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2020年8月

2020年8月 5日 (水)

「ボクはやっと認知症のことがわかった」② 認知症になっても心は生きています

  

今日は令和2年8月5日。

  

前記事に引き続き、

「ボクはやっと認知症のことがわかった」

(長谷川和夫著・猪熊律子著/KADOKAWA)より。

  

  

 (認知症の人に)話しかける際には、遠すぎず、近すぎず、その

人と1メートルくらいの距離をとったところで言葉をかけてもらう

のが、ちょうどいい。目線の高さも大事です。上から見下ろすので

も、下から見上げるのでもなく、同じ高さにして、目と目を合わせ

る。

 認知症になったら「何もわからなくなる」と思っている人がいま

す。でも、繰り返しますが、そんなことはありません。心は生きて

います。嫌なことをされれば傷つくし、褒めてもらえばやはり嬉し

い。

(71p)

  

認知症の父親と過ごしている時に、このことも思います。

父親には責任感もプライドもあり、

それが生きていく支えにもなっているのです。

  

  

 日本は1970年に、65歳以上の人口比率が7%を超える「高

齢化社会」に突入した(14%を超えると「高齢社会」という。日

本が高齢社会になったのは1994年)。

(122p)

  

日本はとっくに「高齢化社会」ではなくて「高齢社会」なんです。

あと6年で私も65歳以上になります。

私が加わると、何%になるのかな。

加わる直前に、思い出したら調べることにしよう。

  

  

 それにしても、当時の認知症の人は悲惨でした。「役立たず」

「家の恥」とされ、家庭のなかでも放置されたり、別の部屋に隔離

されてしまったり。

 家族が家で面倒を見られなくなると、精神科病院や老人病院に預

けられました。しかし医療上の治癒は望めないため、ベッドの上で、

手や腰を縛られたまま寝かされているだけ。

 隔離と収容と拘束。そういう時代でした。

(125p)

  

 1970年代、80年代当時は、家族が認知症になっても誰にも

いえない、ましてやご近所には絶対にいえないというのが普通で、

ご本人はもちろん、ご家族の方もたいへんだったと思います。治療

薬がなく、医療は役に立つことができない。介護も、ケアの仕方も

まったくわからないという時代でした。

(127p)

  

たいへんな時代だったとうっすらと思い出します。

私の身の回りに認知症(当時は痴呆と呼ばれました)の

人がいなかったため、実感はありません。

長寿社会になってきて、世間がだんだん認知症を受け入れてきて、

今に至っているのだと思います。

私自身も、この数年で、

父親の認知症に慣れてきた感があります。

最初は焦りました。

でも今は自然です。

長谷川さんが言うように、父親は連続しています。

認知症になってがらッと変わったわけではないのです。

  

   

 認知症のケアを振り返ると、2000年に介護保険制度が始まっ

たのは、やはり、とても大きな出来事だったと思います。高齢者の

介護は家族だけの問題ではなく、社会全体の問題だとはっきりいっ

たわけですから。「介護の社会化」です。

(133p)

  

この制度のおかげで、私は復職できたと思っています。

時代に助けてもらいました。助けてもらっています。

  

  

つづく  

  

  

  

  

 

2020年8月 4日 (火)

「ボクはやっと認知症のことがわかった」① 夫婦の会話が増えたと思えば、認知症も悪くない

  

今日は令和2年8月4日。

 

予定通り、今日、この本を読み終えました。

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「ボクはやっと認知症のことがわかった」

(長谷川和夫著・猪熊律子著/KADOKAWA)

  

 

 ボクは、愛知県東春日井郡(現・春日井市)で生まれ・・・

(75p)

同じ愛知県生まれと知って、親近感が湧きました。

  

「認知症のパーソン・センタード・ケア」(クリエイツかもがわ)

という書名で邦訳が出ている。

(78p)  

長谷川さんが認知症ケアをどのようにしていったらいいかと

探っている時に、参考になった本でした。

出版社が村上公也さんの本を出している同じ会社だったので

目に留まりました。

   

  

 認知症の人とのかかわり方で、ご家族からこちら(医師)が教え

てもらうこともたくさんありました。認知症の人は何度も同じこと

を尋ねたりしますが、男性の認知症の患者さんと一緒に来られるご

家族に、「奥さま、たいへんですね」と話しかけると、「うちの人、

無口だったのが、今ではしょっちゅう同じことだけど聞いてくるの。

同じ答えをしてればいいので楽です。夫婦の会話が増えたと思えば、

認知症も悪くないですよ」といって笑われたのです。それが印象的

でした。

(86p)

  

これは共感します。

我が家では毎週、似たような会話が認知症の父親と行われます。

ちょっと父親には酷だなあと思う会話が一つあります。

母親は12年前に亡くなっているのですが、よく聞いてくるんです。

夕飯時、みんなが食卓に集まってくると、

「〇〇さんはどうしたかな。姿が見えないけど」

奥さんを探すんです。

私「おばあちゃんは死んじゃったよ」

父「え、死んだ!そうだったかな。何年経つんだ?」

私「12年だよ」

父「そうか、12年も経つんだ」

  

こうやって会話は終わるのですが、

毎回父親にはショックを与えているので、

体には良くないなとは思っています。

  

  

今晩はここまで。

2020年8月 3日 (月)

「天声人語」/今読んでいる本が登場しました

  

今日は令和2年8月3日。

  

学期中は、ほぼ四六時中、自分の脳内の多くは、

「明日の授業はどうしようか」に占められています。

これはなかなか厄介です。

それを思えば、夏休みはふっと気が抜けています。

読書量やビデオ鑑賞時間が増えます。

    

今日、まさにその本のその部分を読んでいたところが、

「天声人語」で書かれていました。

2020年8月3日朝日新聞朝刊「天声人語」を引用します。

  

 花が若さを象徴するのは、はかなく散る姿ゆえである。そう考え

ると「老いた花」というのは形容矛盾かもしれない。しかし夏の盛

りの紫陽花(あじさい)はそう表現していい。花に見えるのは実は

ガクで、散ることがない▼色の移り変わりを重ね、紫陽花がいま渋

みのある風合いを見せている。最近読んだ認知症専門医、長谷川和

夫さんの言葉を思い出す。認知症になっても人が変わるわけではな

く「昨日まで生きてきた続きの自分がそこにいます」▼自らも認知

症になった長谷川さんが共著『ぼくはやっと認知症のことがわかっ

た』で語っている。人は生まれたときからずっと連続している。認

知症の人を「あちら側の人間」と扱うのは間違いだと▼症状に波が

あることも、なってみて初めて分かったという。夕方は疲れのため

混乱がひどくなるが、一晩眠ると頭はまたすっきりする。誰にもあ

る好不調を思うと、まさに「生きてきた続き」であろう▼昨年の日

本人の平均寿命は女性の87,45歳。男性の81.41歳と過去

最高となった。高齢化社会は進んでも、老いの内側をのぞくのは簡

単ではない。手がかりになる言葉があれば寄り添うための力になる。

(後略) 

  

「ボクはやっと認知症のことがわかった」を現在読書中。 

認知症の父親を世話している身としては、

参考になることがたくさん書いてある本です。

明日には読破する予定です。

  

2020年8月 2日 (日)

腕時計 1年間で3分1秒進みました

   

今日は令和2年8月2日です。

  

昨日「時(とき)」のことを書きました。

江戸時代の「八つ」「七つ」は、

ピンポイントの時間を表さず、

2時間ほどの幅があります。

今の時間間隔に比べておおらかです。

  

やはり正確な時計が人々に普及したこと、

さらには、テレビやラジオの普及も

今のような時間に正確な暮らしを招いたのでしょう。

  

私は昨年度の日記を時々見ては、1年前のことを思い出しています。

昨年の8月1日に、腕時計の時刻合わせをしていました。

ちょうど1年後の8月1日に、今年も時刻合わせをしてみました。

正確な時刻よりも、3分1秒進んでいることがわかりました。

365日かけた少しずつ少しずつ進んで、その結果が3分1秒。

  

正確な時計なら、1年で3153万6000秒

        (60×60×24×365)

今回はずれて、 1年で3153万6181秒

これをお金だと思うと・・・

3153万6000円と

3153万6181円です。

  

まあたいしたことないか。

    

来年も8月1日時刻合わせをしてみよう。

 

 

色彩がつなぐ 広島の記憶/記憶の解凍

    

今日は令和2年8月2日。

  

8月1日から夏休みでした。

7月31日までの5日間はなかなかハードでした。

でもやり切りました。

7月最後の社会科の授業は、「広島・原爆」をしました。

1998年放映の「NHKスペシャル 原爆投下 

10秒の衝撃」と、

2005年放映のドラマ「広島 昭和20年8月6日」

利用した授業でした。

この2番組を保持していなければできない授業。

そんな人はあまりいないでしょうから、

これは稀な授業ですよ。なんてね。

この授業については、また後日書きたいです。

  

今回は広島に関する記事を紹介します。

2020年7月30日朝日新聞夕刊1面の記事です。

 

この写真に驚きました。☟

Epson395a 

記事を引用します。

 

色彩がつなぐ 広島の記憶

  

 戦前から戦時中、戦後にかけて白黒写真を、人工知能

(AI)や関係者への聞き取りによって色づけする。そ

んな取り組みを続けてきた学生と大学教授が、355枚

の写真を一冊の本にまとめた。凍り付いたモノクローム

の記憶を、彩りによって今と地続きにーーー。

その作業を「記憶の解凍」と呼んできた。

  

 寺の山門の奥から、おかっぱ頭で笑顔を向けるワンピース姿の女

の子。そばでは、別の小さな子が何やら足元をのぞき込んでいる。

山門の下のベンチには、腕枕で寝そべった人の姿も。

 この白黒の写真が撮影されたのは、広島市の旧中島本町にかつて

あった慈仙寺。今は、平和記念公園が広がるエリアだ。1936年

8月9日。のんびりしたお盆前の何げない風景が収まっている。

 しかし9年後、このほぼ真上で原爆が炸裂。寺は、臨時の火葬場

になった。

  

 広島市出身で東京大学1年の庭田杏珠(あんじゅ)さん(18)

は今年の3月にこの写真を入手し、6月に1週間かけて色づけをし

た。まずパソコンに取り込み、人工知能を使って色をつけた。山門

下のたるに刺さっているのは、広島のお盆に欠かせない盆灯籠。今

も残る風習なので色は知っている。手動で、黄や紅などの色を載せ

ていった。 

 しかし、山門に下がったちょうちんの模様の色は分からない。寺

の近所に住んでいた浜井徳三さん(86)=広島県廿日市市=に尋

ねると、「年中ぶら下ってたもので、黒っぽかった」と教えてくれ

た。子どもたちの服は分からない。ネットなどで、当時の雰囲気を

調べて色づけした。

 白黒写真だと「過去の人たち」だと感じていたものが、カラー化

すると、まるで今を生きているように感じられた。

「今の私たちと変わらない、普通の暮らしがあったんだ」

(中略)

 彩りがあるだけで、写真の中の人々の息づかいが感じられ、躍動

的になる。白黒で撮られた被写体について、ゆかりの人に尋ねると、

記憶の中の色が呼び覚まされる。そう感じ、この作業を「記憶の解

凍」と名付けた。(後略)

  

  

この写真には驚きました。最近の写真だとおもったら、

84年前の写真でした。

息づかいが感じられました。

今とつながりました。

もうこの場所は、原爆によって失われて存在しないのですよね。

そう思えません。

 

「記憶の解凍」はいい言葉だと思いました。

写真をまとめた本を手に入れたいなあ。

  

その他、記事に載っていた写真です。☟

Epson395b☝ 大正末期の「ひろしま広報」に「片山写真館夕涼み」として 

紹介された写真。後方は広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)

 

Epson395c ☝ 色づけした「片山写真館夕涼み」の写真。電飾された広島県

物産陳列館がきらびやかになった。

  

  

こういう記事に出合えるから、新聞は面白い。

 

またひとつ、道草完了。 

「避けられた戦争」④ 日本は道を誤った

   

今日は令和2年8月2日。

  

前記事に引き続き、

「避けられた戦争 1920年代・日本の選択」

(油井大三郎著/ちくま新書)より引用します。

  

 石橋(湛山/たんざん)は、満蒙の特殊権益を放棄しても、中国

全土で自由な経済活動が可能になればその方がずっと大きな利益に

なると主張しているのであり、それは先の幣原(喜重郎)の主張と

一致するものであった。つまり、ワシントン会議において対中門戸

解放政策の受け入れを主張する人々は、満蒙の特殊権益に固執せず

に、中国全土との貿易を重視した方が日本の利益になると主張して

いたのであった。この論点こそ、後の満州事変が不可避化どうかに

つながる重要な論点であった。

(92p)

  

1921年(大正10年)に石橋湛山が発表した文章によります。

こういう意見もあったのです。でもこの方向に日本は行きませんでした。

   

  

 (1921年)11月12日の(ワシントン会議)開会直前、原

首相が東京駅で暴漢に襲われ、死去したので、日本は強力な司令塔

を失うことになった。

(70p)

  

 原敬内閣では、植民地総督の文武官併用制の採用を進めるととも

に、加藤友三郎海相のワシントン会議出席中に原首相が海相事務管

理を担当することで、軍部への文民統制への手がかりをつけようと

したが、その直後に原首相は東京駅で刺殺された。

(94p)

  

原敬首相が刺殺された場所は、見に行っています。

ここでも道草 東京駅開業100年9/原敬遭難場所(2015年2月7日投稿)

原首相が為そうとしていたことは、

ワシントン会議での軍縮のリーダーシップ。

そして軍部への文民統制だったようです。

そのような志なかばでの死。

100年前はそんなことが起こりえる時代だったのですね。

   

  

 英米は、1927年から28年にかけて、中国を代表する政権は

国民党政権になると予想し、彼らが強く要求する不平等条約の改正

に応じるとともに、英国の一部の租界(漢口や九江)の返還にまで

踏み込むことによって、中国と関係改善を図っていったのであった。

それに対して、田中(義一)政権は、満蒙権益の死守ばかりに眼を

奪われて、1年後には実現することになる国民党政権による中国統

一を見越した政策転換には踏み切れなかったのであった。

(206p)

   

政治の難しさだと思います。

ここでの判断が、後の時代から見て「なぜ国民党政権による統一を

予想できなかったのだ」と言われてしまいます。

日本は道を誤りました。

  

 反米感情は、米国が1924年に日系人を差別する移民法を制定

して以来、急上昇していたが、その後は対米貿易の重要性などの認

識が広まり、比較的沈静化していた。しかし、1920年代末にな

ると、米国が中国の国権回復運動に応じて、不平等条約改正に踏み

切り、満蒙の利権に固執する日本をしばしば批判するようになると、

反中感情が反米感情に連動するようになった。その典型が、池崎忠

孝が1929年9月に出した『米国怖るるに足らず』という本がベ

ストセラーになったことであった。

(252p) 

 この本では、日米戦争は、日露戦争のような二国間戦争で戦われ

ると想定され、戦闘で優勢になったところで有利な条件で講和を結

ぶという想定になっていた。しかし、実際の日米戦争は、連合国対

枢軸国の総力戦として展開され、日本は「無条件降伏」を余儀なく

されたのである。つまり、池崎は、総力戦下の世界戦争時代の到来

に無自覚であった。

(253p) 

  

教訓にすべきだと思います。

過去に誤った日本は、再び戦争をしないためにはどう動くべきか。

この本を読んで、戦争は避けられた可能性があることを知って、

そう思うようになりました。

  

  

以上で、「避けられた戦争 1920年代・日本の選択」

からの引用を終えます。

この本を読んだら、以前に録画して見てない番組を

見たくなりました。

2011年放映の「NHKスペシャル」の

「日本人はなぜ戦争へと向かったか」です。

3回に分けて放送されました。

今の知識なら、この番組が理解出来そうです。

「避けられた戦争」③ ウィルソンの思い 国際連盟

   

今日は令和2年8月2日。

  

前記事に引き続き、

「避けられた戦争 1920年代・日本の選択」

(油井大三郎著/ちくま新書)より引用します。

  

  

 ウィルソンは、南北戦争で大きな被害を受けた南部の出身者で、

身近に多くの戦争犠牲者がいた。南北戦争は内戦であり、親族や友

人が南北に分かれて戦った悲惨な戦争であった。戦死者が米国史上

最大の62万人にも達しただけに、米国国民の間では二度と繰り返

してはいけない戦争として語り継がれている。そのような南北戦争

を少年時代に目撃したウィルソンは、国際仲裁裁判所の設置などに

よって紛争を平和的に処理することを要求する米国平和協会に19

08年以来所属していた。(中略)第一次世界大戦の体験は、ウィ

ルソンに一層戦争の悲惨さを実感させたのであり、戦後世界に平和

を実現する中核として国際連盟の設立を構想したのであった。

(31p)

  

ウィルソンアメリカ大統領には、このような体験があったのですね。

政治家もこのような純粋な思いをもつのだと、

最近の政治家の行動に辟易していたので、

驚きでした。

大事な時にウイルソンは、

インフルエンザに罹患してしまい、

ドイツへの対応がおざなりになってしまい、

ドイツは多くの賠償金を支払うことになってしまいます。

(磯田道史さんが以前番組で語っていました)

そのことが、第二次世界大戦につながります。

ウィルソンの思いが実現しなくて残念です。

  

 結局、ヴェルサイユ条約は、1919年6月、約半年の交渉の末

に調印された。ウィルソンの悲願であった国際連盟規約が承認され

たことは新外交の勝利だったが、同時に、ドイツだけに戦争責任が

課せられ、様々な軍備制限や賞金ではなく、賠償と名を変えて「天

文学的な賠償金」がドイツに課されたのは、明らかに旧外交の継続

であった。つまり、実際の講和条約は、ウィルソンが新外交を提唱

したにもかかわらず、英仏日が旧外交にこだわったため、新外交と

旧外交の並存という結果になった。

(41p)  

  

  

このドイツから、ヒトラーが誕生します。

  

  

 ヴェルサイユ講和会議において日本が山東問題で米国から厳しく

批判されたり、日本が提案した人種平等条項が否決されたとの報道

が流れると、日本国内では日米開戦を唱道する小説や研究書が出版

され、よく売れる現象が発生した。中でも樋口麗陽(れいよう)が

1920年に刊行した『小説日米戦争未来記』では、移民問題と「

シナ問題」の対立から20世紀末に日米が開戦に至るという筋書き

を小説仕立てで書いていた。

(51p) 

  

この後、この小説のあらすじが紹介されていますが、省略。

日米の争いは他の国も巻き込んで第二次世界大戦となります。

日本は劣勢になりますが、ある博士の発明により挽回。

中立国の斡旋で講和が実現し、戦争は終結します。

  

 フィクションとして書かれたにせよ、日米開戦を予言する本が

1920年という早い時点の日本でベストセラーになったことの

意味を考える必要がある。それは、当時の多くの日本人にとって

は、第一次世界大戦の体験が、二度と繰り返してはならない悲劇

の体験としてより、戦勝で獲得した利権を奪われた悔しい体験と

して受け止められていたことを意味しているのだろう。

(54p)

  

100年前の大衆の思いを想像します。

日中戦争と太平洋戦争で多大な犠牲者を出したことを

知っている身としては、戦争をやらない方向に行ってほしいと

思いますが、当時の大衆はそうは思わなかったのでしょう。

難しいです。

この本でも、戦争をすることは愚かなこと、

満州の権益は手放した方がよいと考えていた人たちも

紹介されていますが、日本は戦争に向かってしまいます。

「避けられた戦争」② 2022年からの「歴史総合」で、両大戦間期がどう書かれるか

  

今日は令和2年8月2日。

  

前記事に引き続き、

「避けられた戦争 1920年代・日本の選択」

(油井大三郎著/ちくま新書)より引用します。

  

 他の教科書でも世界史と日本史の教科書の間には同様のギャップ

がみられる。つまり、日本史の場合、第一次世界大戦で獲得した山

東半島などの利権がパリ講和会議で返還を迫られたことへの反発か

ら、右翼的な対外膨張思想が誕生したという基調で書かれているの

であり、軍事力で領土や市場の拡大を図る「旧外交」を当然視する

論調がうかがえる。

 それに対して、世界史の場合は、史上初の総力戦が戦われる中、

膨大な犠牲者を出した反省から戦争によらないで紛争を解決する方

途の開拓から国際連盟の創設や民族自決権の承認による国民国家の

創設という「新外交」への転換が図られた点が強調されているので

ある。簡単にいえば、日本史では「旧外交」の継続性が強調されて

いるのに対して、世界史では「新外交」への転換が重視されている

のである。

 このようなギャップが発生する背景には、第一次世界大戦の受け

止め方に関して日本と世界の間に大きな差が存在しており、それが

戦後体制のあり方の認識にも及んでいると思われる。この点は、歴

史教育の問題だけでなく、両大戦期に関する歴史研究における国際

関係史と日本史の間のギャップとなっている点は今後、本論で詳し

く検討したいと考えている。

 2022年から高校の歴史教育では、近現代史の世界史と日本史

を統合した「歴史総合」という科目が新設され、必修教科となるだ

けに、今後、世界史と日本史におけるギャップを研究面だけでなく、

教育面でも縮小する努力が益々必要になるだろう。

(20~21p)

  

高校の世界史と日本史で、「旧外交」側の考えと

「新外交」側の考えに別れていたなんて、初めて知りました。

というか、「旧外交」「新外交」という視点をもったことが、

私には最近でした。

ここでも道草 「大人のための昭和史入門」/第一次世界大戦は「国家総力戦」だった。しかし日本は・・・(2020年6月30日投稿)

  

以上の引用した文章は「プロローグ」に書かれていたものでした。

著者は、「あとがき」でも「歴史総合」について書いています。

この本を書いた契機のひとつとして。

  

 もう一つの契機として、2006年秋に、高校の必修科目である

世界史を他の科目で代替する「世界史未履修問題」の発覚があった。

この問題の背景には、憶える用語の多い世界史を生徒たちが敬遠す

る傾向があると知り、日本学術会議などの場で、他の先生方ととも

に、解決策として、世界史と日本史を統合する新科目の設定を提案

した。また、高校と大学で歴史教育に携わる先生方とともに、20

15年に高大連携歴史教育研究会の結成に関わり、新科目の在り方

などを検討してきた。幸い、2022年から必修として近現代史の

世界史と日本史を統合した新科目「歴史総合」が必修科目として開

設されることとなり、新科目に向けた議論が一層、加速してきた。

世界史と日本史との統合には色々困難な面があるが、両大戦間期も

その代表例であり、私としては、歴史教育の面からも本書を書く必

要があると感じた。

(308~309p)

   

「世界史未履修問題」について調べ、次の12pの論文を読みました。

「世界史未履修問題」を考える/鳥越泰彦

なぜ「世界史」に限らず地理歴史が

未履修になったのか考えています。

受験科目にないからという理由だけでなく、

「世界史」の教える内容に魅力がないからではないか。

学ぶ意欲の出る内容にすべきと書いています。

  

  

2022年の「歴史総合」に期待したいです。

学生の学ぶ意欲にも配慮した新科目と予想されます。

教科書を手に入れてその工夫を見てみたいし、

両大戦間期の記述がどうなったのか見てみたいです。

  

以前勉強したこととつながります。

ここでも道草 2022年から高校の歴史が変わる1.歴史総合(2018年7月8日投稿)

「避けられた戦争」① 1918年~1933年の年表

  

今日は令和2年8月2日。

  

この本を読みました。

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「避けられた戦争 1920年代・日本の選択」

(油井大三郎著/ちくま新書)

  

ちょうど100年前、1920年代の歴史を

詳しく知ることができました。

関係年表を作成してみようと思います。

  

1918年(大正7年)

シベリア出兵(~1922年)

第一次世界大戦終結

パリ講和会議

  

1919年(大正8年)

ヴェルサイユ条約

中華民国で中国国民党を結成

  

1920年(大正9年)

国際連盟発足

尼港事件(にこうじけん)参考:ここでも道草 「尼港事件」(2018年9月11日投稿)

  

1921年(大正10年)

中華民国で中国共産党を結成

ワシントン会議 ワシントン海軍軍縮条約

原敬暗殺事件

  

1922年(大正11年)

ソビエト社会主義共和国連邦成立

  

1923年(大正12年)

関東大震災

  

1925年(大正14年)

日ソ基本条約

  

1926年(大正15年/昭和元年)

蒋介石率いる中国国民党(国民革命軍)が北伐を開始
 
昭和天皇即位
  
   
1927年(昭和2年)
 
昭和金融恐慌
  
 
1928年(昭和3年)
 
済南事件(さいなんじけん)
  張作霖爆殺事件
 
不戦条約
  
蒋介石率いる国民革命軍が北京政府を倒し中国を統一
  
  
 
1929年(昭和4年)
  
世界恐慌
  
  
  
1930年(昭和5年)
 
昭和恐慌
  
ロンドン海軍軍縮会議
 
浜口雄幸が狙撃され重傷
  
  
  
1931年(昭和6年)
 
満州事変 柳条湖事件
  
  
  
1932年(昭和7年)
  
満州国樹立
  
国際連盟のリットン調査団が満州事変、満州国を調査する 
 
五・一五事件 犬養毅暗殺される
  
  
  
1933年(昭和8年)
  
日本、国際連盟を脱退
  
 
  
  
私の父親が生まれたのは昭和6年。
  
満州事変が起きた年。
 
日中戦争・太平洋戦争と続く15年戦争の始まった年なのですね。
  
次回から引用していきます。
 

  

2020年8月 1日 (土)

「時(とき)」の疑問 解決篇

  

今日は令和2年8月1日。

  

前記事の続きです。

 

「時(とき)」に関する疑問。

なぜ十二時が「九つ」なのか?

なぜ「九つ、八つ、七つ・・・」と数が減っていくのか?

なぜ「四つ」という中途半端なのか?

  

調べました。

ここが参考になりました。

Yahoo!知恵袋 江戸時代の、時と暦。 なぜ四つから九つまでだけですか・・

  

引用します。

  

問い:江戸時代の、時と暦。なぜ四つから九つまでだけですか。

 

回答: 細かいようですが……。

   >四つから九つまでだけですか。

   “九つ”を起点として、“九つから四つまで”です。

   増えるのではなくて、一つずつ減っていきます。

   日の出から日の入りまで(昼)を六等分、

   日の入りから日の出まで(夜)を六等分します。

   おっしゃるとおり、季節で昼夜の長さが変わるので

   「一刻の長さ」は変化します。『不定時法』ですね。

   暁九つ、暁八つ、暁七つ、明け六つ、朝五つ、朝四つ、

   昼九つ、昼八つ、昼七つ、暮れ六つ、夜五つ、夜四つ

   ……になります。

   昼は明け六つに始まり、夜は暮六つに始まります

  『お八つ(八つ時)』などの語源はこの方法になります。

   また、落語の「ときうどん」や「ときそば」のオチに

   絡んでくるのもこれですね。

  「九は最大の陽の数(縁起の良い数字)なので、

   これを基準とした」という説を読んだことがあります。

   一見すると“数が減っている”ように見えますが、

   陰陽道に照らすと“数が増えている”のだそうです。

   実際には「9の倍数」を示しているのだそうですが、

   そのままだと時を知らせる為の鐘を叩くのが大変なので、

   省略して一の位の数字だけを打ったのだ……

   ということらしいです。

   つまり、「9×1=9:九つ」、「9×2=18:八つ」、

  「9×3=27:七つ」、「9×4=36:六つ」、

  「9×5=45:五つ」、「9×6=54:四つ」ということです。

   鐘を叩く際に「これから時を知らせる」ことを気付かせる為に、

   まず「捨鐘」を打ったのだそうです。

   捨鐘は3回打つのだそうで、これと区別する意味も

   あったのかもしれません。

   捨鐘と、“時を知らせる鐘”とでは叩き方(叩く長さ)を変えて、

   聞いた人が区別できるようにしていたとの事でした。

   昼を六等分、夜を六等分しますので、

   一日は十二に分けられます。

  (夜については五等分する方法もあるようです)

   これに干支を当てはめた表現もあり、更に一刻を四等分したり、

   三等分したりもしたようです。 

  『正午』や『丑の刻(丑三つ時)』などの語源は

   これらの方法になります。

   現在の感覚でいくと「○時」というのは

   一瞬の“時刻”を意味しますが、

   かつての場合は“時間帯”のことを示していたようです。

   ですから、ひとくちに「七つ」や「羊の刻」と言っても、

   約2時間程度の“幅、遊び”があったということだそうです。

   また、『定時法』がなかった訳ではなく、

   知識や時計などを用いることができる場(“天文方”等の公的な場)

   では用いられていたそうです。


   私の説明はつたないので、ウィキペディアもご覧ください(^_^;)

   ウィキペディア【時刻】
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%88%BB


  「暦」については四つや九つと言った表現は見た事がないのですが……。

   私が知らないだけかもしれませんが、

   これは「時」についてだけではないでしょうか? 

   

  

解決しました。

私の予想は外れました。

9の倍数が起源だったとは!

想像をはるかに超えた事実(説)でした。

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