2026年5月 4日 (月)

「大関和物語」⑧ 気になる関節リュウマチ

今日は令和8年5月3日。

   

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。今回が最後。

  

雅との別れを機に、和は今度こそ看護婦を引退した。年々悪化する

関節リウマチを騙し騙し働いてきたが、もはや気力も限界だった。

六四歳となり、もう十分に働いた気がする。大関看護婦会の経営は

続けたが、鷹司家や徳大寺家といった和を贔屓(ひいき)にしてく

れる顧客から指名の依頼がきても、丁重に断り、代わりに自分が育

てた看護婦を派遣した。(289p)

  

この文章で気になったのが「関節リウマチ」「六十四歳」です。

私も右足親指付近の関節が少しふくれていて、

赤く腫れているようになっていて、

時々痛いのです。

高市首相が関節リュウマチで職務を一部キャンセルと聞いた時に、

自分の症状も関節リュウマチじゃないのかなと

思うようになりました。

最近だけの症状ではなく、かなり前からそうなっています。

大関和さんのように、騙し騙し、病院にも行かずに

過ごしてきましたが、大関和さんのように、

64歳(私は現在65歳)と年齢を重ねてくると、

支障が出てくるのかなと思って読んだ文章です。

    

趣味の山登りを将来辞めざるを得ないのは、

この関節リュウマチが理由になるのではと予感がします。

2026年5月 2日 (土)

「大関和物語」⑦ 看護婦の歴史/大山捨松の偉業

  

今日は令和8年5月2日。

 

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

大正時代には、看護婦が女性の職業として定着する。桜井看護学校や

慈恵看護婦教育所などが設立された明治二〇年代から明治末まで、

二〇年かかって一万三〇〇〇人に達した看護婦は、大正時代の一五年

間で、三倍以上の五万一〇〇〇人に達した。和や雅に代表される初期

のトレインド・ナースと、大正時代に一般化した看護婦の違いについ

て、前出の村上信彦はこう説いている。

「明治期の看護婦はそのほとんどが明確な目的意識をもち、キリスト

教的な人道主義や日露戦争における赤十字の活動に感動して国家社会

のために献身したいという気持ち、あるいは親兄弟の病死に刺戟(し

げき)されて看護を生涯の目的とするような使命感が色濃かった。

みずから選びとった生甲斐のようなものである。したがって持続性も

つよく、生涯その仕事に従事するものが少なくなかった。これが大正

になると、数ある女の職業の一つとして意識され、そのなかでも比較

的有利な仕事として選択されるようになる。つまり、天職意識から生

活手段としての職業への転換である」(『大正期の職業婦人』)

看護婦という職業が、短期間のうちに一般化したことがわかる。

(292p)  

  

ドラマ「風、薫る」がきっかけで、いろいろ勉強ができるのがいいです。

看護婦さんの歴史がわかって、この本を読んだ甲斐を感じます。

看護婦誕生のきっかけは戦争・疫病でした。

そのような場で、怪我人や病人を献身的に救ったことが、

看護婦の地位を上げました。

大関和も有名になりました。

  

大正三(一九一四)年に始まった第一次世界大戦は、日本では「欧州

戦争」と呼ばれたことからもわかるように、直接の戦災はなく、特需

景気に沸いた。(中略)

大戦中、兵隊の移動によってアメリカから全世界へ広がったインフル

エンザ、通称「スペイン風邪」の猛威は、日本にも及ぶ。大正七(一

九一八)年から大正一〇年までの間に、当時の全人口五五〇〇万人中、

二四〇〇万人が感染し、死者数は三八万人とも四五万人とも言われて

いる。大山捨松も感染し、手厚い看護を受けたものの、大正八年二月

に五八歳で帰らぬ人となった。

捨松はスペイン風邪を避けるため、子どもや孫たちを連れて沼津の別

荘で過ごしていたのだが、自身が理事を務める女子英学塾(現津田塾

大学)の人事のことが気がかりで東京へ戻ったところ、たちまち感染

してしまったのだ。

女子英学塾は、捨松とともにアメリカへ留学し、生涯支え合った津田

梅子が設立した学校である。梅子が糖尿病で塾長を続けられなくなっ

たため、捨松が後任の塾長を探していた。どうにか後任が決まり、就

任式も無事終えることができたのだが、直後に捨松はのどに違和感を

覚え、発熱する。その後、肺炎を起こし、予断を許さない状況がしば

らく続いたあと、呼吸困難で亡くなった。捨松の曽孫にあたる久野明

子は、「捨松は医者がワクチン注射を打った直後、急に身体が震えだ

し、顔色が変わって呼吸が止まってしまったという。捨松は極度のア

レルギー体質だったので、このワクチン注射のショックで死期を早め

たのかもしれない」(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』)と述べている。

自宅で行われた葬儀には、和も参列した。捨松が設立に協力した慈恵

看護婦教育所からは、すでに大勢の看護婦たちが巣立っていた。

(293〜294p)

  

ドラマ「風、薫る」は大松捨松に関心を持つきっかけを与えてくれました。

大松捨松について、私は鹿鳴館で目立っていた女性くらいの

覚えしかありませんでした。

調べてみたら、とんでもなかったです。

この動画が良かったです。


YouTube: 【風、薫る】大山捨松 名前に込められた母の愛 愛すべき夫•大山巌のプロポーズ大作戦 会津戦争を生き抜き10年の留学で何を学んだのか? 見上愛 上坂樹里 多部未華子 生田絵梨花 仲間由紀恵

いい勉強ができました。

鹿鳴館では確かに目立っていましたが、

日本で看護婦を誕生させるのに欠かせない人だったと知りました。

そしてスペイン風邪で命を落とした人だったことも

知りました。

以前、スペイン風邪のことを調べました。

その時には、東京駅を設計した辰野金吾がスペイン風邪で

亡くなったことに注目していました。

ここでも道草 記事「スペイン風邪に学ぶこと」で勉強(2020年4月24日投稿)

この記事で紹介した4月24日の記事の一部。

Img_8231

ここにちゃんと「大山捨松」があります。

でも当時はピックアップしていませんでした。

例えば、辰野金吾、大山捨松以外の人、竹田宮恒久王とか、

村山槐多なども関心を持つ時がやってくるかも。

現時点で全くこのお二人のことは知りません。

島村抱月は松井須磨子のことでちょっと知っています。


  

「大関和物語」⑥ 「数え年」と「満年齢」について

   

今日は令和8年5月2日。

  

4月27日の記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

「誕生日の贈り物です。運動の時間に、風に乗って飛んできた花び

らを捕まえました」

 看守の視線など気にせず、尚江が微笑む。

「誕生日の贈り物?」

 和がいぶかるのも無理はなかった。正月に皆一斉に年をとるのが

当たり前で、個人の誕生日を祝う習慣などない。

「西洋には、生まれた日を祝う国があります。こんなものしか用意

できず、面目もありませんが……」

 そういえば以前、手紙で生まれた年月日を聞かれたことがあった。

年齢差を知りたいのかと思ったが、祝ってくれようとしていたのだ

ろうか。理由は何であれ、監獄署にいながら贈り物を準備してくれ

たことが、和はうれしい。

 洗濯物が入った風呂敷包みを抱えて監獄署をあとにした和は、濠

端で一旦足を止め、懐から押し花を取り出す。じっと見つめ、再び

大事そうに懐にしまった。(228p)

  

木下尚江が、面会にきた大関和に誕生日プレゼントをしたシーン。

このシーンは「数え年」「満年齢」の違いに関わる話。

私はこの「数え」「満」が苦手です。

違い比較辞典 「数え年」と「満年齢」の違いとは?分かりやすく解釈

このサイトから一部引用します。

  

「数え年」「かぞえどし」と読みます。

「数え年」は、「生まれた年を1歳として、新年を迎えるごとに1歳

ずつ加えた年齢のこと」という意味があります。

例えば、2000年の10月に生まれた人がいる場合、生まれた時点で

1歳になります。2か月後の2001年の元旦に、新年を迎えた瞬間に

2歳になるというわけです。(中略)

「数え年」を一般的に採用している国は、世界で韓国のみとなって

います。かつては、日本をはじめ東アジアの国々は、「数え年」

使用していましたが、徐々に「満年齢」に切り替わりました。

日本が「数え年」から、「満年齢」に切り替わったのは、明治6年

のことです。ただし、一般的には「数え年」が使われており、本格

的に「満年齢」に切り替わったのは、第二次世界大戦後と言われて

います。(中略)

「満年齢」「まんねんれい」と読みます。

「満年齢」「誕生日ごとに1歳を加えていく、年齢の数え方のこ

と」という意味があります。

例えば、2000年の10月に生まれた人がいる場合、生まれた時点で

は0歳になります。2001年の10月になり、誕生日を迎えた時点で、

1歳になります。

  

正月にみんなで一斉に年を取る。

昔は当たり前だったようですが、今はすごく違和感です。

厄年や七五三などの行事は数え年。

今でも「数え年」の風習が残っているのは、切り替わってから

まだ間がないということなんですね。

明治には誕生日プイレゼントは珍しかったんだと、この文章で

思いました。

  

韓国は今も満年齢なのか?

調べました。

CNN 韓国で「満年齢」統一の法律施行、「数え年」より1~2歳若く(2023年6月28日)

なんと、2023年6月28日に韓国では

年齢の数え方を「満年齢」で統一する法律が施行されたそうです。

変化がありました。

でもこのサイトでは、次のように書いてありました。

  

政府は28日、新基準を採用後も、状況によっては従来の制度をその

まま引き継ぐと説明した。例えば子どもは誕生月に関係なく、今後も

満年齢で6歳になった次の年の3月に小学校に入学する。

飲酒や喫煙なども、誕生月を問わず、誕生した年に基づいて認められ

る。つまり、1990年1月生まれも12月生まれも同年齢と判断さ

れる。

この法律に基づき、アルコール飲料は満年齢で19歳になる年から購

入できるようになる。

兵役義務についても引き続き、年齢や誕生日ではなく、生まれた年に

基づいて入隊年齢が決まる。

国民の多くは今後も日常生活や社交の場では、慣れ親しんだ数え年を

使い続ける見通しだ。

一方で歓迎する声もある。法制処が行った世論調査では、86.2%

が満年齢を使用すると答えた。年齢の数え方が混在する状況に閉口し、

満年齢の標準化を長年訴えてきた議員たちの勝利だった。

  

韓国は日本と同じで、年齢でしばらくは混乱するんだろうな。

私みたいに。

この引用文でまた新しいことを知りました。

韓国は3月入学なんだ。

2026年5月 1日 (金)

カマキリの卵嚢から出てきたカマキリの天敵

   

今日は令和8年5月1日。

  

今日も、教室にあったカマキリの卵嚢が3つ羽化。

ボトル内が赤ちゃんカマキリでいっぱいになるのを

子どもと観察。

授業後に校庭の草むらに逃しました。

そんな中、1つの卵嚢が気になりました。

その卵嚢からは、まだ赤ちゃんカマキリが

羽化していませんでしたが、ふと見ると3つほどの穴が

空いていることに気がつきました。

卵嚢を入れたボトルの下には、3ミリほどの黒くて丸いものが

5つ落ちていました。

あれは虫か?でも動かないなあ。

他のボトルにはないものなので、黒くて丸いものが、

あの穴から出てきた可能性が高いです。

その授業に来た子どもと相談。

卵嚢の中身を見てみようと決めました。

恐る恐る切断してみました。

Img_8208

カマキリのサナギのようなもので埋まっていると思いましたが、

中には異物がありました。

大きめのサナギが何個かあり、そこから何かが抜け出した跡がありました。

ふと見ると、卵嚢の近くに黒い丸っこいものが動いていました。

きっとこの生き物に、卵嚢内のカマキリがやられたのではと

思いました。

アップで写真に撮りました。

その生き物を上から撮影。

Img_8210

ひっくり返して撮影。

Img_8211

鮮明ではありません。でもこれは虫です。

足が6本見ることができました。

  

動画で撮影しました。


YouTube: 2026年5月1日 カマキリの卵嚢から黒い虫が出てきた


この虫の正体はカマキリタマゴカツオブシムシとわかりました。

卵嚢の中で、カマキリの卵を食べて成長。

食べ尽くすと蛹になり、成虫となって、

卵嚢に穴をあけて外に出てきます。

  

昨年もカマキリの羽化をしましたが、

カマキリタマゴカツオブシムシには出合いませんでした。

今年は出合いました。

何回もやっていると出合いが増えます。

カマキリにも天敵がいるんですね。

いやいや、いるじゃないですか。

カマキリの天敵。

もうお馴染みのハリガネムシ!


 

2026年4月30日 (木)

駐車場の近くで咲いていたカラスヒシャク

   

今日は令和8年4月30日。

  

4月28日、勤務を終えて変える時に、

用務員さんに声をかけられました。

「面白い植物があるよ」

私がいつも自動車をとめている近く。

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マムシグサに似ているけど、ひゅるひゅるひげが出ているのが特徴。

これと同じような形で、より大型の植物は山で見かけます。

山にあるのはウラシマソウというそうです。

Img_8204 季節の花300 ウラシマソウ

  

今回の植物はなんだろう?

調べました。

カラスヒシャク(カラスビシャク)。

    

カラスがつくのは、役に立たないものの意味。

ひゅるひゅるしたひげは役に立たないのでしょう。

でも漢方薬として重宝されている面もあるそうです。

売ることでお金を得る可能性があることから、

カラスヒシャクの別名は「ヘソクリ」

漢方薬として役立つのは、球根の部分。

この球根を「半夏(ハンゲ)」と言うそうです。

  

ウラシマソウとカラスヒシャクは一緒に覚えておきましょう。

山で見る大きなのがウラシマソウ、

街でも雑草のように育っていて、小さいのがカラスヒシャク。

最近、見たよな、ウラシマソウ。

  

  

2026年4月29日 (水)

羽化したばかりのギンヤンマのメス

   

今日は令和8年4月29日。

  

1週間前の4月22日の朝、教室に入ったら、

窓際にトンボがいました。

2匹いるはずのヤゴが1匹になっていたので、

ヤゴが羽化したのでしょう。

ただ、いくら探しても、ヤゴの抜け殻が見つかりませんでした。

不思議です。

その日に撮った映像と写真で動画を作りました。


YouTube: 2026年4月22日 ギンヤンマの翅が美しい

  

オスはギンヤンマの名前のいわれになった、

腹部後方に青色の模様がありますが、

このギンヤンマはないので、メスと考えられます。

    

Img_6357

ものがあり、この黄色の部分を動かして飛ぶんだろうなと思いました。

翅の構造も興味があり、少し調べましたが、

今晩はここまで。  

2026年4月27日 (月)

「大関和物語」⑤ 6年ぶりに復習「ゼンメルワイス」

    

今日は令和8年4月27日。

  

4月25日の記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

手洗いが衛生の基本であるということが認識されるようになった歴

史は浅い。オーストリアのウィーン総合病院に勤めていた医師セン

メルヴェイス・イグナーツが手洗いの重要性を提唱したのは、

一八四〇年代のことである。

センメルヴェイスは、出産後の母親の命を奪う産褥熱(さんじょく

ねつ)の原因が、赤ん坊を取り上げる際の医師の不潔な手にあると

考え、病棟の医師たちに手洗いを励行する。その結果、産褥熱の死

亡率は劇的に減った。しかし、当時はまだ科学的な裏付けがなく、

彼の主張はなかなか受け入れられなかった。さらに、自分たちの手

が不潔だと指摘されたことに腹を立てた医師たちからの激しい反発

に遭う。負けじと各地の病院をまわり、手洗いの重要性を訴えるセ

ンメルヴェイスは危険人物と見なされるようになる。最終的には、

精神病院へ強制入院させられ、失意のなか四七歳で亡くなった。死

因は精神病院で衛兵から受けた暴力だと言われている。フランスの

細菌学者ルイ・パスツールが、細菌と病気の関係を突き止め、セン

メルヴェイスの主張に科学的根拠を与えるのは、彼の死後二〇年を

経た一八八〇年代半ばであり、和が看護婦になった頃のことである。

つまり、ナイチンゲールが著書において手洗いの重要性を説いたこ

とは、かなり先進的だったと言える。ナイチンゲールにせよ和にせ

よ、現場の看護婦たちは経験的に手洗いの重要性を感じ取っていた

のだろう。(178〜179p)

  

ナイチンゲールが活躍したのはクリミア戦争。

1853年〜1856年の戦争。

その後、1859年にナイチンゲールは「看護の覚書」を出版。

その本の翻訳本「看護の栞」が日本で出版されたのは、

1913年。

大関和さんは、もっと早くこの本を読んでいることになるので、

英語本を読んだのでしょう。

これでいろいろ辻褄が合います。

  

手洗いを推奨した医者については、以前本を読み、記事にしました。

ここでも道草 「ゼンメルワイスの闘い」① 産褥熱/今でこそ「感染防護の父」ですが・・(2020年3月12日投稿)

「大関和物語」では「センメルヴェイス」でしたが、

6年前に読んだ本では「ゼンメルワイス」でした。

なので同じ人か?と思ってしまいました。

外国人の名前は難しい。

  

明治二七年八月、日清戦争が始まる。日本赤十字社は広島、松山、名

古屋など各地の陸軍予備病院に看護婦を派遣した。先述のとおり、日

赤は戦時救護を目的に設立されており、日清戦争が最初の本格的な活

動であった。

このとき、戊辰戦争の会津鶴ヶ城籠城戦を戦った新島八重は、日赤の

篤志看護婦として広島陸軍予備病院に赴任している。八重は夫新島襄

の亡きあと、日赤の正社員となっていた。彼女は看護婦たちに、「敵

なればとて、傷を受くる者、仁愛の心をもって助けよ」という陸軍大

将大山巌の訓示を伝えている。同病院へは、宇品港(現広島港)をと

おして日清両国の傷病兵が連日一〇〇人以上運び込まれ、看護婦たち

が不眠不休の看護を行った。戦場ではないため、戦いに巻き込まれる

ことはなかったが、四人の看護婦が伝染病により殉職している。八重

は半年間の命懸けの看護が認められ、ほかの篤志看護婦らとともに、

皇族以外の女性として初めて叙勲を受ける。賊軍扱いされた旧会津藩

士やその家族たちにとって、八重の叙勲には特別な意味があった。

新島八重、そして皇族の小松宮妃頼子といった上流階級の女性たちが

篤志看護婦として活動したことにより、看護婦に対する賤業視が一気

に払拭される。そして、看護婦といえば従来の「看病婦」ではなく、

トレインド・ナースを意味するようになり、一転して憧れの職業とな

った。また、戦場から持ち込まれた伝染病が国内に蔓延したことから、

看護婦の需要が高まり、全国で次々と派出看護婦会が設立された。

日清戦争は開戦翌年の明治二八年には終結したが、この年、全国のコ

レラ患者はおよそ五万五〇〇〇人。うち四万人が死亡。腸チフス患者

は三万七〇〇〇人。うち八〇〇〇人が死亡した。この数字は、日清戦

争における日本兵の戦死者およそ一万三五〇〇人を大きく上まわって

いる(『医制百年史』)。戦死者も、その九割が脚気や赤痢などの病

死であった。(192〜193p)

  

新島八重さんの、大河ドラマでは十分に語られなかった功績が

わかりました。看護婦を見る目も変えることができたのですね。

日清戦争の戦死者のうちの病死の多さ。

明治28年の伝染病での患者の死亡率の異常な高さ。

今以上に病気が怖い時代だったと思います。

  

2026年4月25日 (土)

丸山散歩/折れた枝の観察を続けます

    

今日は令和8年4月25日。

  

丸山のことを書きます。

ここでも道草 枝の折れたサクラの観察/次回は見捨てられた枝を剪定予定(2026年4月8日投稿)

  

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この春はあちこちでアケビを見ています。

縁があるようです。

 

この春、最初に藤(フジ)の花を見たのも、丸山の麓でした。

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近年、木に巻き付いてすごいことになっているフジの蔓を

見てきただけに、複雑な思いでフジの花を見ました。

  

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丸山、登山口の写真です。

サクラの開花期は短いです。

もう緑の葉っぱ優先の景色になりました。

  

頂上のサクラの折れた枝。

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以前来た時に気がついたことです。

折れた枝は、すぐに枝分かれしますが、

向かって左側の方の枝には、栄養や水が行っていないようです。

赤線で切断することで、枝全体の重さが軽くなり、

さらに風を受けた時に、揺れが減ると予想され、

下の写真の折れたところへの負担が減ると考えました。

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この折れた部分が、この後どうなっていくのか注目です。

    

【4月23日撮影】

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登山口です。

    

マークした場所です。

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折れた枝は・・・

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まだちゃんとぶら下がっていました。
  

この日、剪定して落とした枝を拾ってきました。

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小さな冬芽が出来始めていました。

夏ぐらいから冬芽は作られるとのこと。

秋ぐらいに、この枝は折れてしまい、栄養や水分がいかなくなったと

予想します。

  

最後に4月23日の丸山全景。

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4月8日に花盛りだった丸山でしたが、たった2週間ほどで変貌しました。
  

「大関和物語」④ 日本看護史の貴重な貴重な写真を見つけた

  

今日は令和8年4月25日。

  

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

トレインド・ナースの誕生

明治二一(一八八八)年一〇月二六日、桜井看護学校の六人は、第

一医院の看護学生二二人とともに一年間の実習課程を終え、修了試

験にも合格することができた。同年二月には慈恵看護婦教育所が、

六月には京都看病婦学校が最初の卒業生を出していることから、こ

の年は日本におけるトレインド・ナース誕生の年といえる。

(中略)

修了式を終え、アグネス、マリア、楫子、和たち六人の学生が寄宿

舎へ帰ると、庭で写真屋が待ち構えていた。マリアと楫子の計らい

である。二人は、アグネスと学生たちに花束を贈ると、写真に収ま

るようにうながした。

まずアグネスを中心に和と雅が座る。和の隣には梅が寄り添う。雅

の隣に民が座り、後ろに子尾が立つ。民と子尾はたびたび雅から厳

しいことを言われ、その場では反感を覚えつつも雅を尊敬してやま

なかった。おっとりとした里以は、写真屋にうながされるままにア

グネスの後ろに立つ。このとき撮影された桜井看護学校卒業生たち

の写真は、日本の看護史の貴重な一枚として今に伝わる。

(114〜115p)

  

この本のここを読んだ時から、この写真をネットで探したいと

思っていました。

果たしてネット上にあるかどうか。

調べました。

簡単に見つけることができました。

エキスパートナース 朝ドラ『風、薫る』のモデル、大関和と鈴木雅―看護の道を切り開いた2人の歩み

このサイトにありました。

Img_8174

写真の下には次の説明がありました。

桜井女学校附属看護婦養成所第1期生の卒業記念写真。

前列右から2人目が大関和、4人目が鈴木雅(医療法人知命堂病院提供)

本の文章によると、前列右から広瀬梅、大関和(ちか)、アグネス、

鈴木雅(まさ)、小池民(たみ)。後列右が池田子尾(ねお)、

桜井里以(りい)。

1888年(明治21年)の写真。

138年前の写真。貴重な写真を見つけることができました。

  

二人の看護婦は緊張のあまり、普段より饒舌である。馬車に揺られな

がら、過去の防疫の際に起きた出来事や事件などについて語り合って

いる。こうした話題のとき筆頭に挙げられるのが、十数年前、千葉の

鴨川で起きた事件である。全国的にコレラが流行し、防疫対策のみな

らず、米価高騰に対する不満も重なって各地で暴動が起こるなか、防

疫に奔走した四〇代の医師が、数十人の住民から竹槍で滅多刺しにさ

れ、川に遺棄されたのだ。避病院への隔離は患者の「生き胆を抜くた

め」という噂を信じ、さらに、医師が井戸を消毒している姿を見て

「毒を混入している」と思い込んだ住民たちは、コレラの流行を終息

させるためには、彼を始末するほかないと考え、集団で襲ったのであ

る。(176〜177p)

  

この事件について知りたくなりました。

調べてみると、この住民から殺された医者は、

沼野玄昌のようです。

館山市立博物館 コレラ事件

このサイトで事件のあらましを書いた文章を引用します。

  

明治10年(1877)はコレラが流行した年で、県内でも300人を大

幅に超える死亡者があった。9月には鴨川町でコレラ患者がでたた

め、小湊の医師沼野玄昌が死者の火葬や井戸の消毒などの防疫活動

を行っている。11月にも鴨川でコレラ患者が発生し隔離のために

出向いたところ、玄昌が井戸に毒を入れ患者の生き胆を抜くという

噂が流れ、それを妄信した住民が押し寄せ、玄昌を襲い殺害すると

いう事件がおこった。

玄昌は佐倉順天堂で佐藤舜海から4年にわたって西洋医学を学び、

慶応3年(1867)には幕府医学所で種痘法の技術を身に付けて、

伝染病対策に取り組んでいた人物であった。事件の背景には、

コレラという新しい伝染病への恐怖と不安に加え、明治維新によ

る価値観の転換を迫られていた人々の動揺があったとされている。

玄昌がもつ近代医学の発展普及への熱意に、人々の理解はまだ追

いついていけなかったのである。

  

この殉職した沼野玄昌について、作家の吉村昭さんが

小説「コロリ」で書いていました。

さすが、吉村昭さんといった感じ。

歴史に埋もれていってしまいそうな出来事を

文章で残す仕事をされているなあと思いました。

2026年4月24日 (金)

「大関和物語」③ 大山捨松と新島八重/俥夫の階層「朦朧」 

  

今日は令和8年4月24日。

  

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

この時期に看護学校が相次いで設立された背景には、江戸時代と変

わらぬコレラ、天然痘、赤痢といった伝染病の流行があった。桜井

看護学校開校の前年には、全国的にコレラが大流行し、東京府は

「伝染病予防法」に基づき、本所、駒込、大久保、広尾に、コレラ

患者を隔離する「避病院」を設置している。

このうち、いち早く常設となる駒込病院には、同年中に二四六〇人

が入院し、うち一八五九人が死亡した。また、男女の「看病人」も

感染し、八月、九月の二カ月の間に、四病院合わせて三〇人以上が

命を落としている。府民の中には、東京なまりも手伝って、避病院

を「死病院」と思い込んでいる者さえいた。伝染病を抑え、看病人

までもが亡くなるという悲劇を繰り返さないためにも、専門的な訓

練を受けた「看護婦」が必要とされたのである。

和が看護学校に入るにあたり、哲は予想どおり「せっかく鹿鳴館の

仕事に就けたというのに、看護婦に身をやつすとは」と言って反対

した。「男女七歳にして席を同じうせず」を地で生きてきた哲にと

って、見知らぬ男に付き添って看護をするなど、下賤極まりない行

為であった。しかし和が、会津藩出身の大山捨松と新島八重が看護

学校の設立に関わった話を聞かせると、もう何も言わなかった。

戊辰戦争後、苦難の道のりを歩まねばならなかった会津の女たちに、

元黒羽藩家老の妻として、思うところがあったのだろう。

(69〜70p)

  

ドラマ「風、薫る」でも登場した「避病院」

「ひ病院ってなんだ?」と最初思っていました。

後で「ひ」は「避」だとわかりました。

確かにドラマでも「死病院」と言われていました。

新島八重が登場したことにも驚きでした。

そうか、新島八重は、大河ドラマ「八重の桜」で知った人。

「八重の桜」では、看護婦誕生に関わったことは、

あまり扱っていなかったように思えます。

それをいうなら大山捨松の功績もよくわかっていませんでした。

今回の連続テレビ小説は、2人の女性の勉強のきっかけになります。

  

ある晩、和と雅の二人で食堂の床に座り込み、ランプの火屋を磨いて

いると、雅がおもむろに「『博愛社』が『日本赤十字社』と名前を改

めたことを知っていますか」と問う。

「はい。新聞で読みました」

一〇年前、新政府の方針に反発した九州の不平士族たちが起こした

西南の役では、反乱軍側、政府軍側ともに多数の傷病者が出た。そ

の状況を憂えた元老院議官の佐野常民(つねたみ)が中心となって

設立したのが、博愛社である。

常民は、幕末に佐賀藩を代表してパリ万博へ派遣された際、戦傷病

者の保護を目的に創設された赤十字の展示を見学し、創設者である

アンリ・デュナンの「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間で

ある。人間同士として尊い生命を救わなければならない」という言

葉に感銘を受け、日本にも赤十字のような組織が必要だと考えたのだ。

博愛社は赤十字の精神に基づき、西南の役で敵味方の区別なく兵士

たちの救護活動に当たった。一年前、戦時における傷病者および捕

虜の待遇改善について定めたジュネーブ条約に日本が加盟したため、

社名を日本赤十字社(日赤)と改称すると同時に、上流階級の女性

たちから成る「篤志看護婦人会」を発足。本社と同じ麹町にあった

「博愛病院」も「日本赤十字社病院」と改められ、渋谷では新病院

の建設が着工した。間もなく、看護婦の養成も始まる。

(85〜86p)

  

西南戦争と日本の赤十字社が関連があると記憶がありましたが、

この文章で復習ができました。

  

  

気まずい夕食を終え、部屋に戻った和は、外出の準備をして寄宿舎を

出た。向かう先は、植村正久がいる麹町の一番町教会である。ちょう

ど通りかかった空の俥に乗る。夜に多い「朦朧(もうろう)」のよう

だ。人力車夫にもいくつか階層があり、最下層の「朦朧」と呼ばれる

車夫たちは、貸し俥屋から安い俥を借りて営業する。安い俥は古く傷

んでいるため、それが目立たない夜間に走ることが多い。和は、俥の

良し悪しなどどうでもよかった。幸いだったのは、車夫が一番町教会

の場所を知っていたことだ。俥は上り下りの多い道を颯爽(さっそう)

と走り抜け、一五分ほどで教会まで運んでくれた。教会の扉の鍵は、

いつも開いている。和は迷わず中へ入った。すると、いつもと同じ牧

師服に身を包み、復活祭の準備をしていた正久が、こちらをふり返る。

「大関さん、あなたはいつも唐突にやってきますね」(109p)

  

人力車の階層「朦朧」が気になりました。

朦朧の意味は「ぼんやりとかすんで、はっきり見えないさま」

(コトバンクより)でした。う〜ん。

他にどんな階層があったのかな。

くるま屋日本橋 俥夫の社会と暮らし

ここに階層がありました。

①おかかえ

②やど

③ばん

④もうろう

4階層のようです。

「ばん」の説明で「もうろう」と呼ばれた理由が分かったような。

引用します。

  

●ばん

人力車はみだりに路上で駐車したり、空車を引いてうろうろしてはい

けないことになっており、公設または私設駐車場に梶棒をおろして客

待ちをすることになっていました。番は人力車駐車場を拠点として組

織されている株(権利)俥夫の集団で、この番に入っていない俥夫を

もうろう俥夫と言って区別していました。

  

株(権利)を持っていないあいまいさを表現している「朦朧」のように

思えました。

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