「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その1
今日は9月9日。
「天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)を
読みました。
以前もこのタイトルで記事を書きました。
※ここでも道草 「それぞれの街に、沢村さん」高木正雄さんのこと(2018年8月28日投稿)
その2人目はこの本で描かれた田部武雄さん。
本から引用していきます。
昭和2年、田部は広陵中学に復学した。(中略)
田部は、この春の選抜出場の時点で20歳を超えていた。
当時、春の選抜野球は在学年数や年齢制限がなかったので、
出場は可能だった。
20歳を越えた青年が甲子園に出場することは
現代なら到底考えられないことである。
ここにも戦前のおおらかさが感じられる。
(24p)
田部さんは1906年(明治39年)生まれです。
1929年(昭和4年)、
田部さんがいた明大野球部は、アメリカ遠征に出る。
遠征の帰りにヨーロッパを漫遊しています。
明大ナインはスイスでのアルプス越えで湖水の美感に感嘆し、
イタリアに入った。
ローマで古代遺跡を見学し、登山電車の歌で知られる
ヴェスヴィオ火山に登った。
この火山の噴火によって一瞬にして廃墟となった
ポンペイの町を見て大自然の脅威をつくづく思い知らされた。
(57p)
びっくり、明大ナインはベスビオ火山に登り、
ポンペイの町を訪れていました。
1944年にベスビオ火山は噴火して、
登山電車は破壊されています。
その噴火以後、ベスビオ火山は噴火していません。
明大ナインは、噴火しているベスビオ山を見ているかも。
初戦を落とした明治は2回戦の雪辱に燃えていた。
だが、この慶明2回戦(5月18日)が大きな波紋を
引き起こすことになるのである。
(中略)
事件の舞台は8回の裏、慶應の攻撃である。
6対5で明大がリード。1点を追う慶應、一死、一、三塁。
打者は牧野を迎えた。
明治の八十川は三塁に牽制するとみせかけて一塁へ牽制球を投げた。
プレートを外している。
ところが、これは審判会議では、
この投球動作をボークとみなすと決めていた。
しかも、その新ルールが早慶両校のみにしか伝達されていなかったという
不手際があった。
八十川の牽制の後、慶應ベンチのダッグアウトから腰元監督が
「ボーク、ボーク」と叫ぶ。
浅沼主審はマウンド上の八十川にボークを宣告した。
これに明大側は怒った。
八十川は軸足をプレートから外しているからボークではない。
岡田監督をはじめ明大ナインは浅沼主審を取り囲み抗議をした。
田部もボークの場合の投球動作を見せ、浅沼に抗議した。
確かに、三塁へ牽制しようとし一歩踏み出し、
さらに連続動作でグルリと一転して一塁に投げればボークだが、
以前の牽制動作ではボークになると知っていたから、
この時の八十川は軸足を完全にプレートから外していた。
どこへ投げようと自由なのだ。
この浅沼と田部は後に巨人軍内部でも対立する。
因縁の二人だった。
(73~74p)
「八十川ボーク事件」をWikipediaで調べてみました。
1931年(昭和6年)のことでした。
Wikipediaに興味深いことが書いてありました。
なおこの事件の主要人物・八十川胖、田部武雄、小川年安は、
広島広陵中学(現・広陵高校)のチームメイトである。
八十川の行った牽制は、現在もよく見られ
今ではランナーがほとんど引っかかることはないが、
元々田部が最初に始めたもので八十川はこれをまねたものである。
またキャッチャーである小川も同様の牽制を得意とし、
阪神時代これを“ツバメ返し”と呼んだとされているが、
現在はこの呼ばれ方はされていない。
あの牽制のやり方は、田部さんの考案だったのですね。
遺産をちゃんと見ていました。
つづく
コメント