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2019年3月 5日 (火)

BS歴史館最終回/尊氏が鎌倉幕府を裏切った決定打 六波羅探題跡

 

今日は3月5日。

  

前投稿に引き続き、2014年3月13日放映の

BS歴史館(最終回)疾走!足利尊氏 南北朝の扉を開く!?」  より。

  

足利尊氏が、鎌倉幕府を裏切ったきっかけについて

番組では次のように紹介していました。

聞き書きします。

  

ナレーター:近年の研究で、(尊氏)裏切りの決定打は、

  (後醍醐)天皇の腹心楠木正成の奮戦だったという説が

  出てきました。

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  尊氏が(後醍醐天皇軍討伐のため)出立する一月ほど前から、

  楠木軍は千早城で籠城。

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  数万の幕府軍にわずか一千の兵で応戦していたのです。

  「太平記」によれば、藁人形をおとりに、

  幕府軍を急な斜面におびきよせ、岩や大木を落としたり、

  熱湯をあびせたり、奇想天外な戦術を次々に繰り出しました。

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  千早城が落とせない。

  消耗した武士たちは続々戦線離脱。

  そのリアルな厭戦(えんせん)気分が逆に尊氏の背中を押したと

  中世史を研究している(神戸大学大学院)市沢哲(教授)さんは、

  言います。

市沢:尊氏が西に向かっている間に、千早城から離脱していた

  武士たちに、かなり会っている可能性がある。

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  おそらく尊氏は、そういう人たちから、

  幕府に対する不満とか聞いたり、西側で起っている事態の

  深刻さとか逐一知りながら、西へ西へ向かっている。

  その中で「時代が変わる」潮目が今なんじゃないか、

  潮目が見えてきたというか、幕府を見限る判断をさせる

  きっかけになった。

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ナレーター:尊氏の決意を示す貴重な資料が京都近郊の

  篠村八幡宮(亀岡市)に納められています。

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  「後醍醐天皇が世の中を救うために

  綸旨(りんじ)を発せられたので、

  勅命に従い、正義の兵を挙げる」

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  幕府を裏切り、後醍醐天皇を選んだ尊氏。

  数日後、尊氏は幕府の西国防衛の拠点、六波羅探題を攻略。

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  それをきっかけに全国の御家人たちが雪崩打つように

  討幕へと鞍替えった。

  北条一族は鎌倉の山奥で集団自決します。

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  こうして150年近く続いた鎌倉幕府はもろくも滅亡。

  尊氏が裏切りを決意してからわずか2週間のことでした。

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楠木正成の奮戦が、足利尊氏の裏切りを促した説は

面白いです。有名人が結びついた可能性は楽しい。

 

亀岡市にある篠村八幡宮。

半年前に亀岡市には行っています。

ここでも道草 20180901報告その1 獨鈷抛山千手寺の参道を自動車で走る(2018年9月10日投稿)

その時出向いた獨鈷抛山千手寺篠村八幡宮、

そして六波羅探題跡を地図上で示してみました。

Photo Bing地図

篠村八幡宮。ついでに寄れた場所ですね。

でも半年前には全く知りませんでした。

  

気になるのが尊氏が襲った六波羅探題

5文字の漢字の面(つら)もいいし、

「ろくはらたんだい」という響きもいいです。

今はどうなっているのでしょう。

調べたら、今は石標が立っていて、跡地を示しているそうです。

このサイトを参考。

フィールドミュージアム京都 六波羅探題府址

六波羅蜜寺という寺の境内に、石標はありました。

上記サイトの写真を転載。

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境内の黒の格子柵の中にあるのがわかると思います。

2月23日のキミヤーズ塾が済んだら寄ってみようと思いました。

  

それでは次は再び「20190223報告」

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