖いもの知らずで、伸び伸びと投げていたのでしょう。

  

そんな沢村に、その後戦争が暗い影を落とすのです。

  

 

この本に、巨人軍が沢村を入団させるときの、

正力松太郎さんの言葉が載っていました。

※参考:ここでも道草 沢村栄治1.黒鉄ヒロシさんのコメント(2012年4月26日投稿)

「一生面倒を見る」とは書いてありませんでした。

 

正力は「とにかく日本の野球も必ず職業野球の時代がやってくる。

だから栄治君を僕に任せてくれないか。

そのときだけの面倒を見るというのではなく、

先の先まで、面倒を見るから正力を信用して

万事お任せください」と父親の賢二を説いた。

(18p)

 

これが黒鉄ヒロシさんの言う

「一生面倒を見る」の具体的な言葉なのでしょう。

 

  

しかし!もう私はこの「具体的な言葉」を調べていた。

過去の記事を読んでいて、この記事に出会いました。

ここでも道草 巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花(2012年4月29日投稿)

ちゃんと調べていた私。

すっかり忘れていたことに驚き。

でも当時の私自身を褒めたい気持ちもあります。

「やるじゃん、俺」

 

つづく  

2018年8月26日 (日)

「この先輩たちがあって今日がある」先輩の一人が沢村栄治

今日は8月26日。

  

スバルのCMソングでもある小田和正さんの

「wonderful life」を聞き込みたくて、

この曲の入ったアルバムを、レンタル店で借りました。

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CD3枚組のアルバムでした。

「オフコース」時代のセルフカバー曲も

たくさん入っていて、

懐かしさもあるアルバムでした。

まだしばらく生活のBGMは小田和正だ。

   

「英雄の選択」で沢村栄治さんのことを取り上げました。

やっぱり興味のある人だったので、注目しました。

さらに本も読みたくなり、次の本を借りて読みました。

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後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)

巨人軍の6人のサムライのことが書かれた本でしたが、

今回は、私は沢村栄治のみ読みました。

  

「まえがき」の文章をたっぷり書き留めます。

  

 

まえがき

 

今年(平成18年)2月13日に巨人軍の

 

宮崎キャンプで起こった小さな事件である

 

OBの400勝投手金田正一氏と広岡達朗氏が

 

練習の視察に訪れていた。

  

二人が立っている中、原辰徳監督が若手のある左腕投手に向かって、

 

「この人を知っているか?」と金田氏を指した。

 

投手はドラフト1位で入団し3年目奈迎え

 

将来を嘱望されている選手である。

 

同じ左腕という理由で金田氏を紹介したのである。

 

若手投手は「金村さんです」と答えて、

 

さらに「何勝したか知っているか」という原監督の質問に

  

「300・・・・ うーん」と首を傾げてしまった。

  

さすがに原監督も「バカヤロウ、400勝だ!」と

 

を軽く叩いて叱ったが,この光景を見ていた広岡氏が

  

危機感を覚え、二軍練習場へ直行した。

  

氏は、二軍ナインの前で「巨人軍は伝統のあるチーム。

 

OBの名前くらい覚えておかなければ」と一喝し、

 

臨時講義を始めたという。

 

氏は中島治康、沢村栄治、川上哲治、水原茂,スタルヒン、

 

千葉茂、長嶋茂雄、王貞治ら各氏の名前を挙げられて、

 

70年にわたる球団の歴史を12分にわたって語った。

 

村禎章二軍監督をはじめ2軍ナインは直立不動、

 

脱帽で話を聞いていたという。

 

さてこの件に限らず私はプロ野球で活躍した選手たちの

 

ほとんどが歴史の中に埋没してしまって忘れられてしまう

 

危機感じている。とくに近年は忘却の度合いが激しい。

 

現代という時代のみに目を向け、過去に活躍した選手は

 

凄まじい勢いで忘れられている。

  

その加速度はじつに驚くべき速さである。

 

私はそこにプロ野球の危機を感じる。

  

広岡氏はこうも言った。

 

「君たちはすばらしい球団に入った。

 

この先輩たちがあって今日がある。

 

君たちには私の話を権利があるし、

 

先輩が後輩を指導するのは義務だ」

 

氏の懸念通り、歴史に学ばない結果、

  

プロ野球はいつしか魅力を失ってしまった。

 

(5~6p)

  

「この先輩たちがあって今日がある」

 

この言葉は、今回いやに重たく感じました。 

 

最近、巨人軍選手の不祥事が多いからか?

  

現代の野球ファンが、過去の名選手たちに思いを馳せるとき、

  

今のプロ野球に何が欠けているのか一目瞭然とわかるはずである。

 

すべてが管理化された社会では、

  

個人は組織の歯車としてしか生きてゆけなくなった。

 

そこに個性の輝きを見ることはできない。

 

私たちは組織の規律にとらわれず自由に伸び伸びと

 

己の信念に従ってプレイした選手を見ることで、

 

自己の願望をそこに見出して大きな溜飲を下げるのである。

 

今のサラリーマン社会の投影をプロ野球に見ようとは思っていないはずだ。

 

自分もあの選手のように自由に生きてみたい。

 

そんな思い 抱かせる野球選手が現れない限り、

 

われわれの窮屈な毎日は救われない。

  

私は巨人という常に優勝を求められる組織で、

  

チームのために自分を殺すことなく、

 

自己の誇りを大事にした選手たちを取り上げたつもりである。

 

「巨人軍は紳士たれ」と言われながらも、

 

自由に個性を発揮したサムライたちがかつてはいた。

 

ここに利益を強く求められる現在の企業社会の中で、

 

かに個人が自己の誇りをもって生きてゆくかという

 

ヒントがちりばめられている。

  

学ぶべきは現在ではなく、過去にあるのだ。

 

広岡氏の言うように先人たちの足跡に謙虚になって教えを請うとき、

 

おのずからわれわれが今どう生きるべきかという道は開かれる。

 

広岡氏の言われる「この先輩たちがあって今日がある」という言葉は、

  

野球界に限らず現代日本がもっとも忘れている

 

大事な忠告なのである。

 

 

ロ野球にはサッカーの リーグなどとは違って

 

強くも悲しい長い歴史がある。

 

それは戦争を生き抜いてきたという点である。

 

戦争という暗い時代を体験して、社会的な地位を

 

確立した点は他のプロスポーツに見られない唯一の特色である。

 

温故知新というが、今原点に帰ってプロ野球を見つめなおす

 

時期が来ているように思う。

  

 

ここに取り上げた人たちは、偉大な記録を残しただけという

 

選手ではない。

 

その瞬間にすべてを出し尽くして己の信念をまっとうした

 

素晴らしい方たちである。

  

そして軽く派手なものがもてはやされる今の時代において

  

一生懸命に生きる行為がどんなにすばらしいものかを、

 

彼らの生き方は教えてくれる。

  

6人の物語を通して今、平和の中で野球が思い切りでき幸せと、

 

打算なく全力を出し切った男たちの潔さを

 

知っていただければと思う。

 

(7~8p)

 

このまえがきの文章は、たくさん書き留めておきたいと思った

印象的なものでした。

  

6人のうちの沢村さんの生き方は、やはり参考になりました。

全力を出した生き方だったと思います。

また後日の投稿に書きます。 

「8月15日のプレーボール」その9.若者よ 野球のできる時代はいい

 

今日は8月26日。

 

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

番組のラストシーンです。

  

ナレーター:野球に目覚めた若者たちを

  生き生きと描いた作品で知られる作詞家の

  阿久悠。

Rimg0166

  戦争で亡くなった球児たちに思いを馳せた詩があります。

  

  あの八月十五日は

  既に歴史の中の点になってしまった。

  有名無名の球児たちが

  ボールを捨て バットを捨て

  海に 野に 空に

  若い命を散らせたことを

  若者は知らない

  若者よ 野球のできる時代はいい

  若者よ 野球のできる時代はいい

  (八月十五日の青春より)

  

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以上で、8月1日放映の

歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」の読み物化を終了。

しかし、時間がかかります。

今回も9本の投稿が必要で、

1本目は8月22日だったから、

5日間を要しました。

 

見た番組を次々に読み物化していけたらいいなと、

理想では思いますが、なかなか難しい。

でも、読み物化したことで、

私は番組を本当に吸収した気分になります。

他の手が浮かぶまでは、時間を見つけて、

番組の読み物化を進めていきたいですね。

 

  

次も野球の話を書きます。

 

「8月15日のプレーボール」その8.観客の熱気の質が違う

 

今日は8月26日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

番組の写真。開会式の写真です。

Rimg0153

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Rimg0156  

もう一つ、動画を紹介します。


YouTube: 白球の記憶 球場は希望に満ちた 1946年 戦後初の大会

 

印象的なシーンを聞き書きして、書き留めます。

成田中に勝った京都二中のメンバーが登場。

Photo_7  

黒田脩さんは、全国大会に出場できた時のことを、

「夢のような気持ち」だったと言っています。

さらに、次のように言っています。

 

ナレーター:日常生活にも苦しむ時代。

  黒田先生には、予想を超える光景が映りました。

黒田:とにかくビックリしました。

  (観客のシャツで)白一色。

   とにかく白いは。それは印象にありましたね。

Photo_8

  ビックリしました。この観衆(の数)には。

Photo_9

  それが(私たちのような)選手だけではなく、

  観衆もビックリして感謝しています。

ナレーター:大会は、開会式から決勝戦まで大入り満員。

  立ち見が出るほどの大盛況でした。

  観客の一人だった下神洋造さんです。

  13才だった当時の喜びを今も忘れられません。

Photo_10

Photo_11

下神:絶対野球を見たいと(思いました)。

  今と比べたら、熱気の質がね、ちょっと違うような

  気がしますね。 

  子どもは初めて見る興奮、

  大人は、やっぱりまた野球が見られるという(気持ち)。

  思い切り野球ができるようになった喜び。

Photo_12

Photo_13

ナレーター:戦争が終わった。

  未来への希望が球場全体を包んでいました。

Photo_14

  

観客席がぎっしりと埋って、

観客のシャツの色で白一色だったというのが、

印象に残りました。

熱気の質が違うという表現も印象に残りました。

なるほどと思いました。

  

  

「歴史秘話ヒストリア」だけでなく、

他の動画も見て、第28回全国中等学校優勝野球大会の様子が、

見えてきました。

次がこのシリーズのラスト!

 

つづく

  

   

  

  

「8月15日のプレーボール」その7.最初の試合 成田中対京都二中

 

今日は8月26日。

  

前投稿に引き続き、

8月1日放映の「歴史秘話ヒストリア 8月15日のプレーボール

高校野球 戦火の中の青春」より。

  

番組ではないけど、

この動画が目に入りました。

  

Photo  

第28回全国中等学校優勝野球大会の映像がありました。

Photo_2

昭和21年、大会初日は8月15日。

8月15日は太平洋戦争が終わったhからちょうど1年。

8月15日が選ばれたのは、そのような日をあえて選んで、

8月15日が敗戦の日ではなく、高校野球が復活した喜ばしい日と

したかったのでしょうか。そんな想像をしました。

 

Photo_3

前投稿で書いた記念ボール贈呈のシーンありました。

前投稿の新聞記事の写真よりも鮮明です。

 

謎の写真↓

Photo_4

この写真は何だろう?

何か、開会式に向けて、いいものを落下させた?

たとえば、ポール・ラッシュ中佐の贈呈した記念ボールが、

パラシュートでグランドに落とされた・・・

などと予想しました。

  

調べました。

  

バーチャル高校野球

このサイトには、次のように書いてありました。

  

西宮球場の上空を飛ぶ米軍機。

後部から見える白い帯は、散布された殺虫剤のDDTだ。

戦後、シラミやノミを駆除するため、

連合国軍総司令部(GHQ)が国内中で使った。

人が大勢集まる球場も例外ではなかった。

  

何と!殺虫剤!

全く予想外でした。

  

さらに次のような文章もありました。

  

戦後初の第28回大会は、GHQによる「占領色」が色濃かった。

大会会長があいさつした後、祝辞を述べたのは

元立教大教授でGHQのポール・ラッシュ中佐だ。 

その後、ラッシュ中佐は代表19校の主将と握手を交わし、

米国製のボールを寄贈。米軍機の祝賀飛行もあった。

  

米軍機の祝賀飛行もあったのですが、

上の写真は、DDT散布でした。

この動画で説明はなかったです。

観客や選手は、どんな気分で、白い粉をかぶったのだろう。

あまりに今と状況が違いすぎて、予想がつかないです。

  

そして記念すべき第一試合が、

成田中(千葉県)VS京都二中の試合でした。

第一試合だったのですね。

Photo_5

ここで前投稿でも書いたシーンがありました。

再掲載。

 

成田には第六回二死後両石原の二安打で

好機をつかむかと見えたが、

石原(照)の本塁滑り込みの失敗で

寸前に憤死したのは、(中略)惜しまれる。

(昭和21年8月16日朝日新聞)

石原照夫さんはピッチャーであり、

相手投手との投げ合いで、0-0が続いていました。 

自らがホームインして、均衡を破ろうとしました。 

しかし、アウト。

その憤死した時の写真です↓

Rimg0157  

石原照夫さん↓

Rimg0159

 

ナレーター:(写真を見ると)キャッチャーがタッチする前に、

  ホームインしているように見えます。

  成田中のチームメイトは、石原(照)が、

  ホームベースに滑り込んだ瞬間をはっきりと

  覚えていると言います。

 

石田さんと同じチームの、もう一人の石田(利男)さんn証言。

Rimg0158  

石田(利):ヒット打って、走ってくるのを見ていたから、

  (中略)タイミングはセーフだった。完全に。

  初の得点だなと思った。

 

しかし、前述したように判定はアウトでした。

  

ナレーター:この場面が勝負の分かれ目となりました。

  0対1で成田中は敗れました。

 

冒頭の動画より。

Photo_6

写真は京都二中の得点シーンです。

  

試合直後、ホームベースをはさんで両校のあいさつ。

その後、ホームベースで憤死した石原照夫さんは、

投げ合った相手校のピッチャーのもとに駆け寄って、

次のように言いました。

  

石原(照):ありがとう。次の試合、頑張れよ。

相手投手:おう。

  

ナレーター:悔しさをにじませることなく、

  惜しみないエールをライバルに送ったのです。

  この時の心境を、石原は後にこう振りかえています。

石原(照):セーフでもアウトでも

  そんなことはどうでもいい。

  戦争が終わり、思い切り野球ができた。

  夢中で投げられ打てた。

  それだけで十分だった。

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ナレーター:ただ生きて、白球を追う。

  それがどれだけありがたいことか。

  グランドを駆け回った球児たちは、

  思いのままプレーをする喜びにあふれていました。

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石原(利):当時はね、負けて悔しいって問題じゃないんだよなあ。

  ああ、ここで試合をしている。

  ここで試合して、好きな野球ができてさ、

  もう純真そのものじゃなかあ。

  ひとつのスポーツに打ち込めた人間として

  俺は、幸せだったと思うね。

ナレーター:戦時中、何の役にも立たない遊びと非難されてきた野球。

  その野球が、戦争で傷ついた人々の心を癒し、

  戦後の日本を牽引する力となっていったのです。  

Rimg0165

  

 

戦争は、やりたいと思ったことができなくなる時だと、

番組「英雄の選択」で磯田道史さんが言っていました。

やりたいと思っていた野球ができた時の、

2人の石原さんの言葉は、尊い。

やろうと思えば、とことんできる平和な今を、

もっと大切にしたい。

もう少し、とことんやりたい。

  

最後に、第28回全国中等学校優勝野球大会の

優勝校を紹介。

決勝戦で2-0で京都二中を破った

浪華商業でした。

冒頭の動画の写真です。

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つづく

 

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