「肢体不自由児たちの学童疎開」引用8/当時の上山田村村長
今日は9月7日。
8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。
学童疎開が行われて、今年で70年になります。
光明学校の卒業生が上山田での疎開生活の思い出を絵本にして発表しました。
上の写真は、絵本の出版記念会。
絵本の名前は「千曲川のほとりで~私の学童疎開・上山田ホテル~」(まごころの集い社)
作者は今西美奈子さん。
さっそく買って読みました。
疎開先の子どもたちの様子がよくわかりました。
また、松本校長先生となかなか出会わなかった村長さんのことも書いてありました。
学芸会 クリスマス お正月 ひな祭りなどのイベントには、
食糧難にもかかわらず必ず、先生や保母さんの
心づくしのご馳走が夕食膳にに並びました。
そしてホテルのオーナーであった村長さんや奥様たちも、
それらの行事に参加してくださるのでした。
どうも、番組のせいで?村長さんのイメージはあまりよくありませんでした。
でもこの絵本を読み、村長さんの優しい顔の絵を見て、
すっかりイメージが変わりました。
上山田ホテルのサイトを見ました。→上山田ホテル
そして引用します。
上山田ホテルの創業について。
千曲川の河原に忽然と姿を現した、戸倉上山田温泉、
当時の川の流れの間を挟み戸倉温泉は
明治26年(1893年)、上山田温泉は明治36年(1903年)に源泉が開かれました。
日本では初めて近代的な手法でボーリングを行い、
沸き出でた温泉でした。 上山田温泉掘削の仲間を募り、
資金を集め推進したひとりが若林又三郎でした。
又三郎は上山田温泉(株)の社長を務め、
共同浴場「亀乃湯」を開き、その門前に茶屋・旅館の温泉街が出現しました。
近隣の温泉客を集め、また明治45年(1912年)には、
信越線戸倉駅が開通し遠来のお客様も戸倉上山田温泉に多くお越しになるようになりました。
又三郎の息子、正光・正春がいました。
正光は上山田温泉経営に当たり、の2号源泉に新たな「亀の湯」が建設され
その正面を温泉の本通りが開かれました。
アメリカ帰りだった正光は、「アメリカにはホテルという人々が集まり・宿泊する施設がある。」
との考えから、弟の若林正春を初代として上山田ホテルが創業されました。
以来4代にわたり「湯元 上山田ホテル」として営業をし、本年9月に創業90周年を迎えました。
この文章からだと村長さんは若林正春さんかな?
検索したところ、次のサイトに行きつきました。
晴天そら日和 2010年08月15日18:22 第65回「終戦の日」次世代に語り継ぐこと、。。。
ここでも良い文に出会えました。
49年4月、光明学校は空襲で焼失した東京都世田谷区の校舎再建にこぎつけ、
その翌月、集団疎開がようやく終わった。
周辺の旅館は終戦間もないうちに疎開児童が東京へ帰り、営業を再開。
進駐軍が来てキャラメルを配り始め、復興が進むと一般客も訪れるようになり、
増築・新築するところも相次いだ。
静かだった温泉地は歓楽街へと変わっていった。
しかし上山田ホテルは光明学校の疎開が終わった後も、
すぐに客を取ることはできなかった。
教室として使われた大広間や居室だった客室は、畳がすり切れて土台まで損傷し、
柱も傷だらけになっていたからだ。
元気盛りの子どもたちは足に金具の装具をつけ、松葉づえをついてホテル内で遊んだ。
当時の主人、若林正春さん(故人)は、そんな姿を見てもとがめることはなかった。
おいで現在同ホテル会長を務める恒正さん(84)は当時、
正春さんに建て直しを進言したことがあった。
正春さんは「お前が経営するようになったら、きれいにしたらいい」と
畳や障子を新しくした程度だったという。
上山田ホテルは77年に全面改築された。
建物はすっかり新しくなったが、子どもたちを見守っていたヒノキの大木は残っている。
当時の村長さんは、若林正春さんで確実のようです。
一度お顔を拝みたいです。
そのためにも、いつか上山田ホテルに泊まりたいですね。実現するぞ。
絵本は通販で買いました。
その時に本にはさんであった記事の写真を最後に載せます。
以上で、8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」の
引用を終了。
おじろわしさんのブログには大変お世話になりました。
※みなと横浜みなみ区3丁目 「”戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開~」【NHK ETV特集】全編文字起し
学びの多かった番組でした。