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2018年9月

2018年9月 9日 (日)

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その2

 

今日は9月9日。

  

前投稿に続いて、

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。

 

昭和5年秋、大リーグ通の鈴木惣太郎は『読売新聞』紙上に

「米国の野球はどう動く」という記事を連載した。

鈴木は群馬県の伊勢崎市で生糸の貿易会社に入り、

小松商店のエージェントとしてニューヨーク駐在中に

大リーグの試合に足繁く通った経験があり、

アメリカ野球に通じていた。

大リーガーの野球にすっかり魅了され、『横浜貿易新聞』に

「アメリカ野球通信」を送り続けた。

それが昭和4年、『米国の野球』という本になり出版された。

これが、日米野球を計画していた読売の目にとまった。

鈴木は読売の嘱託をなり、紙面を通じてペンを執り

アメリカの大リーグ事情を紹介した。

大リーグ招聘(しょうへい)のために本格的な動きが

始まったのである。

(82p)

  

鈴木惣太郎氏は以前から興味をもっていた人。

ここでも道草 巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花(2012年4月29日投稿)

この記事でも、次のように書いていました。

 

プロ野球スタートのことを勉強していて、印象に残った人が1人います。

鈴木惣太郎

機会があったら、この人についてもっと調べてみたい。

  

少しだけ調べが進みました。

  

昭和6年11月2日、試合に先立ってアメリカ選抜チームの歓迎会が

日比谷公会堂で開催された。

そして、古関裕而(こせきゆうじ)が作曲した「日米野球行進曲」が

披露された。

(88p)

この曲はyoutubeで聴くことができました。


YouTube: 歌う日本野球・日米野球行進曲(昭和6年)

このyoutube画面を見てあれと思いました。

Photo 「評伝 古関裕而」(菊池清麿著)

今回の「天才野球人 田部武雄」の作者と同じです。

ついでに著者菊池さんについて調べました。

Wikipedia 菊池清麿

私より1年先輩の1960年生まれ。

音楽史に詳しい方のようです。なるほど。

  

  

試合はあっという間に逆転され8対5。

ひっくり返された。

そして8回、全米チームはエースのグローブが登場した。

この年、アメリカン・リーグで31勝4敗、その快速球の前に、

宮脇、伊達、三原と連続三振。

強打者伊達のバットはピクリとも動かなかった。

続く杉田屋、夫馬、清水も連続三振だった。

これで六者連続三振、わずか21球で早稲田ナインは

仕留められた。

これが世界最高峰の投手が投げる「スモークボール」の威力である。

この日はラジオの全国放送。

松内省三アナウンサーの「グローブ投げました。あっ、ボールが見えません」

とはあまりに有名な言葉である。

(92p)

  

  

ただここで疑問。

松内省三アナウンサーのことを調べようとしても見つからず。

似た名前の松内則三アナウンサーならいました。

さらには似ているかなと思える河西三省アナウンサーもいました。

もしかしたら混ざった名前ではないかと想像します。

間違っていたらすみません。

  

グローブ投手については、ここ↓を読むと勉強になります。

とらまる王国 「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(1)

とらまる王国 「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(2)

52976044 とらまる王国

日本人がバットにボールを当てられるだけで、

怒っていたそうです。

その辺が納得できるお話が書いてあります。

  

なかなか田部さんのことを引用しませんが、

でも田部さんはそれぞれの現場にいた人です。

田部さんの足跡を知ることは、

職業野球が始まる前の、大学野球が盛り上がっていた時の様子が、

よくわかってくるのです。

沢村栄治さんを追いかけていても出てこなかった大学野球が、

田部さんの話ではよく出てきました。

沢村さんも憧れて慶應大学に入ることになっていたことも

思い出します。

  

次は都市対抗野球の話です。

都市対抗野球の創成期にも田部さんは関わりました。

  

都市対抗野球は橋戸信の発案によって昭和2年に始まった。

各都市を代表するクラブチームが競いあう大会という発案からだった。

橋戸は早稲田の学生時代、アメリカ大リーグチームが

地元にフランチャイズ制を採用していたことに

ヒントを得たと云われている。

(102p)

  

第1回の優勝チームは満州倶楽部でした。

第2回は同じく満州にある大連実業団。

第3回は満州倶楽部。

都市対抗野球は最初は満州のチームが強かったそうです。

田部さんも以前は大連実業団に所属していましたが、

第1回大会の予選で満州倶楽部に敗れ出場できませんでした。

田部さんが出場したのは第6回大会。

昭和7年です。

  

田部は東京倶楽部の一員として第六回全日本都市対抗野球大会に

姿を現した。

舞台は明治(大学)時代に快速を飛ばして走りまくった神宮球場。

神宮は田部の庭みたいなものである。

宮武の打棒と田部の盗塁への野球ファンの期待は高まっていた。

田部はよく神宮の外苑でランニングをしていた。

おそらく世界的なスプリンター吉岡に勝負を挑んだのも

この頃ではなかろうか。

オリンピック前の大事な時期に田部の果たし状を受けた吉岡も凄い。

(103~104p)

  

吉岡選手との競争については、前の方のページに書かれていました。

  

吉岡(隆徳)は神宮の外苑で練習をしていた。

そこへ田部が現れ、練習中の田部に競争を申し込んだのである。

吉岡はそれを受けた。

吉岡も神宮の盗塁王・田部武雄のことは知っていた。

いくら田部が天才的なランナーと言っても、彼は野球選手である。

吉岡は100メートルを10秒3。

スタートダッシュは弾丸のように速く50mなら世界のトップである。

その吉岡に100メートル競争を挑むなど正気の沙汰ではなかった。

結果はどうであったか。

何と田部は50メートルまでは競ったが、あとは離されたというのである。

これは、明大で共に活躍し阪神タイガースの強打者としても活躍した

松木謙次郎の証言にもある。(中略)

世界レベルの陸上ランナーとスタートからその前半を

ほぼ互角に走るのだからいかにトップスピードが速いかがわかる。

(36p)

  

吉岡隆徳さんは1909年生まれ。

田部武雄さんは1906年生まれ。

ほぼ同年代の人たちだったのですね。

いいエピソードです。  

 

続く

「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その1

今日は9月9日。

  

天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)を

読みました。

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以前もこのタイトルで記事を書きました。

ここでも道草 「それぞれの街に、沢村さん」高木正雄さんのこと(2018年8月28日投稿)

その2人目はこの本で描かれた田部武雄さん。

  

本から引用していきます。

  

昭和2年、田部は広陵中学に復学した。(中略)

田部は、この春の選抜出場の時点で20歳を超えていた。

当時、春の選抜野球は在学年数や年齢制限がなかったので、

出場は可能だった。

20歳を越えた青年が甲子園に出場することは

現代なら到底考えられないことである。

ここにも戦前のおおらかさが感じられる。

(24p)

  

田部さんは1906年(明治39年)生まれです。

  

1929年(昭和4年)、

田部さんがいた明大野球部は、アメリカ遠征に出る。

遠征の帰りにヨーロッパを漫遊しています。

  

明大ナインはスイスでのアルプス越えで湖水の美感に感嘆し、

イタリアに入った。

ローマで古代遺跡を見学し、登山電車の歌で知られる

ヴェスヴィオ火山に登った。

この火山の噴火によって一瞬にして廃墟となった

ポンペイの町を見て大自然の脅威をつくづく思い知らされた。

(57p)

  

びっくり、明大ナインはベスビオ火山に登り、

ポンペイの町を訪れていました。

1944年にベスビオ火山は噴火して、

登山電車は破壊されています。

その噴火以後、ベスビオ火山は噴火していません。

明大ナインは、噴火しているベスビオ山を見ているかも。

   

  

初戦を落とした明治は2回戦の雪辱に燃えていた。

だが、この慶明2回戦(5月18日)が大きな波紋を

引き起こすことになるのである。

(中略)

事件の舞台は8回の裏、慶應の攻撃である。

6対5で明大がリード。1点を追う慶應、一死、一、三塁。

打者は牧野を迎えた。

明治の八十川は三塁に牽制するとみせかけて一塁へ牽制球を投げた。

プレートを外している。

ところが、これは審判会議では、

この投球動作をボークとみなすと決めていた。

しかも、その新ルールが早慶両校のみにしか伝達されていなかったという

不手際があった。

八十川の牽制の後、慶應ベンチのダッグアウトから腰元監督が

「ボーク、ボーク」と叫ぶ。

浅沼主審はマウンド上の八十川にボークを宣告した。

これに明大側は怒った。

八十川は軸足をプレートから外しているからボークではない。

岡田監督をはじめ明大ナインは浅沼主審を取り囲み抗議をした。

田部もボークの場合の投球動作を見せ、浅沼に抗議した。

確かに、三塁へ牽制しようとし一歩踏み出し、

さらに連続動作でグルリと一転して一塁に投げればボークだが、

以前の牽制動作ではボークになると知っていたから、

この時の八十川は軸足を完全にプレートから外していた。

どこへ投げようと自由なのだ。

この浅沼と田部は後に巨人軍内部でも対立する。

因縁の二人だった。

(73~74p)  

  

「八十川ボーク事件」をWikipediaで調べてみました。

Wikipedia 八十川ボーク事件

1931年(昭和6年)のことでした。

Wikipediaに興味深いことが書いてありました。

 

なおこの事件の主要人物・八十川胖、田部武雄、小川年安は、

広島広陵中学(現・広陵高校)のチームメイトである。

八十川の行った牽制は、現在もよく見られ

今ではランナーがほとんど引っかかることはないが、

元々田部が最初に始めたもので八十川はこれをまねたものである。

またキャッチャーである小川も同様の牽制を得意とし、

阪神時代これを“ツバメ返し”と呼んだとされているが、

現在はこの呼ばれ方はされていない。

  

あの牽制のやり方は、田部さんの考案だったのですね。

遺産をちゃんと見ていました。

  

  

つづく

2018年9月 8日 (土)

201808029鍵掛峠・王岳に登る 王岳に登った

 

今日は9月8日。

  

前投稿に続いて、8月29日の登山報告。

  

鍵掛峠の足元。

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トリカブトが咲いていました!

登ったご褒美のように。

そしてご褒美は、景色も。

登る時には雲がかぶっていた尾根ですが、

どうにか景色を見ることができました。

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ここに文字をうちこみました↓

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王岳に登るきっかけになった場所、

三湖台も見ることができました。

アップで撮りました。

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参考にした登山記録に、次のような記述がありました。

 

(王岳山頂から)いやしの里駐車場も見ることが出来、

山頂から自分の車を認識するのは初めてです。

  

引用元:ヤマケイ オンライン 山梨百名山No.31_王岳

 

このことを鍵掛峠で実行しました。

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鍵掛峠から王岳を目指しました。

 

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↑ 別世界でしょ。やっぱり月に最低1回は、

このような世界を歩きたい。

でも王岳までにいくつもピークがあり、

汗をしっかりかい歩きました。

  

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尾根道で、ついに咲き始めたアザミを発見。

見ることができてよかった。

  

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↑ しばらく歩いたので、西湖の見えるところが増えました。

再び駐車場の車を確認しました。

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いよいよ王岳が近づいてきました。

樹間に王岳が見えます。

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あと少し

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王岳頂上到着。時刻は11時18分。

ここで昼食。

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景色は草が茂っていて、イマイチ。

この草がない季節なら、快適でしょう。

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でも西湖は最大見えました。

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アザミが開花しているのも、頂上で発見。

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頂上を出発したのは11時30分。

下山スタート。

王岳から直接「西湖いやしの里根場」を目指します。

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笹が生い茂っているとは聞いていたけど、

予想以上でした。

  

 

途中で林道になります。

このコースの山道入口↓

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そして登山口。

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駐車場に戻ってきました。

時刻は12時41分。

3時間42分、山の中にいました。

  

帰りは近くの道の駅で家へのお土産を購入。

山梨県の桃とピオーネ。

ピオーネは思い出があります。

子どもが小さい時に、山梨県笛吹市にある

石和(いさわ)温泉に家族旅行に来て、

ピオーネのぶどう狩りをしました。

何年か行きました。

そんな思い出の味のピオーネを買って帰りました。

  

以上で8月29日の登山報告終了。

最後に、Yahoo!地図で、今回歩いた付近を示します。

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201808029鍵掛峠・王岳に登る 鍵掛峠に行きつく

 

今日は9月8日。

  

今晩最後の仕事は、やっぱり道草。

9月2日に登った山の報告。

  

8月25日の報告で、樹海を歩いたり、

三湖台からの眺めを見て、

久々に、登ったことのない山を1人で登ることをしてみたいと

思いました。登る山は御坂山地の山。

そして決めました。王岳に登る。

でも王岳の往復だけで物足りないので、

鍵掛峠→王岳を登ることにしました。

  

決行日は8月29日。

  

8月中に3回目の富士山麓。贅沢してます。

ただ条件がありました。奥さんから許可をもらうために。

朝、資源ごみを出していくこと。  

明るくならないと、資源ごみ収集所に出せないので、

出発は午前5時過ぎです。

そして、帰りは午後5時までに。

介護の必要な父親を風呂に入れるためです。

したがって12時間勝負!。

十分です。その条件を飲んで出発しました。

  

  

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自動車は西湖のほとりにある

「西湖いやしの里根場(ねんば)」です。

広大な駐車場でした。

駐車代は無料とありました。ありがたい。

ただ、下山して気がつきましたが、

登山者用の駐車場がありました。

その写真を載せます↓

「西湖いやしの里根場」の駐車場入り口付近です。

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この草地が登山者用の駐車場です。

これから登る人は参考にしてください。

 

 

登山口です↓ 写真の時刻は午前8時59分。

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最初は「西湖いやしの里根場」の敷地内を歩き、

そしてしばらくは林道歩き↓

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クマが出没するという看板がありました。

1人のスリル。ザックからクマよけ鈴を出して、

鳴らして歩きました。

 

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↑ ここから山道です。時刻は9時14分。

  

こんな道を歩きました↓

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こんな蒸し暑い日に登るのは、私ぐらいかなと思っていたら、

ご夫婦の登山者に追いつきました。

何と、元同職の方たちでした。

年はひとまわり、ご夫婦の方が上で、

すでに退職されています。

2月に三湖台に登って、この王岳に登りたくなったそうです。

私と全く同じ発想。

三湖台→御坂山地の流れは、きっと今までに多くの人が実行したと

想像します。

 

高度を上げてきたら、足元にアザミを見るようになりました。

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つぼみでした。

痛そうなつぼみでした。

 少し歩いたら、少し咲き始めたアザミがありました。

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高い方がいいのか?

それなら頂上に近づけば咲いたのを見ることができるのか?

  

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足元にまた目にとまった植物あり。

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これは見覚えがある形。トリカブトですね。

  

  

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↑ 御坂山地の縦走路のある尾根が近づいてきた景色です。

王岳方面が見えてきました。

  

そして鍵掛峠に到着。

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時刻は10時12分。

  

つづく。

  

  

  

珍しい名字「七五三掛」/仕事がつくり出す「手」/WOWWOWのドラマ

今日は9月8日。

  

「ザ・テレビジョン」or「TVガイド」を毎週熟読して、

録画したい番組をピックアアップすることは、

長年の私の習慣です。

読むと、このブログに書きたことが増えます。

 

今回は「TVガイド 2018年9月8日~9月14日 中部版

(東京ニュース通信社)より。

 

ジャニーズJr.の紹介があり、この人の名前が気になりました。

少し加工した写真です↓

Img_1159_2  

七五三掛龍也

「しめかけ りゅうや」と読むそうです。

珍しい名字です。

それくらい珍しいのか調べてみました。

名字由来Net 七五三掛

ここから引用します。

 

【全国順位】 16,009位

【全国人数】 およそ340人

現山形県である羽前国(うぜんのくに)

田川郡大網村(現朝日村)七五三掛がルーツとされる。

「注連(しめ)をかけた聖地」「立ち入り禁止の土地」が語源。

近年、茨城県古河市、栃木県など関東にみられる。

注連縄(しめなわ)が語源。

  

つまり現在の朝日村七五三掛地区がルーツ。

Yahoo!地図で示します。

Photo

Photo_2  

地図で探していてわかりましたが、

現在朝日村は存在していませんでした。

2005年に合併して、

鶴岡市の中に含まれていました。

 

七五三掛龍也さんの出身地は、山形県?

調べました。

あっぷあっぷ 七五三掛龍也の読みと出身中学や・・・・

茨城県でした。

そうなると上記の「名字由来Net」によると、

白河市の可能性がありますね。どうなんだろう?

  

調べたら、判明しました。

トレンドニュースどっと東京

ここに書いてありました。

七五三掛さんの出身小学校は「古河市立古河第五小学校」

出身中学校は「古河市立古河第一中学校」です。

古河市でした。

「名字由来Net」の説明を裏づける結果でした。

うれしいですね。

その後、家族で引っ越し、現在は栃木県在住だそうです。

   

  

次の記事。

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ボディ・ミュージアム ~『手』の美を探る~

(NHKBSプレミアム)の番組紹介です。

「手」・・・気になる体の部分です。

 

夏休みに素手で草取りをかなりやったので、

両手人差し指、第一関節までの親指側が、

硬くなってしまいました。

親指の腹とそこで強敵ハマスゲの根元をはさんで、

何回も引っこ抜いた結果です。

  

就職の直前、住み込みで40日間、

高原野菜づくりにかかわりました。

ずっと鍬を使っての作業でした。

その時も素手。

その結果、私の人生で最も手のひらの皮の厚い、

たくましい手になりました。

あの時の手は好きでした。

仕事の証が手に残る。その時に実感しました。

   

「草取りをする時には軍手を使ったら」と勧められますが、

あの日のような手になりたいと思っている私は、

素手にこだわります。

  

仕事がつくり出す「手」を、この番組で見てみたいです。

 

  

 

この記事にも注目。

Epson864  

登場人物を見てビックリ。

ドラマ「遺留捜査」に共演している上川隆也さんと甲本雅裕さんが

このドラマでも共演するようです。

「遺留捜査」とは雰囲気が違う2人のようです。

楽しみ。さらに楽しみなのが、小泉孝太郎さんの共演。

小泉さんのドラマ「警視庁ゼロ係」での刑事役は愉快。

でもこれまた、このドラマでは、違う雰囲気で演じる模様。

「遺留捜査」「警視庁ゼロ係」の出演者3人の刑事ぶりを見たくなりました。

 

しかし、WOWWOWだ。

でも待てよ・・・・

Wowwow wowwow

 

5話のうち1話のみ無料放送でした。

もう~商売がうまいんだから。

2018年9月 7日 (金)

「世界ふしぎ発見!」が33年続いている必然・・という記事を捉えた

今日は9月7日。

 

今朝起きて読んだYahoo!ニュース。

世界ふしぎ発見!」に関する次のニュースを

じっくり読んでしまいました。

「世界ふしぎ発見!」が33年も続いている必然(東洋経済ONLINE/9月6日配信)  

このニュースは、いずれ消えてしまいます。

それがすごくもったいない。

そこで、少々多めに引用します。

 

まず冒頭部分を引用します。

  

“ミステリーハンター”が世界中に飛び、

各地のユニークな話題を問題として提供する。

紀行系クイズバラエティの代表的番組である

「日立 世界ふしぎ発見!」(以下「世界ふしぎ発見!」)は

今年4月に放送33年目に突入した。

番組開始以来プロデューサーを務める重延浩氏に、

そのエピソードと番組に懸ける想いを披瀝してもらった。

  

 

そして魅力的な文章が続く。

  

でもクイズとは一体誰が発明したのだろうかと考えたことがあった。

私が最も同感したエピソードを記す。

アイルランドの首都ダブリン市で劇場支配人が

飲み仲間に提案した。

「意味のない言葉を一つ創って、

一夜でそれを有名な言葉にしてしまおうじゃないか」。

そこで支配人は「QUIZ」という4文字の言葉を選び、

その言葉を町中の壁に貼った。

町の人々はその謎めいた言葉の意味がわからず、

なんだ、なんだという噂が町中に広まり、

「QUIZ」は一挙に「わからない謎」という意味で

流行語になったという。

テレビに望まれているのはこの劇場支配人のような発想ではないか。

何か今までにないことを独創的に試みること、

それがクイズ番組の原点ではないか。

テレビ制作者は状況を演出する人でなければならない。

  

 

「クイズ」の語源が面白い。

参考:Wikoedia クイズ  

  

  

「世界ふしぎ発見!」は、クイズに「歴史」という

学術的なテーマを設定した。それが新しかった。

「歴史と遊ぶ」という今に続く番組キャッチコピーは、

最初の会議で発想された。

   

  

クイズと歴史はつながっていなかったのですね。

不思議な感じです。

今は歴史とクイズは切っても切り離せない関係です。

   

 

「毎週放送だから歴史テーマが続かないのではないか?」

と質問された。

私は「いえ、そんなことはありません。日本史だけでも

テーマは100以上あります。世界には数多くの国があります。

人がいるところには必ず歴史がある、私はそう信じています」

と答えた。

  

 

私も思う。

歴史のネタはたくさんある。

「日本史だけでもテーマは100以上」

当時はそう思ったでしょうけど、

時代も進むので、現在も過去になり歴史になっています。

今なら「無限にテーマはある」と

言い切ってもいいんではないでしょうか。

  

  

 

最初の放送は土曜夜10時から。1986年4月19日だった。

古代エジプト編から始まる。台本はガリ版刷りだった。

NHKを退社しフリーで活動していた草野仁さんを司会に迎える。

クイズという初めてのバラエティの司会には逡巡していたという。

だが草野さんは企画書を読み、

「あなたもインディ・ジョーンズになりませんか」

という明るい書き出しに、

今までの番組とはちょっと違う感覚と思わせる

“何か”を感じたという。

映画『インディ・ジョーンズ』シリーズが

そのころ日本で大ヒットしていた。

    

当時草野さんは、41歳。現在74歳。

   

黒柳徹子さんとはアメリカで

私のいろいろな番組に出演していただいていた。

ロサンゼルス、ラスベガス、ニューヨーク、ニューオーリンズ。

そこで食事したディナーのメニューをしっかり覚えていた。

その記憶の凄さを頼って歴史クイズ番組への出演をお願いした。

「これはただ正解を競う番組ではありません。

歴史をテーマにする番組で、クイズを考えながら

自分ならこう思うという、トークを大切にする

クイズ&トークショーです」と話した。

戦時中、黒柳さんの歴史の教科書は

検閲で真っ黒に消されていたという。

「私は歴史をしっかり勉強したい。

だからどこの国をテーマにするか、

どの人物をテーマにするかは教えてください。

それをきっかけに勉強します。それなら……」。

 私たちは方針を変えた。出演者にはその週のテーマを教えることにした。

だがどんな勉強をされても簡単にわからないアンサーを考えよう。

リサーチャーたちは燃えた。

だから日本で一番難しい、だけど面白いと言われるクイズ番組が生まれた。

正解を目的とするクイズ番組ではない。

そこで語られる人間の知恵に共感するような

知的エンターテインメント番組にした。

      

  

当時黒柳さんは51歳。現在85歳。

いやあ~すごい85歳です。

知的な衰えを見せないところを見習いたいというか、

知的好奇心を持っていたら衰えないという可能性を

示してもらっています。

     

始まった当時の視聴率は無惨なものだった。

1回目6.6%、2回目5.6%、そして3回目は3.5%(ニールセン調査、当時)。

ある週刊誌は「プロデューサーは間もなく首になるだろう」と報じた。

改革案が飛び交うなか、報告に行った提供主、

日立の宣伝部長は私にこう言った。

「君が自分のプランを正しいと思うなら、そのままやると良い」。

番組は蘇った。

古代遺産を視聴者に教育するような番組の制作方針に

問題があったのだ。

だが8回目で「タイに日本とまったく同じ納豆がある」という

日常生活に近い意外な発見をしたことから、

人間を見るやさしい目線で歴史を語る番組に変わった。

視聴率は急上昇した。

   

なるほど。

これは社会科授業でも大事なこと。

  

野々村は20年間パーフェクトを取れなかった。

もしパーフェクトを取ったら帝国ホテルで

盛大にパーティをやってあげるという私の約束を信じる人はいなかった。

野々村初のパーフェクト! (2005年8月6日放送分)

私はその約束を果たした。

帝国ホテルも笑いながら豪華な孔雀の間をとってくれた。

TBSの社長も出席し、野々村家の家族を招いた盛大なパーティが開かれた。

みんなが感動するパーティだった。

黒柳さんは「私はたくさんパーフェクトを取っているのに、

一度もパーティを開いてもらってない」と笑わせる。

チームみんなが同じ思いで制作すること、それが継続の秘訣である。

1年目からいたスタッフが10名、昔のままに働いている。

   

 

「1年目からいたスタッフが10名」!

みんないい年だろうなあ。

私の新任は1985年4月。

番組はその1年後にスタートしています。

ほぼ同じです。

私がいい年なのだから、スタッフもそうだろうと

考えました。

  

  

私の尊敬するフジテレビ「オレたちひょうきん族」の

プロデューサー、横澤彪さんがある日私にこう囁いてくれた。

「君ね、僕は『世界ふしぎ発見!』をずっと見ているのだけど、

毎年少しずつ内容変えているね。

それも気がつかれないようにね。

それがすごいよ、僕は今、君の番組が一番新しい番組だと思うよ」。

嬉しい言葉だった。見事に私たちの戦略を見抜いている。

その数カ月後に横澤さんは亡くなった。

彼の遺言を私の大切な教訓として胸に残している。

  

  

これも教育に通じます。

マンネリではいけないのです。

変えていかなくては。

そのためには新しい情報を得ることを怠ってはいけないと思います。

新しい情報を加味して新しいものを作っていく。

少しだけ変える。

その積み重ね。 

   

「レギュラー番組をどのように継続できるか」

とよく聞かれるが、逆に私はこう質問する。

3択である。番組を制作していて一番難しいことは何か?  

①企画を通すこと、②番組を成功させること、③番組を続けること。

すべて難しいことばかりだが、正解は③である。

なぜか?  

番組を続けるにはかなりの経験と戦略がないとできない。

提供主、放送局、人事、視聴率、視聴者、裏番組、出演者、スタッフ、

そのすべてにいつも鋭敏に対応し続けなければならない。

そのためには正論を意識高く持ち続けなければならない。

自分の正論を理解してもらう力を持つこと。

安易に正論を曲げると、結局一番大切な視聴者、出演者、

スタッフを失うことになる。

   

 

番組作りのたいへんさが伝わってきます。

  

  

  

いつまでこの番組を続けるのか?  

ATP賞特別賞の受賞式で私はこう答えた。

「この番組が始まった1986年にハレー彗星がやってきた、

次にハレー彗星が来るのは2061年。その年まで続けたい。

だがそのときに元気でスタジオに坐っているのは黒柳徹子さんだけでしょう……」。

満場の笑いを受けて私は段を降りた。

クイズ番組「世界ふしぎ発見!」の最高の目的は視聴率ではない。

この番組で私たちの、そして提供企業、放送局の独創的なメッセージを

社会に発信することであると思っている。

それを多くの人々に見てもらいたい。

それがテレビ制作者の使命であると思っている。

  

  

ハレー彗星はやっぱり魅力的ですね。

1986年2月に新任の学校でハレーすい星を見ました。

その時に気がつきました。

今度ハレー彗星が来るときは、私はジャスト100歳。

そこまで生きていてもう一度見たいと。

ここでも道草 東京駅開業100年13/1910年の東京駅の記事の次はハレー彗星(2015年2月14日投稿)

その時に「世界ふしぎ発見」を見ることも忘れないようにしよう。

 

 

授業で「ふしぎ発見」の映像をたくさん使いました。

もしかしたら、授業のやり方にも影響を受けたかもしれません。

知的好奇心をくすぐられてきたので、

生徒たちにもこの体験をさせたいと思うようになってきたかも。

今日の授業でも、知的好奇心をワクワクさせるような内容をかんがえたい。

教材研究を頑張ろう。

  

 

以上、本当は今朝起きたらやりたいこと(やらねばならないこと)が

あったのですが、この記事を読んで、しっかり道草をしてしまいました。

記事がなくならないうちに、このブログに書き留めたいと思いました。

充実感あり。

今からがあわただしい。

2018年9月 6日 (木)

2学期最初の社会科の授業 コンビニのおにぎりの話

 

今日は9月6日。

  

前投稿の続きで、2学期最初の社会科の授業のことを書きます。

  

5月16日放映の「林修のニッポンドリル」を授業で見せました。

特にコンビニのおにぎりのところを見せました。

 

ローソンの「焼さけハラミ

L508429_1 https://pinspo.com/12204.html

このおにぎりの中に含まれているサケについて。

南米のチリで養殖されたサケが、

東南アジアのタイで加工されて、

日本に運ばれ、焼かれていることを紹介しました。

そしてサケを焼くときに塩糀(こうじ)に漬けていること。

その塩糀が、地元のイチビキで作られたものであることを

紹介しました。

つまり、このおにぎりは、地球の裏側から来た材料と、

すぐ近くの工場で作られたものの味付けが

楽しめるよと伝えました。

昨年の「ガイアの夜明け」情報が役に立ちました。

 

 

セブンイレブンの「厳選米おむすび

Dispimage http://www.sej.co.jp/i/item/10010004536300.html?category=359&page=1

 

このおにぎりは、のりも巻かずに握り方で勝負している

おにぎりだと、番組を見せながら紹介しました。

 

 

以上、2つのおにぎりを紹介して、

もし、チリ産のサケ+地元の塩糀を味わいたいと思ったら、

あるいは、握り方勝負のおにぎりを味わいたいと思ったら、

実際にコンビニに行って食べようと勧めました。

これからも授業の内容で興味をもったら、

できる限り、実際に行ったり、体験したり、

あるいは自分でもっと調べたりしていこうと。

  

こんな方針を打ち出したくて、

2学期最初の社会科の授業は、

コンビニのおにぎりの話をしました。

  

  

実際にコンビニに行って、おにぎりを買って食べた人は、

ぜひ、報告をしてよと言いました。

その行為を他の生徒にも伝え、広めていきたいです。

  

2018年9月 5日 (水)

2学期最初の社会科の授業 9月3日の「今日は何の日」クイズ

今日は9月5日。

 

2学期が始まりました。

9月3日の最初の社会科の授業は、

「今日は何の日」クイズと、

コンビニのおにぎりの話を授業でやってみました。

 

9月3日の「今日は何の日」クイズ・・・最初はこれ。

 

「〇ー〇〇〇の日」

 

 

正解は「ホームランの日

その理由は、今日は何の日~毎日が記念日~9月3日より引用。

 

1977年のこの日、後楽園球場で巨人の王貞治選手が

通算756号ホームランを打ち、

それまでアメリカ大リーグの

ハンク・アーロンが持っていた世界最高記録を更新した。

2日後の9月5日に、政府は初の国民栄誉賞を贈り、

その栄誉を讃えた。王選手は引退までに868本のホームランを打った。

 

しかし、生徒たちで王貞治選手を知っている人は少なし。

残念なことです。私たちのヒーローでした。

20120503150617e55 読書を楽しもう!!

確かにこの日、私はテレビでこの瞬間を見ていました。

欠かせない問題でした。

    

  

  

9月3日の「今日は何の日」クイズ・・・第2問。

これは簡単。

 

「〇”〇の日」

 

9月3日だからと言えば、正解の「グミの日」は比較的早く出ます。

 

これは前座。

9月3日の「今日は何の日」クイズ・・・第3問。

これが難しい。

 

「〇”○〇”の日」

  

これも9月3日だからというヒントで押しました。

でも「グミの日」とは違って難しい。

これは「ベッドの日」が正解です。

その理由に、「9月3日」がひそんでいました。

 

上記の「今日は何の日~毎日が記念日~」から引用します。

  

日本ベッド工業会が制定。

「グッ(9)スリ(3)」の語呂合せ。

 

「9」を「グ」と読むのは、「グミの日」がヒント。

「3」を「スリー」と読める人は素晴らしい。

  

  

ちなみに昨日9月4日は「関西国際空港開港記念日」でした。

その理由を今日は何の日~毎日が記念日~9月4日より引用。

 

1994年9月4日午前0時、関西国際空港が開港した。

世界初の本格的な海上空港で、日本初の24時間運用空港でもある。

航空審議会が「泉州沖が最適」と答申してから20年目のことだった。

  

その記念日である2018年9月4日。

関西国際空港はたいへんことになりました。

台風21号のために、空港と陸地を結ぶ連絡橋にタンカーが衝突。

さらに、高潮のため空港の滑走路などは水浸し。

連絡橋は通行止め、滑走路も閉鎖。

さんざんな24周年となってしまいました。

  

 

コンビニのおにぎりの話は、2つの番組を利用しました。

5月16日放映の「林修のニッポンドリル

ここでも道草 セブンイレブンのおにぎり/握り方で勝負に出た(2018年5月16日投稿)

昨年11月14日放映の「ガイアの夜明け

ここでも道草 ローソンのおにぎり大改革/具の大きさの均一化(2017年12月12日投稿)

ここでも道草 ローソンのおにぎり大改革/鮭を塩こうじに漬ける(2017年12月17日投稿)

 

  

う~ん、もう出勤なので、続きは今晩。

2018年9月 4日 (火)

20180825樹海を歩いてきました クニマスは湖沼陸封型/せの海の変遷

今日は9月4日。

  

 前投稿の続きで8月25日の登山報告です。

今回がラストです。

  

Rimg0356

Rimg0357  

西湖のほとりにある西湖ネイチャーセンター。

ここでも道草 20180825樹海を歩いてきました クニマス展示館で長居(2018年9月2日投稿)

「クニマス展示館」を含む施設です。

そこで購入したのが「奇跡の魚(うお)クニマスについて」という

冊子と、缶バッジです。

これが勉強になりました。

  

少しだけ引用します。

 

ヒメマスはベニザケのコカニー(湖沼陸封型)です。

およそ15~10万年前にできた阿寒湖に入り込んで、

湖で一生を送るようになったのがヒメマスです。

クニマスもベニザケのコカニーですが、

田沢湖は180~170万年前にできたと考えらえています。

  

「陸封」という言葉に注目。

「陸封」の意味を調べました。

 

海産動物が地形的に海から切り離された湖沼などに封じこめられ、

そこで淡水動物として世代を繰り返すこと。

甲殻類アミの仲間のイサザアミなど。

また、降海する性質の魚が、環境の変化などのために

湖沼・河川に閉じこめられ、そこで繁殖するようになる現象をもさす。

ヒメマス・ヤマメ、琵琶湖・池田湖などのコアユはその例。

※引用:コトバンク 大辞林第三版

なるほど。

また面白い言葉、現象を知りました。

  

  

 

8月25日の報告のラストは「せの海」の形。

せの海はどんな形をしていたのでしょう?

参考になるサイトはここ ↓

富士五湖.TV 富士五湖の成り立ち

このサイトによると、

「古せの湖」(このサイトでは海ではなくて湖)という

大きな湖があって、富士山の噴火による溶岩流で、

「せの湖」と「本栖湖」に分離。

「せの湖」が貞観噴火で溶岩流で「西湖」と「精進湖」に分離。

したがって「本栖湖」「西湖」「精進湖」は地下で

つながっている湖。したがって水位の上下も同じ。

  

図を載せたいと思いましたが、

これはいいと思うものがありませんでした。

 

以上で8月25日の報告終了。

 

  

20180825樹海を歩いてきました 鳴沢歩道橋の上に立つ/せの海

今日は9月4日。

  

今朝起きた時(午前3時45分頃)に調べた時には

暴風警報が出ていませんでした。

そしたら、先ほど(午前6時20分頃)、家族から

暴風警報が出ていることを教えてもらいました。

午前4時20分に出たそうです。

私が調べてしばらくして出たのですね。

昨日は、勤務校のヒマワリ畑の大小のヒマワリに、

支柱を立て、ひもでしばりつけました。

この今世紀最強台風に耐えてくださいね。

  

暴風警報が出て、今日の授業準備をする必要がなくなりました。

そうなると、私は道草します。

出勤前にもう1本。

  

8月25日にぜひ行きたかったのが、鳴沢歩道橋付近です。

※参考:ここでも道草 「ブラタモリ 10」で勉強/鳴沢歩道橋付近にある溶岩の末端(2018年8月13日投稿)

↑ ここで書いた場所に実際に行ってみたかったのです。

  

富岳風穴見学の後に行ってきました。

 

Rimg0319  

実際にこの歩道橋近くに立って、

ここをスタートして坂道になっていることを

確認しました。

 

歩道橋の上にも登ってみました。

Rimg0323  

大室山付近の火口から、溶岩がここまで来たんだなあ。

その溶岩で、こんな坂が形成されたんだなあ。

その規模の大きさを歩道橋に登ってみて感じました。

 

歩道橋から逆方向を撮影↓

Rimg0326  

この地域は、その時、溶岩の被害を受けなかった場所。

この溶岩を出した貞観大噴火は864年に始まる。

この場所まで逃げ延びた人たちは、ホッとしただろうな。

  

貞観大噴火は、かつて富士山麓に東西に広大にあった湖「せの海」を

溶岩流で大部分埋めてしまったと言います。

埋らなかったのが、西湖と精進湖だそうです。

※参考:Wikipedia せの海

Yahoo!地図で確認。

Photo_10  

上記のWikipdiaには、噴火直後の様子を伝える文献が紹介されています。

引用します。

 

『日本三代実録』の「貞観6年7月17日」(ユリウス暦864年8月22日)に

甲斐国国司から京の朝廷に届けられた報告(貞観大噴火についての第2報)

(中略)

(現代語訳)
貞観6年7月17日辛丑(かのとうし)、甲斐国(の国司)が報じるところ、

駿河国の大山・富士が突如として火を噴き、山じゅうを焼き砕き、

草木は焦がれ死んだ。土石は溶け流れて、

八代郡にある本栖海(本栖湖)と剗の海(せのうみ)を埋めてしまった。

湖水はお湯のように熱くなり、魚や亀の類はみな死んだ。

人々の家屋は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、

そのような例は数え上げることもできない。

2つの湖の東には河口海(河口湖)という湖があるが、

火はこの方角へも向かっている。

本栖海や剗の海が焼け埋まる前には、大地が大きく揺れ、

雷と大雨があって、雲霧が立ちこめて暗闇に包まれ、

山野の区別もつかなくなった。

それらが起こった後にこのような災異が訪れたのだ。

  

 

非常に面白い話です。

よくぞ書き残しておいてくれました。

こうなるとかつての「せの海」の姿(予想図)を見たい。

また探してみます。

 

  

最後に鳴沢歩道橋の上から撮った富士山です。

Rimg0320

↑ 登っていったら、正面に富士山!

次は電信柱を少し外して撮影 ↓

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朝ごはんを食べて出勤します。

朝から3本道草。贅沢しました。

暴風警報のおかげです。

  

もう1回続く。

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