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2023年5月

2023年5月12日 (金)

苗木城2/青空に映える苗木城

         

今日は令和5年5月12日。

   

5月3日に、中津川市の苗木(なえぎ)城に行きました。

苗木城は、苗木遠山氏により戦国時代(1526年頃)に

築城されました。

遠山氏は、一時期森氏に城を奪われますが、

関ヶ原の戦いの前に、苗木城を取り返します。

それ以後、石高1万石(大名ギリギリ)として、

江戸時代、遠山氏が12代に渡って支配しました。

明治4年(1817年)に廃城。

昭和56年(1981年)に「国史跡」に指定され、

平成29年(2017年)には「続日本100名城」に

認定されました。

    

5月3日には天気がとても良くて、

その青空をバックに、苗木城は映えました。

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馬洗岩(うまあらいいわ)

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今日はここまで。

2023年5月11日 (木)

「平成四年」の500円玉がやってきた

     

今日は令和5年5月11日。

   

最近、ピカピカする5百円玉が、私のところにやってきます。

何年に造られたのかなと思って見たら、

「平成二年」でした。

しばらくして「平成三年」がやってきて、

ついに先日「平成四年」にお目にかかりました。

何か光り方が違うなあと思って調べたら、

2021年(平成3年)11月に、

500円玉は新しくなっていました。

(「平成二年」の5百円玉もキラキラしてたと思ったのになあ)

財務省 解説!新しい500円貨

このサイトを参考にしました。

  

材質が変わっています。

以前は、ニッケル黄銅のみでしたが、

新しい硬貨は、ニッケル黄銅に加えて、白銅と銅が使われています。

偽造防止のために、新しい製法で造られていて、

新500円玉は、中心と縁では色が違って見えます。

動画も参考になります。


YouTube: 【新500円】どう変わった? 21年ぶり“三代目”新デザイン硬貨が流通

新500円玉が発行された日の2021年11月1日のニュースです。

言われてみれば、2年ほど前に、500円玉が新しくなると

話題になったなあと思います。

やっと自分の財布にもやってきたというわけですね。

  

500円玉が誕生したのは、1982年。

大学生でした。

財布の中に500円玉があると、なんかお得感がありました。

もうあれから40年が経つのですね。

  

この動画も勉強になります。


YouTube: すご過ぎる…硬貨の偽造防ぐウルトラな技!

人間が顕微鏡を見ながら硬貨の金型を刻んでいます。

機械では刻めないところを、人間が刻んでいます。

偽造するのは、至難の技だと思いました。

2023年5月10日 (水)

YouTube動画で、「どうする家康」17話を勉強

    

今日は令和5年5月10日。

   

NHKの大河ドラマに関係するYouTube がけっこうあるなと思います。

大河ドラマを見るだけでなく、並行してYouTubeをみることで

とてもいい歴史の勉強ができるなと思っています。

  

先の日曜日放映の大河ドラマ「どうする家康 17 三方ヶ原の戦い」は

皆さん、見ましたか。

今から書くことは、それを見ていないとわからない話です。

  

たとえばこの動画。

YouTube <どうする家康>第17話 徹底解説:武田が家康をおびき寄せ?11話に伏線があった!<三方ヶ原合戦>

ヤギシタ・ドラマ解説です。

45分間のドラマを、しっかり解説してくれています。

武田信玄が浜松城をスルーして、呆気にとられた徳川軍。

どうすると家臣たちと考えて、三方ヶ原台地から下りる

狭い坂道を武田軍が行軍しているときに、後ろから攻めれば、

勝機があると決まり、徳川軍は浜松城を出て、武田軍を追います。

この時にテーマ曲が流れたのです。

お、これは面白いと思いました。

馬に乗って疾走する家康や家臣たち。

明るいテーマ曲が流れている中なので、

家康と家臣たちは、武田軍をやっつけるぞという高ぶった気持ちが

出ていました。

しかし、予想に反して、武田軍は、三方原台地で、

徳川軍を待ち構えていました。

その時に、テーマ曲は止まるのです。

 

ヤギシタ・ドラマ解説でも、このテーマ曲の使い方を述べていて、

そうそう、その通りと思いました。

動画の15分のところから見てみてください。

  

次の動画では、武田信玄と父親信虎との関係を勉強できました。


YouTube: 戦国武将紹介③ 武田信玄 #どうする家康

  

信玄は、父親の信虎を甲斐国から追い出しますが、

2人の関係はそんなに悪くなかったようです。

信虎は、なんと信玄よりも長生きしていました。

信虎は、駿河国に追い出されたのですが、

駿河の今川義元の正妻は、信虎の娘でした。

したがって、信虎は今川義元のお舅殿として、

高い地位につくことができました。

生活費は、なんと追い出した信玄から送られていたそうです。

そして桶狭間の戦いで、今川義元が討ち取られると、

信玄に対して「早く駿河を取れ」と手紙を出していました。

信虎は、桶狭間の戦い以後、駿河から京に移り、

13代将軍の足利義輝の相伴衆となりました。

将軍のお付きの人になったのです。

15代将軍義昭の時には、義昭と信長の関係が悪化したタイミングで、

信虎は信玄に「早く信長を討て」と手紙を出しています。

関係が悪ければ、これらの手紙は出しませんよね。

そして信玄が死んだ翌年に、81歳で亡くなっています。

意外でした。

信虎は信玄と再会することは叶わなかったのですが、

勝頼とは対面しています。

信虎のことを復習できたのは、よかったです。

2023年5月 9日 (火)

チューナーレステレビが売れる時代になってきた

    

今日は令和5年5月9日。

   

最近、YouTubeではチューナーレステレビが話題になっています。

チューナーが入っていないので、従来のテレビ局の番組を見ることはできません。

そんなのでいいのかと思ってしまうのですが、

それでもいい人が増えてきているということです。

ネットの番組が見られればいいわけです。

でも、最近の私は、YouTube動画を見ることが増えて、

従来のテレビ番組を見ることがとても減りました。

チューナーレステレビの普及がわかるようになりました。

  

チューナーレステレビは、NHKの受信料を支払う義務がありません。

そこがいいと思っている人も多いようです。


YouTube: 【能登住民 テレビに苦言】報道ヘリ 騒々しくて寝れない【NHKさよなら】チューナーレステレビ 売り切れ続出

この動画の後半はそんな話題でした。

NHKにとっては困る風潮です。

さらにGoogleがonnというサービスを始めるそうです。

そのサービスは、チューナーレステレビで、

世界の800局の番組を見ることができるのだそうです。

本当だろうか?

そうなったNHKはどうなるのか?

受信料はますます取れなくなります。

NHKをぶっ壊す!の立花さんが動画でアップしていました。


YouTube: 【お楽しみに】5年以内にNHKが潰れる!?Googleが日本のテレビをぶっ壊す!!


   

テレビ番組が生活の中心だった時代。

それは思ったよりも早く、変化してきていると実感する日々です。  

2023年5月 8日 (月)

今日の生活単元は、イチョウの雌雄判別をしよう

     

今日は令和5年5月8日。

   

春から勤務している小学校で、イラガの繭がないか探しましたが、

残念ながら、見つかりませんでした。

イラガやその幼虫のオコゼの観察は、

勤務校ではできないようです。

残念。

オコゼがつくような木がなかったと言うことでしょう。

  

勤務校の校庭を見たときに、イチョウの木がたくさんあるのが

特徴でした。

イチョウの木を使って、観察ができないか考えることにしました。

  

イチョウの木には雌雄がありますが、

勤務校のイチョウはどうなのだろう?

授業をやるために出勤して、授業が終わると帰ってしまう生活なので、

自分自身の観察が不足しています。

ぶっつけ本番で、校庭のイチョウの雌雄を調べたいと思います。

  

雌雄の見分け方を調べました。

やっぱり注目ポイントは花です。

雄花は、4月初めに咲いて、花粉を出します。

その後、落下するそうです。

大量に落下するそうです。

武蔵大学 イチョウ雄花の豪雨 (Now 武蔵の自然 No-40)

このサイトから写真を転載させていただきます。

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画像を見ると、確かにこんなのが落下しているのを見た覚えがあります。

今日は5月8日。

イチョウの木の下にあるかな?(現在自宅でパソコンをうっています)

少しでもこの花の残骸が残っていたら、その木はオスです。

  

メスの木も花ですが、現在は小さな実がついているようです。

武蔵大学 イチョウの雄花と雌花(Now 武蔵の自然 No-04)

このサイトに、2020年5月16日の写真が載っていました。

これです。

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これが将来ギンナンになる実ですね。

  

イチョウは不思議な習性があります。

春に雄花から散った花粉が、雌花に受粉するのですが、

いったんはそのままです。

そして5ヶ月後に、花粉の中で成長した精子が動き出して、

卵に受精するのです。

この映像がいいです。

NHK for School ミクロワールド 精子が泳ぐ イチョウの不思議

  

  

今日行う生活単元は、校庭のイチョウの雌雄の判別と、

木ごま回しの挑戦です。

ミミズもやりたいなあ。

2023年5月 7日 (日)

市民館の庭にあった花/11年ぶりの対面

    

今日は令和5年5月7日。

  

昨日は4カ月ぶりにサークルがありました。

皆さんの都合が合わなくて、こんな長い空白ができました。

ブログを印刷して、資料で持って行くのですが、

4カ月もあると、持って行きたい資料はたくさんあって、

厳選して、25枚を持って行きました。

コンビニでコピーして、3人分なので750円かかりました。

けっこうかかりました。

  

サークルが行われるのは、豊橋市の市民館。

市民館の庭に、ちょっと豪華な花が咲いていました。

その後に来たサークルのメンバーも気になったようで、

館長さんに名前を聞いていました。

その館長さんは、うろ覚えであって、

言ってもらった名前で検索しても、不明でした。

  

写真に撮りました。

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この写真を、Googleレンズで調べました。

判明しました。

ゴデチアです。 

  

きっと昔調べたことがあるぞと思って、検索しました。

ここでも道草 5月下旬の花々8/ゴデチア(イロマツヨイグサ)・タラノキ・ホトケノザ・テイカカズラ(2012年5月29日投稿)

11年前に調べていました。

  

私は小学校教師を務めている時には、

理科教師と間違えられます。

最近、徐々に理科教師をやっているなと自覚します。

きっとブログも理科の話題が増えます。

岩村城跡/本能寺で死んだ御坊丸について

     

今日は令和5年5月7日。

  

5月3日に苗木城跡に行った後に、

恵那市にある岩村城跡にも行きました。

ここにも資料館がありました。

岩村歴史資料館です。

この資料館の駐車場に車をとめて、

資料館でまずは勉強をしました。

そこで気になったのが、岩村城主になった人で、

2人、本能寺の変で命を落としている人がいたところです。

御坊丸と団忠正です。

この2人がどんないきさつで、本能寺の変で命を失うことになったのか、

気になりました。

そんな時に、この動画に出合いました。

【戦国おんな城主紹介】信長の叔母・おつやの方の壮絶な生涯

チャンネル登録しているかしまし歴史チャンネルです。

 

岩村城は、女城主でも有名な城です。

織田信長の叔母であるおつやの生涯を紹介している動画です。

そこに御坊丸が絡むのです。

 

信長の父親の妹に当たるおつやは、

政略結婚で、美濃の斎藤氏の家来に嫁ぎます。

しかし、斎藤道三が亡くなった後に、

織田家と斎藤家は関係悪化。

織田信長が美濃を攻めた時に、おつやが嫁いだ家来が戦死。

おつやは、尾張に戻って、織田家の家来に嫁ぎます。

その後、おつやは、信長の命令で再び政略結婚をします。

岩村城主の遠山景任(かげとう)に嫁ぎます。

岩村城は、織田家、武田家がともに狙っていた要所にある城。

岩村城を味方に引き入れるために、おつやを嫁がせたのです。

しかし、遠山景任はじきに病死。

おつやとの間には子どもがいませんでした。

そこで、信長は、自分の息子の御坊丸を

景任の後継ぎとして岩村城主とします。

しかし、御坊丸は当時5歳くらいだったので、

義母に当たるおつやが実質の城主、女城主となりました。

2か月後、岩村城が、武田の秋山虎繁に囲まれます。

おつやは、信長の援軍を期待しましたが、

信長は当時、浅井朝倉に攻められ、石山本願寺とも対立し、

援軍を送る余裕がありませんでした。

虎繁から条件が出されました。

もしおつやが、虎繁と結婚し、御坊丸を武田の本拠地甲府に

人質としておくるなら、岩村城の家来の命を助けるというものでした。

おつやは、とっても美人だったそうです。

虎繁の心も奪われたのでしょう。

仕方なく、おつやはその条件をのみます。

  

怒ったのは信長です。

勝手に敵将と結婚して、息子を人質として甲府に送られたからです。

信長は、信玄が亡くなり、浅井朝倉を滅ぼした後に、

武田攻めを行います。

岩村城は、信長の息子の信忠の軍に囲まれます。

城主になっていた虎繁は、部下の命を助けてくれるならという条件で、

降伏します。

しかし、信長は許しませんでした。

虎繁とおつやを、縛り上げられて、長良川の川原で、

三日三晩、逆さ磔にして殺されてしまいます。

許すといった部下たちも次から次に殺されてしまいます。

  

この動画では、こんな筋が語られていました。

 

御坊丸はどうなった?

その後のことは、ここを参考にしました。

戦国時代 織田勝長の帰参 ~信長との再会~

2008年の記事です。15年前の記事で勉強しました。

  

御坊丸は、人質として9年間、武田家で過ごします。

そして武田勝頼の命で、織田家に返されます。

勝頼は、御坊丸を返すことで、

織田家と仲直りしたいと画策したかもしれませんが、

叶いませんでした。滅ぼされてしまいます。

御坊丸は、元服して勝長(あるいは信房)と名乗り、

武田討伐に加わりました。

本能寺の変では、信長の息子の信忠と、二条城で戦って、

戦死したそうです。

  

御坊丸が死んだのは、15~16歳くらいかな。

短くも波乱にとんだ人生でした。

  

  

御坊丸については、わかりました。

また後日、団忠正について調べます。

2023年5月 6日 (土)

苗木城跡/本の表紙と同じ場所に行く

   

今日は令和5年5月6日。

  

5月3日には、どこかに行こうと奥さんと決めていました。

でも、どこに行っても、人が多くてたいへんな目に遭うねと

言っていました。

そんな時に、以前、本屋で買った本を思い出しました。

その表紙に目を奪われ、手にとって買ってしまった本です。

この本です。

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「一度はいくべき行きにくい城」(双葉社)

  

すごくないですか、この写真。この表紙。

まさにゾクゾクする秘城の絶景です。

この表紙のところに行こうと提案しました。

  

これは岐阜県の中津川市にある苗木城(なえぎじょう)跡です。

自宅から高速道路を使えば、2時間で行ける場所。

「行きにくい城」なので、観光客も少ないと考えられます。

  

5月3日の朝7時過ぎに出発しました。

ところが高速道路が予想以上の渋滞。

2時間の予定が4時間かかってしまいました。

ナビでは、苗木遠山資料館(0573-66-8181)を入力。

この資料館前には駐車場もあり、少し離れた場所にも駐車場があります。

この連休中も、入れずに困っている車はなかったので、

駐車場の心配はないと思います。

   

注目は、本の表紙の写真と同じ場所です。

そこは大矢倉という場所でした。

天守がある岩山とはちがう場所にあり、

天守がある山を登っていく途中で、

大矢倉を見下ろせる場所があるのです。

表紙の写真は、きっとそこから撮ったものだと思って、

登って撮影しました。

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ね、表紙と同じ場所でしょ。

表紙と同じ場所に行ってみる。

そんな体験ができた時でした。  

2023年5月 5日 (金)

大河「どうする家康」17話 予習動画

   

今日は令和5年5月5日。

  

5月7日の大河ドラマ「どうする家康」の第17話は、

家康にとって大事な戦いである三方ヶ原の戦いが描かれると思います。

見る前に動画で予習することができます。

今回はこの動画が役に立ちました。


YouTube: 三方ヶ原の戦い 信玄の意外な目的 新たな論争となっている史料 武田信玄vs徳川家康 信長包囲網 「どうする家康」歴史解説26

この動画は、なるほど!歴史ミステリーと言います。

久松源三郎についても触れています。

大河では、源三郎は家康に信玄の伝言を伝えて、

死んでしまった感じですが、生きのびます。

ただ35歳にして若くして亡くなります。

お墓が、浜松市にあるそうです。

2

行ってみたいですね、西来院(せいらいいん)。

ドラマを見たことで、ここにも行きたくなりました。

岡崎やら、浜松やら、今回の今の大河の舞台は、

自宅からは近くにある場所なので、幸運です。

2017年の大河「おんな城主 直虎」以来かな。

  

信玄が侵攻してきて家康と戦うのは、

三方ヶ原の戦いだけではないとのこと。

一言坂の戦い。

二俣城の攻防。

三方ヶ原の戦い。

犀ケ崖の戦い。

この4つの戦いが重要だそうです。

それについて、動画で説明してくれています。

二俣城は2か月間、信玄軍を引き留めたそうです。

信玄は、なかなか城が落ちないので、水を断つことを

考えます。

二俣城は、裏側に天竜川が流れていて、

そこから櫓で水をくみ上げていました。

信玄は、その櫓を壊すことを画策します。

天竜川の上流から、丸太を流して、その丸太で櫓を破壊したのです。

  

犀ケ崖は現場に行ったことがあります。

ここでも道草 登れなかったけど犀ヶ崖資料館に寄る(2015年6月7日投稿)

8年前でした。

大河を見て、また行きたくなりました。

  


YouTube: 三方ヶ原の戦い 武田信玄 無念の最期 しかみ像論争の決着 家康を救った夏目吉信「どうする家康」歴史解説27

上の動画の続きの動画。

この動画で面白かったのは、

先生の市橋章男さんの「持論」で言っていたこと。

信玄は一言坂の戦いを行ったのは10月13日。

二俣城の攻防は、時間がかかって10月16日から12月19日。

三方ヶ原の戦いが12月22日。

犀ケ崖が12月23日。

その後信玄は、浜松城を落とすことができず、

野田城にやってきたのは、翌年の2月16日。

一言坂の戦いから4カ月かかっているのです。

行軍状態で。

これが信玄の体を弱らせたと、市橋さんは考えていました。

なるほど!4カ月もかかり、それも寒い季節。

ありえることだと思います。

  

野田城周辺は12年前に行っています。

ここでも道草 信玄砲/野田城址(2011年10月15日投稿)

ここでも道草 信玄が撃たれた場所(2011年11月19日投稿)

ここでも道草 野田城址へ(2011年11月19日投稿)

この史跡に行くと、信玄は鉄砲に撃たれて死んだことを推したい。

ドラマでは、病気説を匂わせる演技がありました。

大河「どうする家康」16話の関連動画その2

   

今日は令和5年5月5日。

  

気持ちよく「5」が3つ並ぶ日も、

もうじき終わってしまいます。

前記事に引き続き、4月30日の

大河ドラマ「どうする家康 16話 信玄を怒らせるな」に

関連する動画を紹介します。

これです。

三方ヶ原の戦いが始まったワケ 武田信玄はなぜ出陣したのか?

前記事同様に、かしまし歴史チャンネルです。

大河では、家康が上杉謙信と同盟をしようとしたので、

それに怒った信玄が、家康を攻めようと進軍したように描かれていました。

動画では、それももちろん進軍の理由ですが、

他にもいろいろな事情が重なって、進軍したと言っています。

その理由を、動画では次のようにまとめています。

1

動画の中でも言っていますが、動画ではわかりやすく簡単にしているそうです。

それを補うのが、この動画だというわけです。

   

いいなあ、この動画。

毎週必ず見ている大河ドラマ「どうする家康」と

動画を組み合わせることで、とてもよく理解できます。

ドラマで、しょうがなく切ったエピソードを教えてくれるので、

深く知ることができます。

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