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2009年11月

2009年11月30日 (月)

直した「新美」/治したい「腰痛」

新美南吉記念館のことを昨日書きましたが、

今朝見直したら、「新美」が「新実」になっていることに気がつきました。

直しました。

    

昨日の朝、こたつで横になっていて、

さっと起き上がったら、腰に痛み。

久々の腰痛に襲われました。

もう動くのが一苦労。

全く外出ができない一日でした。

今朝、痛みはだいぶひきましたが、

自転車通勤・かけ足運動は休みにして様子をみることにします。

痛みがとれなければ、夕方には病院に行きます。

早く治したい。

   

腰が痛いと、体が動かせません。大事な所です、腰は。

2009年11月29日 (日)

洗濯板は外国からやってきた道具だった

市内の民俗資料館には洗濯板、盥(たらい)が展示されています。

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明治時代になって洗濯板が外国から入ってきて、

日本に広がりました。

洗濯板なんて、日本古来のもののように思えましたが、

外国から伝わったものなのですね。

民俗資料館の説明には次のように書いてありました。

    

明治時代になると、洗濯板がヨーロッパから入ってきました。

もともとは日本で暮らす外国人の家庭で使われていました。

そして日本で普及したのは今から100年ほど前、

明治時代後半から大正時代といわれています。

   

石けんはおよそ600年前の織田・豊臣期にヨーロッパから伝わり、

シャボンと呼ばれていました。

しかし、当時は日用品ではなく、

特権階級の人々の宝物というようなものでした。

    

明治になると石けん工業も始まりますが、

本格的になるのは明治20年代後半に入ってからで、

日清戦争前後には一般の人もかなり石けんを使うようになったそうです。

しかし、まだ洗顔が主な使いみちで、

洗濯石けんとしては従来どおりの灰汁(あく)や

サイカチの煎じ汁(せんじじる)が使われていました。

   

その後、明治37年の日露戦争後、

石けん製造が化学工業として発展するようになると、

徐々に庶民の間でも石けんが洗濯に使われるようになりました。

    

洗濯板と石けんが使われるようになって、

清潔度は高くなりましたが、しゃがんで洗濯板に体重をかけ、

力を入れて揉(も)みだすような洗濯法になったため、

労働は非常にきつくなったようです。

   

洗濯の歴史の中で、

洗濯板の時代が最も重労働の時代だったといえるでしょう。

   

   

とても勉強になった説明だったので、

たくさん書きうつしました。

洗濯板にも石けんにも歴史あり。

「かみかみセンサー」がそろそろ届くころ

今まで以上によく噛んで食べれるように、

10月28日から給食のときに校内放送をしています。

保健委員会が一口入れるように言います。

メニューを見て、噛み応えのあるものを選んで、

「今日のお薦めは○○○○です」と薦めています。

そして1から30まで数え、全校児童が一緒に噛んでいます。

たった1回ですが、毎日30回噛むことを継続して、少しでも習慣化することをねらっています。

   

来年度ぜひ学校で買ってほしいと思っているのが、

ニットーの「かみかみセンサー」です。

以前にもこのブログで書きました。

「かみかみセンサー」http://mitikusa.typepad.jp/blog/2009/09/post-c050.html

続「かみかみセンサー」http://mitikusa.typepad.jp/blog/2009/09/post-9101.html

   

来年まで待てずに、個人で1個注文してしまいました。

もうそろそろ届くころです。楽しみです。

ニットーが紹介のための映像をつくりました。

6分ほどの映像です。参考までに見てみませんか。

http://www.nittokagaku.com/kamikami/kamikamidvd.htm

    

使用した子どもの一人が、

「たくさん噛むとご飯がおいしい」と言っています。

これが大事だと思うのです。

食べ物の本当の味は、よく噛む子ことで得られると思います。

体験させたいです。

全校で30回噛む放送は12月4日までです。その後も粘り強く・・・・。

新美南吉記念館5/「ごんぎつね」のモデル

「ごんぎつね」の兵十のモデルがいました。

岩滑新田というところに住んでいた江端兵重さんです。

はりきり網などで川漁をするのが三度の飯より好きで、

猟銃をもっていって鳥撃ちもしたそうです。

その兵重さんの所持していた銃が記念館に展示されていると知って、

見るのを楽しみにしていました。

これがその銃です。

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そこの傍らにあった説明の写真です。

Pb280022_2    

    

    

    

     

南吉の生活していた場所の近くには権現山という山があります。

権現山の狐から「ごんぎつね」が生まれたと考えられています。

実際、「ごんぎつね」の草稿では、「権狐」と書かれていました。

    

「ごんぎつね」に出てくる「中山さま」というのも実際にいた殿様だったようです。

戦国時代後期の、岩滑の領主中山勝時をさしたようです。

徳川家康のお母さん於大(おだい)の方の妹をめとっています。

    

兵十がはりきり網でウナギを捕っていたいた川のモデルが矢勝川(やかちかわ)。

この川の堤には、9月下旬になるとたくさんのヒガンバナが咲きます。

その頃に歩いてみたい場所です。

新美南吉顕彰会が作ったパンフレットにこんな説明がありました。

平成2年のこと、南吉と同じ岩滑に生まれ育った小栗大造さんは、

ある壮大な計画を思い立ちました。

”南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンパスに、

彼岸花で真っ赤な風景を描こう”

ただ一人で草を刈り、球根を植えるその姿に、

一人また一人と手伝う人が現れ、

やがてその活動は「矢勝川の環境を守る会」へと発展します。

こうして現在では、秋の彼岸(9月下旬)になると東西約2㎞にわたって

百万本を越す彼岸花が咲くようになりました。

   

ヒガンバナも「ごんぎつね」にでてくる花。

そのヒガンバナの近くにあった六地蔵も半田工業高校近くにありました。

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ずらっとあるのは、

岩滑地区の地蔵を集めてきたからだそうです。

   

こうやって思うと、「ごんぎつね」のモデルとかゆかりの場所はあるわけで、

南吉はそこから話を創造したことがよくわかります。

新美南吉記念館4/ジオラマ「牛をつないだ椿の木」「おじいさんのランプ」

新美南吉記念館のジオラマのつづき。

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【牛をつないだ椿の木】

海蔵さんは、地主さんに死ぬことを待ち望んだことをあやまりました。

そして、「違う場所を探すので、あなたはどうぞ死なないでください」

と言いました。

老人は海蔵さんの心にうごかされ、

井戸を掘ることを許してあげました。

    

「おじいさんのランプ」というお話があります。

昔読んだ覚えがあります。

映画も見た覚えがあります。

でもどんな話か思い出せませんでした。

「おじいさんのランプ」のジオラマもあって、

そのジオラマを前に案内人の方がさらさらっとあらすじを語ってくれました。

記憶がどんどん呼び覚まされました。

   

「ランプ屋を営んでいたおじいさんだったが、

住んでいた村に電燈がひかれることになってしまいました。」

  

「逆恨みしたおじいさんは、電燈をひくことを決めた村会の議長をやった区長さんの家に火をつけようとします。」

   

「いざ火をつけよとしたら、マッチがない。忘れてきてしまったのです。」

   

「懐には火打石がありました。おじいさんはカチカチやるわけですが、なかなか火がつきません」

   

「その時にこう言うんです」

   

古くせえもなア間にあわねえ……」

  

「自分の言ったその言葉に、おじいさんは気づくのです。」

   

「新しい物をやみくもにダメだと言ってちゃダメだ、と」

   

そんな語りを聞いていて、しっかり私はストーリーを思い出しました。

おじいさんは、その後池の周りに、家にあるランプを全てつるして燈します。

その数50あまり。

おじいさんは石を投げて、ランプを割り始めますが、

3つ割ったところで、できなくなってしまいます。

涙で見えなかったからです。

ああ、懐かしい。私の心の中にちゃんと残っていました。

    

つるされたランプのジオラマです。    

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【おじいさんのランプ】

巳之助は、家にあるすべてのランプを半田池の木の枝に吊るしました。

石ころを投げつけると、バリーンと音がしてランプの一つが消えました。

三番目のランプが割れたとき、

もう涙でねらいを定めることができませんでした。 

新美南吉記念館3/ジオラマ「ごんぎつね」「手袋を買いに」

ジオラマ。

意味は「立体模型。ミニチュアの人物や物と背景とを組み合わせ、ある場面を立体的に現すもの」

新美南吉の童話の世界を表現するのに、ジオラマはいいなと思いました。

記念館にはたくさんのジオラマがありました。

一部を紹介します。

   

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ごんぎつね】

ごんは、兵十がいなくなると、

びくの中の魚を川の中にぽんぽん投げこみました。

最後に頭をびくの中につっこんで、

うなぎを口にくわえました。

そのとき向こうから、兵十が

「うわぁ ぬすっと狐め」

とどなりたてました。

   

   

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【ごんぎつね】

あくる日もごんは、栗をもって行きました。

兵十は、ごん狐に気づくと、火縄銃をとってうちました。

「おや、ごんお前だったのか、いつも栗をくれたのは」

ごんはぐったりと目をつぶったままうなずきました。

   

   

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【手袋を買いに】   

「お母ちゃん、お手々が冷たい、ちんちんする」

子狐は、ぬれた両手を母さん狐の前にさしだしました。

母さん狐は、手でやんわり包んでやりながら、

夜になったら町まで行って、

毛糸の手袋を買ってやろうと思いました。

    

    

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【手袋を買いに】

子狐は帽子屋の戸が開いたとき、光がまばゆかったので、

出してはいけない方の手を出してしまいました。

帽子屋さんは、狐の手だと気づきましたが、

棚から毛糸の手袋を取り出して

子狐の手に持たせてやりました。

   

   

よかったなあ。ジオラマ。

ジオラマをじっくり見に行くためにもう一度行きたいくらいです。

新美南吉記念館2/昭和7年「ごんぎつね」スタート

新美南吉記念館の近くにあり、かつて新美南吉も通った小学校が

岩滑(やなべ)小学校です。

この小学校のHPを見ると、新美南吉の資料があって勉強になります。

※「岩滑小学校」http://www.yanabe-e.ed.jp/

今回のブログの投稿にも参考にさせていただきます。

   

新美南吉は大正2年(1913年)7月10日に生まれました。 

南吉が生まれた時から実母りゑの体調不良が続き、

南吉が4才になった大正6年11月4日に死別しています。

30歳の若さでした。

実母の死は、おさない南吉の心に深いきずあとを残しました。

南吉の詩や童話の中で、やさしい母親が登場するのは、このことが理由だと考えられています。

     

昭和6年に、4月から8月まで、南吉は母校の岩滑小学校の代用教員になりました。

その時の教え子の言葉が、岩滑小学校のHPに載っています。

※「南吉 生い立ち」http://www.yanabe-e.ed.jp/01nankitiMap/nankiti_oitachi/oitachi2.htm

教え子のJ.Sさんのお話です。

小学校には体育館がなかったので、雨の日にはどの先生も本を読んでくれたものです。

でも、新美先生は自分で書いた物語を読んでくれました。

ごんぎつねの話もわたしは先生から直接聞きました。

      

このころすでに「ごんぎつね」のストーリーができていたわけです。

そして翌年昭和7年に、「赤い鳥」1月号に童話「ごんぎつね」が載りました。

記念すべき「ごんぎつね」のスタートは、昭和7年でした。

   

もうすでに25年目になってしまった教師人生。

教えてきた子どもたちは、私のことを覚えているのだろうか。

覚えてくれているなら、どのようなことを覚えてくれているのだろう。

ふと思いました。

   

    

新美南吉記念館の入り口にある南吉の人形。

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師範学校に入りたくても体が弱くて入れなかった南吉。

人形も細身でした。   

   

新美南吉記念館1/岩滑という地名

このブログの性格の一つ。資料置き場的な内容です。

   

全ての国語の教科書に載っている「ごんぎつね」の作者

新美南吉の記念館に市内の国語の先生たちと行ってきました。

施設のある場所の住所は、

愛知県半田市岩滑西町1-10-1です。

岩滑」は何と読むかなと思いました。

    

やなべ」と読むそうです。漢字を見ただけでは読めません。

角川日本地名大辞典によると、そのいわれは次のように書いてありました。

   

「半田町史」は、岩滑の地が英比谷の南部に位置することから谷南部を由来とし、

常滑村・成岩村の文字を使って岩滑と改称したとする。

   

確かに周囲には常滑市があり、半田市成岩町があります。

英比谷は今の阿久比町のことであり、

岩滑の北には阿久比町があります。

何かまわりに左右された地名だと思いました。

それだけ新しく開発された土地なのでしょう。

    

この日お世話になった半田市のボランティア案内人の方が、

「常滑」の読み方について、

昔は「とこなめ」ではなく、「とこなべ」と言っていたと教えてくれました。

65歳の方でした。

「滑」を「なべ」と読むのは”あり”みたいですね。

あまり見かけなくなったオオオナモミ

(前投稿のつづき)

オオオナモミをあまり見かけなくなりました。

通勤路の傍らの線路のあるところに昨年までオオオナモミがありました。

今年は除草剤がまかれてしまったためか、

全くありませんでした。

前勤務校のある場所にあることは知っていたので、

11月16日に行ってきました。

その時の写真。

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除草剤によって駆除されつつあるのでしょうか。

オオオナモミが身のまわりから消えていくのは寂しい。

そこで・・・・・種をまいてみることにしました。

育て、花も観察して、

来年秋にはひっつき虫として遊んでみたいと思います。

    

試しに実を解体してみました。

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種が1つ出てきました。

サークルの他の先生が解体した時は2つ種が出てきたそうです。

調べると、やはり種は2つ入っているようです。

私が解体した実は、成長がうまくいかなかったのかな。

次のサイトを参考にしました。

※参考「草加市 オオオナモミ」

http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000010100/hpg000010048.htm

ここには次のようなことも書いてありました。

市内の空き地や河川敷で見られる代表的な「ひっつきむし」。

イギリスで開発されたマジックはこの実をヒントに発明されました。

中に入っている2個の種のうち、1個が育てば他方は発芽しないと言われています。

   

現在の校区では、今のところオオオナモミは見つけていません。

どなたか情報をお願いします。

やたらと見かけるセンダングサ

秋の植物観察。

面白い観察の一つは「ひっつき虫」の観察。

11月の半ばに、学校横の公園に出かけていってクラスで鬼ごっこ。

その時に、どこをどう逃げたのか、

足にヌスビトハギをいくつもつけている男の子がいました。

ここにはヌスビトハギがあるとわかってうれしくなりました。

※参考「盗人萩 写真集2」http://www.hana300.com/nusubi2.html

    

やたらと見かける「ひっつき虫」がセンダングサ。

11月1日撮影

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11月19日撮影

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11月26日撮影

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センダングサにもいろいろ種類がありますが、

これはどれになるでしょうか?

実のはりつく部分が2本だとアメリカセンダングサ。

3本以上だとセンダングサと記憶していました。

もう少し詳しく調べると、次のサイトに行き当たり、参考になりました。

※参考「センダングサの実」http://naru.gotohp.jp/kusabana/hana/04/041023/index.htm

   

このサイトを参考にすると、

上の写真のセンダングサは、

コセンダングサ」のように思えます。

アメリカセンダングサの実は思ったより幅があり、

あまり見かけていないなと思いました。

   

しかしやたらと見かけるセンダングサに比較して、

あまり見かけなくなったひっつき虫のことを次の投稿で書きます。    

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