「それぞれの街に、それぞれの沢村さん」田部武雄さんのこと その2
今日は9月9日。
前投稿に続いて、
「天才野球人 田部武雄」(菊池清麿著/彩流社)より引用。
昭和5年秋、大リーグ通の鈴木惣太郎は『読売新聞』紙上に
「米国の野球はどう動く」という記事を連載した。
鈴木は群馬県の伊勢崎市で生糸の貿易会社に入り、
小松商店のエージェントとしてニューヨーク駐在中に
大リーグの試合に足繁く通った経験があり、
アメリカ野球に通じていた。
大リーガーの野球にすっかり魅了され、『横浜貿易新聞』に
「アメリカ野球通信」を送り続けた。
それが昭和4年、『米国の野球』という本になり出版された。
これが、日米野球を計画していた読売の目にとまった。
鈴木は読売の嘱託をなり、紙面を通じてペンを執り
アメリカの大リーグ事情を紹介した。
大リーグ招聘(しょうへい)のために本格的な動きが
始まったのである。
(82p)
鈴木惣太郎氏は以前から興味をもっていた人。
※ここでも道草 巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花(2012年4月29日投稿)
この記事でも、次のように書いていました。
プロ野球スタートのことを勉強していて、印象に残った人が1人います。
鈴木惣太郎。
機会があったら、この人についてもっと調べてみたい。
少しだけ調べが進みました。
昭和6年11月2日、試合に先立ってアメリカ選抜チームの歓迎会が
日比谷公会堂で開催された。
そして、古関裕而(こせきゆうじ)が作曲した「日米野球行進曲」が
披露された。
(88p)
この曲はyoutubeで聴くことができました。
このyoutube画面を見てあれと思いました。
今回の「天才野球人 田部武雄」の作者と同じです。
ついでに著者菊池さんについて調べました。
私より1年先輩の1960年生まれ。
音楽史に詳しい方のようです。なるほど。
試合はあっという間に逆転され8対5。
ひっくり返された。
そして8回、全米チームはエースのグローブが登場した。
この年、アメリカン・リーグで31勝4敗、その快速球の前に、
宮脇、伊達、三原と連続三振。
強打者伊達のバットはピクリとも動かなかった。
続く杉田屋、夫馬、清水も連続三振だった。
これで六者連続三振、わずか21球で早稲田ナインは
仕留められた。
これが世界最高峰の投手が投げる「スモークボール」の威力である。
この日はラジオの全国放送。
松内省三アナウンサーの「グローブ投げました。あっ、ボールが見えません」
とはあまりに有名な言葉である。
(92p)
ただここで疑問。
松内省三アナウンサーのことを調べようとしても見つからず。
似た名前の松内則三アナウンサーならいました。
さらには似ているかなと思える河西三省アナウンサーもいました。
もしかしたら混ざった名前ではないかと想像します。
間違っていたらすみません。
グローブ投手については、ここ↓を読むと勉強になります。
※とらまる王国 「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(1)
※とらまる王国 「スモークボール」、と呼ばれた剛速球。史上最高の左腕投手、レフティ・グローブ(2)
日本人がバットにボールを当てられるだけで、
怒っていたそうです。
その辺が納得できるお話が書いてあります。
なかなか田部さんのことを引用しませんが、
でも田部さんはそれぞれの現場にいた人です。
田部さんの足跡を知ることは、
職業野球が始まる前の、大学野球が盛り上がっていた時の様子が、
よくわかってくるのです。
沢村栄治さんを追いかけていても出てこなかった大学野球が、
田部さんの話ではよく出てきました。
沢村さんも憧れて慶應大学に入ることになっていたことも
思い出します。
次は都市対抗野球の話です。
都市対抗野球の創成期にも田部さんは関わりました。
都市対抗野球は橋戸信の発案によって昭和2年に始まった。
各都市を代表するクラブチームが競いあう大会という発案からだった。
橋戸は早稲田の学生時代、アメリカ大リーグチームが
地元にフランチャイズ制を採用していたことに
ヒントを得たと云われている。
(102p)
第1回の優勝チームは満州倶楽部でした。
第2回は同じく満州にある大連実業団。
第3回は満州倶楽部。
都市対抗野球は最初は満州のチームが強かったそうです。
田部さんも以前は大連実業団に所属していましたが、
第1回大会の予選で満州倶楽部に敗れ出場できませんでした。
田部さんが出場したのは第6回大会。
昭和7年です。
田部は東京倶楽部の一員として第六回全日本都市対抗野球大会に
姿を現した。
舞台は明治(大学)時代に快速を飛ばして走りまくった神宮球場。
神宮は田部の庭みたいなものである。
宮武の打棒と田部の盗塁への野球ファンの期待は高まっていた。
田部はよく神宮の外苑でランニングをしていた。
おそらく世界的なスプリンター吉岡に勝負を挑んだのも
この頃ではなかろうか。
オリンピック前の大事な時期に田部の果たし状を受けた吉岡も凄い。
(103~104p)
吉岡選手との競争については、前の方のページに書かれていました。
吉岡(隆徳)は神宮の外苑で練習をしていた。
そこへ田部が現れ、練習中の田部に競争を申し込んだのである。
吉岡はそれを受けた。
吉岡も神宮の盗塁王・田部武雄のことは知っていた。
いくら田部が天才的なランナーと言っても、彼は野球選手である。
吉岡は100メートルを10秒3。
スタートダッシュは弾丸のように速く50mなら世界のトップである。
その吉岡に100メートル競争を挑むなど正気の沙汰ではなかった。
結果はどうであったか。
何と田部は50メートルまでは競ったが、あとは離されたというのである。
これは、明大で共に活躍し阪神タイガースの強打者としても活躍した
松木謙次郎の証言にもある。(中略)
世界レベルの陸上ランナーとスタートからその前半を
ほぼ互角に走るのだからいかにトップスピードが速いかがわかる。
(36p)
吉岡隆徳さんは1909年生まれ。
田部武雄さんは1906年生まれ。
ほぼ同年代の人たちだったのですね。
いいエピソードです。
続く
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