「肢体不自由児たちの学童疎開」引用6/最後の学童疎開
今日は9月7日。
8月27日の投稿のつづきです。
8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。
疎開先は決まりました。
上山田村の村長が経営する旅館です。
次は移動手段です。
ナレーターの話:
普通学校の疎開では、東京都が疎開先と列車の手配をしました。
しかし、光明学校は自力で確保しなければなりません。
松本校長が鉄道局に通い続けること3日。
子供たちの学校生活に欠かせない治療器具の輸送です。
何とか客車1両を貸し切ってもらえることになりました。
さらにもう1つ、課題がありました。
大きな器具の数々。その輸送問題が伴うのは、普通学校の疎開とは大きな違いでした。
松本校長は学校近くの陸軍の部隊長に直訴しました。
松本保平校長:
本土決戦になった場合、肢体不自由児は足手まといになります。
この児童がいなければ、それだけ戦力は増強します。
是非、引っ越しに手を貸して下さい。
ここで違和感がありました。
松本校長が肢体不自由児をのことを「足手まとい」と言ったことに対してです。
すかさずナレーターが言います。
ナレーターの話:
校長は軍の協力を引き出すため、
あえて肢体不自由児は足手まといになるという表現を使ったのです。
なるほどと思いました。
子どもたちの命がかかっていたので、必死でした。
軍の協力は得られ、器具は運搬してくれることになりました。
こうして子どもたちの疎開地への移動が実現しました。
光明学校が疎開地に向けて出発したのは、昭和20年5月15日午前10時。
終戦3か月前!
この時までに、60万人を超える子どもたちが疎開先に行っていました。
光明学校の疎開は、最も遅い学童疎開となりました。
疎開地に行くまでも大変でした。
ナレーターの話:
車の中では途中、軽井沢から乗り込んできた大勢の大人たちが
光明の貸切車両に押し寄せて、声を荒げて言いました。
乗客:
乗せろ。貸切はないはずだ。俺たちは昨日から並んでいるんだぞ。
まだ席が空いている。それに、おかしなのばかりじゃないか。
ナレーションの話:
乗り込んできた大人たちに、松本校長は立ちはだかりました。
校長の手記:
なんとしても乗せるわけにはいかない。大勢乗れば、子供がつぶされる。必死で抑えた。
誰もが必死。
乗り込んできた乗客も、松本校長もです。
ここまで必死に子どものために動く。
残りの教員生活で、そんな場面はあるのだろうか?
今やれば?と言われそうですが、必死レベルは難しい。
ナレーターの話:
上野を出発して7時間。一行は上山田村近くの戸倉駅に到着しました。
そして、受け入れ先の宿に全員無事、たどり着くことができました。
そのわずか10日後のことでした。東京の世田谷が空襲に見舞われます。
光明学校の校舎は、焼け落ちてしまいました。
10日遅れれば、命はなかったかもしれない。
母校の校舎を失った悲しみと生きているという安堵の気持ちがみんなに交錯しました。
良かった!
3か月前・・・当然、当時の人たちは3か月前のイメージはありません。
疎開への決断と準備が生きたのです。
グッドタイミングでした。(つづく)
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