岡崎「北野廃寺跡」はどんなところ?
今日は令和7年4月6日。
4月3日に岡崎市内を自動車で走っていて、
「北野廃寺跡」という看板が気になって
メモ帳に書きました。
調べてみます。
ネットにはいろいろ参考になるものがありました。
その中から1つ。
一部引用します。
岡崎市の北西部、矢作川近くの台地上にある北野廃寺跡は、飛鳥時代
の7世紀後半から平安時代半ばの10世紀前半まで存在したとされる寺
院の遺跡です。文字の記録がなく正式な寺号も不明なので、所在地か
ら「北野廃寺」と呼ばれていますが、北野では古くから「むかしここ
に大きな寺があり、兵火にかかり焼失した」と伝えられてきました。
明治の終わりごろから学術的な調査・研究が行われるようになり、日
本を代表する仏教考古学者で矢作町出身の石田茂作も調査に携わって
います。その成果を受けて1929年(昭和4年)には国の史跡に指定。
戦後も大規模な発掘調査が3回にわたって行われ、出土した瓦や建物の
遺構から、おおよその姿が明らかになりました。
文献はないけど、言い伝えられてきたというのがいいですね。
それがつい最近(明治の終わり)、調査・研究がされて、
その跡を発見できたことは素晴らしい。
言い伝えが証明されたということです。
次の引用文にありますが、ここは藪や畑だったそうです。
1000年の時の流れが、大きなお寺も忘却の彼方に
追いやってしまったのですね。
さらに引用。
北野廃寺の規模は、南北146m、東西126.5m。この広い境内に、南大
門・中門・塔・金堂・講堂が一直線に並んでいました。聖徳太子創建で
日本最古の寺院とされる四天王寺(大阪市天王寺区)と同じ様式です。
このような大きな寺が置かれた北野は当時、東西を結ぶ古代の幹線道路
と、南北に流れる矢作川が交わる交通の要地でした。
こうしたことからこの寺は、西三河で最も早くに建立され、この地域に
仏教文化を広めた中心的存在であったと考えられています。建立からお
よそ300年後、その役割を終えたためか廃寺となってしまいますが、そ
の後、北西約4.5kmの山あいの地に移転して真福寺(岡崎市真福寺町)
になったという説もあります。
以前の北野廃寺跡は薮や畑になっていましたが、発掘調査を終えた
1979年(昭和54年)に北野公園として整備されました。その際、建造
物の遺構が出土した場所に盛土するなどして、かつての寺の様子をイメ
ージできる工夫がなされました。
豊川市の国分尼寺跡みたいな感じだと思います。
役目が終わったから廃寺さのか、
焼失したので廃寺なのか。
今回の引用文では曖昧です。
文献が残っていないのだから、そうなりますよね。
焼失したのを機に、廃寺したかもしれません。
上記「岡崎ルネサンス」から写真を転載。
礎石については、国分尼寺跡で学んだこと。
昔は、この石の上に柱が乗っていた。
本当か?と疑いました。
ここからも写真を1枚転載。
「寺号標」は「じごうひょう」と読みます。
意味は・・・
寺院の入口の近くにある、寺院名を刻んだ石碑や石柱のこと。
寺号(寺院名のこと)のほか、宗派、山号、院号や、札所などを併記し
たものが多い。
神社のものは、社号標と呼ばれる。
岡崎はそんなに遠くないので、また行ってきたいです。