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2023年5月 7日 (日)

岩村城跡/本能寺で死んだ御坊丸について

     

今日は令和5年5月7日。

  

5月3日に苗木城跡に行った後に、

恵那市にある岩村城跡にも行きました。

ここにも資料館がありました。

岩村歴史資料館です。

この資料館の駐車場に車をとめて、

資料館でまずは勉強をしました。

そこで気になったのが、岩村城主になった人で、

2人、本能寺の変で命を落としている人がいたところです。

御坊丸と団忠正です。

この2人がどんないきさつで、本能寺の変で命を失うことになったのか、

気になりました。

そんな時に、この動画に出合いました。

【戦国おんな城主紹介】信長の叔母・おつやの方の壮絶な生涯

チャンネル登録しているかしまし歴史チャンネルです。

 

岩村城は、女城主でも有名な城です。

織田信長の叔母であるおつやの生涯を紹介している動画です。

そこに御坊丸が絡むのです。

 

信長の父親の妹に当たるおつやは、

政略結婚で、美濃の斎藤氏の家来に嫁ぎます。

しかし、斎藤道三が亡くなった後に、

織田家と斎藤家は関係悪化。

織田信長が美濃を攻めた時に、おつやが嫁いだ家来が戦死。

おつやは、尾張に戻って、織田家の家来に嫁ぎます。

その後、おつやは、信長の命令で再び政略結婚をします。

岩村城主の遠山景任(かげとう)に嫁ぎます。

岩村城は、織田家、武田家がともに狙っていた要所にある城。

岩村城を味方に引き入れるために、おつやを嫁がせたのです。

しかし、遠山景任はじきに病死。

おつやとの間には子どもがいませんでした。

そこで、信長は、自分の息子の御坊丸を

景任の後継ぎとして岩村城主とします。

しかし、御坊丸は当時5歳くらいだったので、

義母に当たるおつやが実質の城主、女城主となりました。

2か月後、岩村城が、武田の秋山虎繁に囲まれます。

おつやは、信長の援軍を期待しましたが、

信長は当時、浅井朝倉に攻められ、石山本願寺とも対立し、

援軍を送る余裕がありませんでした。

虎繁から条件が出されました。

もしおつやが、虎繁と結婚し、御坊丸を武田の本拠地甲府に

人質としておくるなら、岩村城の家来の命を助けるというものでした。

おつやは、とっても美人だったそうです。

虎繁の心も奪われたのでしょう。

仕方なく、おつやはその条件をのみます。

  

怒ったのは信長です。

勝手に敵将と結婚して、息子を人質として甲府に送られたからです。

信長は、信玄が亡くなり、浅井朝倉を滅ぼした後に、

武田攻めを行います。

岩村城は、信長の息子の信忠の軍に囲まれます。

城主になっていた虎繁は、部下の命を助けてくれるならという条件で、

降伏します。

しかし、信長は許しませんでした。

虎繁とおつやを、縛り上げられて、長良川の川原で、

三日三晩、逆さ磔にして殺されてしまいます。

許すといった部下たちも次から次に殺されてしまいます。

  

この動画では、こんな筋が語られていました。

 

御坊丸はどうなった?

その後のことは、ここを参考にしました。

戦国時代 織田勝長の帰参 ~信長との再会~

2008年の記事です。15年前の記事で勉強しました。

  

御坊丸は、人質として9年間、武田家で過ごします。

そして武田勝頼の命で、織田家に返されます。

勝頼は、御坊丸を返すことで、

織田家と仲直りしたいと画策したかもしれませんが、

叶いませんでした。滅ぼされてしまいます。

御坊丸は、元服して勝長(あるいは信房)と名乗り、

武田討伐に加わりました。

本能寺の変では、信長の息子の信忠と、二条城で戦って、

戦死したそうです。

  

御坊丸が死んだのは、15~16歳くらいかな。

短くも波乱にとんだ人生でした。

  

  

御坊丸については、わかりました。

また後日、団忠正について調べます。

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