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2009年11月29日 (日)

新美南吉記念館5/「ごんぎつね」のモデル

「ごんぎつね」の兵十のモデルがいました。

岩滑新田というところに住んでいた江端兵重さんです。

はりきり網などで川漁をするのが三度の飯より好きで、

猟銃をもっていって鳥撃ちもしたそうです。

その兵重さんの所持していた銃が記念館に展示されていると知って、

見るのを楽しみにしていました。

これがその銃です。

Pb280023   

   

   

   

そこの傍らにあった説明の写真です。

Pb280022_2    

    

    

    

     

南吉の生活していた場所の近くには権現山という山があります。

権現山の狐から「ごんぎつね」が生まれたと考えられています。

実際、「ごんぎつね」の草稿では、「権狐」と書かれていました。

    

「ごんぎつね」に出てくる「中山さま」というのも実際にいた殿様だったようです。

戦国時代後期の、岩滑の領主中山勝時をさしたようです。

徳川家康のお母さん於大(おだい)の方の妹をめとっています。

    

兵十がはりきり網でウナギを捕っていたいた川のモデルが矢勝川(やかちかわ)。

この川の堤には、9月下旬になるとたくさんのヒガンバナが咲きます。

その頃に歩いてみたい場所です。

新美南吉顕彰会が作ったパンフレットにこんな説明がありました。

平成2年のこと、南吉と同じ岩滑に生まれ育った小栗大造さんは、

ある壮大な計画を思い立ちました。

”南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンパスに、

彼岸花で真っ赤な風景を描こう”

ただ一人で草を刈り、球根を植えるその姿に、

一人また一人と手伝う人が現れ、

やがてその活動は「矢勝川の環境を守る会」へと発展します。

こうして現在では、秋の彼岸(9月下旬)になると東西約2㎞にわたって

百万本を越す彼岸花が咲くようになりました。

   

ヒガンバナも「ごんぎつね」にでてくる花。

そのヒガンバナの近くにあった六地蔵も半田工業高校近くにありました。

Pb280069    

   

   

ずらっとあるのは、

岩滑地区の地蔵を集めてきたからだそうです。

   

こうやって思うと、「ごんぎつね」のモデルとかゆかりの場所はあるわけで、

南吉はそこから話を創造したことがよくわかります。

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コメント

残念!!

昨日愛知にいました。
もっと早くここの存在を知っていたら,今日行っていたかもしれません。

次回の楽しみにします。

そうだったのですか。僕も県内を移動していたので、どこかですれ違ったかもしれません。今度愛知に来たときには、新美南吉記念館はお薦めです。

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