戦場で行われた手榴弾投げ
今日は8月28日。
前投稿に引き続き、
「後楽園球場のサムライたち」(澤宮優著/現代書館)より。
沢村栄治さんが、戦場で手榴弾投げをして肩を痛めたとは、
聞いていました。詳しくは知りませんでした。
その様子が、この本には書いてありました。
軍隊内ではさかんに手榴弾投げ大会があった。
手榴弾は缶ビールほどの大きさで
重量はビール缶よりも重かった。
軍隊では30メートルを投げれば合格のところ、
彼は78メートルをゆうに投げていたという。
鉄の塊を70メートルも投げれば肩は完全に
壊れてしまう。
だが周囲は野球選手だからと好奇の目で見るために
どうしても遠投をしなければならなくなる。
沢村は連隊の格好の宣伝材料にされて投げまくり、
肩を負傷してしまったのである。
(28p)
沢村の速球は見る影もなくなっていた。
手榴弾投げが肩を壊した原因だが、沢村の投げた距離は
連隊中でもずば抜けていた。
前述したとおり、彼の投擲は相変わらず部隊一であった。
チームで沢村に可愛がられた多田文久三投手は
手榴弾投げについてこう語っている。
多田は歴代の巨人軍の選手の中でも
肩の強さはトップクラスであった。
「中国の機関銃はとても優れたものだったですね。
日本の軽機関銃はすぐ駄目になるんです。
一歩も前に出られないんです。
それで「手榴弾持って来い」と命令が出るわけです。
沢村さんは手で手榴弾を集めて、初めは寝投げ、
次に腰だけで立った腰投げ、最後に立って投げる立ち投げをやって、
敵を粉砕したという話を聞きました。
沢村さんは重たい手榴弾を100メートル以上投げられたとも
聞いています。鉄の塊を100メートル以上投げること自体凄いし、
それは肩を痛めるはずです。
肩がじーんと熱くなって完全にやられます。
私も一投投げたらもう二度と投げたくありませんでした。
言われても投げなかったですよ。ただ実力を認めさせないと
「貴様野球の選手のくせして」と責められる。
ふつう30メートルも投げる人はいなかったですよ。
沢村さんは続けて投げられていましたから、
そりゃ痛めるはずですよ。」
(37p)
こういうことがあったのですね。
「上官も沢村の将来を思って無理に投げさせなければと
悔やまれてなりませんでした」
(40p)
沢村の全盛期に対戦した小野田柏さんの言葉です。
でも、戦時中、個人のことはなかなか
配慮できなかったのではないでしょうか。
まずは生きのびること。
そのために、良かれと思ったことは、
優先的に行われたと思います。
将来野球をやるために・・・まずは生きのびなければ。
つづく
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