「肢体不自由児たちの学童疎開」引用7/昭和54年肢体不自由児の義務教育化
今日は9月7日。
前投稿のつづき。
8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。
昭和20年8月15日。終戦。
ほとんどの疎開児童は、翌年の3月までには親元に戻りました。
ムム?3月?・・・半年以上かかっているぞ。
しかし、光明学校はさらに遅い。
校舎は焼けて、再建の目途がたっていなかったからです。
松本保平校長たちは議論を重ねて、
上山田村で光明学校を引き続き経営することになります。
50人の子どもたちのほとんどが残りました。
疎開が終了したために、補助金がカットされましたが、
松本校長の尽力で国からの補助金が再び出るようになりました。
光明学校の校舎が世田谷にできたのは、昭和24年でした。
その年の5月、子どもたちは新しい学校に戻りました。
光明学校の関係者の戦争が終わりました。
この後の松本校長の活動を、番組は追っています。
それは戦後の肢体不自由児、あるいは特別支援教育の歴史であり、
興味深いものでした。
ナレーターの話:
終戦翌年の昭和21年、新憲法が公布され戦後の教育改革が進みます。
昭和22年、中学までの教育を義務化する新しい制度が始まりました。
しかし、肢体不自由児の義務教育化は実施されないままでした。
松本校長は再出発した光明学校で、肢体不自由児の教育の充実を訴えて行きました。
昭和29年、全国の教育研究者の大会に出席。ここで持論を述べました。
肢体不自由児も教育を受けることで有能な社会人となる。
さらに各県に少なくとも1校の肢体不自由児の学校、
全国300の特別学級を早急に設置してほしいと訴えました。、
盲学校、聾学校はあったようですが、知的障害・肢体不自由児・病弱者のための養護学校は
決して多くはなかったようです。
松本校長はテレビ番組に出演してこう言っています。
現在、小学校、中学校におられる手足の不自由な方が12万名おるわけですが、
そのうち1万1千名が就学猶予とか免除という名前で
学校教育からはずされているわけなんです。
ですからこれは、もし普通のお子さんだったら
学校へ上げなかったら親御さんが罰せられるわけなのに、
手足が不自由なばっかりに教育からはずされているというのは、
矛盾していると思うんですね。
その矛盾といえばですね、いままで人間がお互いに殺し合う戦争という名前でですね、
大きな努力を各国もやってきたと思うんです。
ところがお互いに理解し合うために、
これに比べたら努力はほとんどなされていないんじゃないかという気もしますね。
仮にジェット(戦闘)機1つあったら、それだけの費用で養護学校が10も15もできるというのが
われわれ常に言いたいことなんでございますがね。
ナレーターの話:
松本校長の訴えは続き、
昭和31年に公立の養護学校の設置を促進する法律が制定されます。
肢体不自由児の学校は全国各地に作られていきました。
すべての肢体不自由児に学校教育を受ける権利が保障されたのは、
昭和54年。ここに、肢体不自由児の義務教育が実現したのです。
昭和54年と言えば、つい最近ですよ。
上の写真が白黒なので、うんと昔のように思えてしまいます。
カラー写真でもおかしくない最近のことです。
地元にある豊川支援学校。
この学校が開校したのも、昭和54年の4月でした。
予想より・・・こんなに最近のことだったのですね。
ナレーターの話:
すでに退職していた松本校長は、この時病に倒れていました。
その直前まで、肢体不自由の子どもたちのために国会に足を運んでいたと言います。
今はあるのが当たり前の特別支援学校、特別支援学級。
ちょっと前までそうではなかった・・・・そういえば、私が中学生の時に、
特殊学級がありました。
戦後、学校教育法で、法的には位置づけられてはいました。
※日本で最初の特殊学級は、Wikipediaによると、
1890年 長野・松本尋常小学校に『落第生学級』の設置だったようです。
すごい名前です。また機会があったらくわしく調べてみたい。※Wikipedia 特別支援学級
つづく
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