沢村栄治にとって心から幸福と思った一戦
今日は8月28日。
前投稿に引き続き、
「後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)より。
沢村栄治さんのお父さん賢二さんが、
次のように言っています。
「もし栄治の野球生活にボールを握って心から幸福と思った
一瞬があるとすれば、この一戦の好投じゃなかったでしょうか」
(17p)
その一戦と言うのが、昭和9年(1934年)にべーブ・ルース等の
大リーグメンバーが来日して行われた日米決戦の第9戦です。
静岡県の草薙総合運動場硬式野球場で行われました。
それまでずっと大リーグのオールスターチームに、
圧倒されてきた日本チーム。
しかし、沢村栄治が先発したこの試合は違いました。
名だたる大リーガーが、沢村を打てない。
この試合の様子を、この本では詳しく書いています。
一部引用します。
0-0で迎えた7回。
この裏は全米チームは3番ベーブ・ルースからである。
絶好の攻撃の機会である。
ルースが全米の名誉にかけても打たんとする気迫が
マウンドの沢村にも伝わってきた。
だがルースは焦っていた。
沢村は意表をついたスローボールを外角いっぱいになげると、
簡単にバットを出して平凡な投手ゴロを打たせてしまった。
頬が充血したルースは、観劇に沸く観衆を横目で見て呟いた。
「この球場が悪い。太陽が目に入ったから打てなかったんだ」
(16p)
ベーブ・ルースにこんなことを言わせた沢村栄治。
気分よかっただろうなあ。
続く4番打者ゲーリックに、甘く入った変化球ドロップを打たれ、
ホームラン。
それでも、沢村が失った点は、この1点のみ。
日本は点を入れることができず、0-1で敗れるが、
9回まで息詰まる接戦でした。
こんなシーンもあったそうです。
一方では全米チームもスポーツマンシップを忘れなかった。
沢村が四球で塁に出たときはベーブ・ルースやゲーリックが
肩を冷やさぬようにと、駆け寄って自分が着ているセーターを
着せて、沢村の肩を叩いて激励をしてくれた。
(17p)
こんなこともあったので、「心から幸福」と
思ったのでしょう。
沢村栄治18才。
まだまだ”大人”のしがらみが少なく、
体も絶好調だったので、
怖いもの知らずで、伸び伸びと投げていたのでしょう。
そんな沢村に、その後戦争が暗い影を落とすのです。
この本に、巨人軍が沢村を入団させるときの、
正力松太郎さんの言葉が載っていました。
※参考:ここでも道草 沢村栄治1.黒鉄ヒロシさんのコメント(2012年4月26日投稿)
「一生面倒を見る」とは書いてありませんでした。
正力は「とにかく日本の野球も必ず職業野球の時代がやってくる。
だから栄治君を僕に任せてくれないか。
そのときだけの面倒を見るというのではなく、
先の先まで、面倒を見るから正力を信用して
万事お任せください」と父親の賢二を説いた。
(18p)
これが黒鉄ヒロシさんの言う
「一生面倒を見る」の具体的な言葉なのでしょう。
しかし!もう私はこの「具体的な言葉」を調べていた。
過去の記事を読んでいて、この記事に出会いました。
※ここでも道草 巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花(2012年4月29日投稿)
ちゃんと調べていた私。
すっかり忘れていたことに驚き。
でも当時の私自身を褒めたい気持ちもあります。
「やるじゃん、俺」
つづく
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