道草の扉がまた開いた・・・「三笠の沈没・浮揚」「尼港事件」
今日は9月11日。
また道草の扉が開かれた?
今日、9月11日の「今日は何の日」を調べ始めました。
授業で使うためです。
いつもの「今日は何の日~毎日が記念日~」で調べました。
「警察相談の日」「公衆電話の日」でした。
う~ん、「公衆電話の日」は使えるなと思って、
さらにスクロールして、他のところを見てみました。
「歴史」コーナーを見ました。
過去の9月11日に起こった歴史的な出来事が書かれています。
何気なく見ていて、目がとまったのは1905年。
「今日は何の日~毎日が記念日~」の写真です。
「1905年戦鑑「三笠」が佐世保港内で弾薬庫の爆発事故により沈没。
339人が死亡。」
なにい!そんなことがあったの?
沈没したの?
でもおかしいぞ。現在「三笠」は横須賀港に、
記念艦として保存されています。
実際にストリートビューで、船内まで探索できます。
「三笠」と言えば、日露戦争の日本海海戦で、
バルチック艦隊を打ち破った連合艦隊の旗艦として有名。
その時に「三笠」に乗って艦隊を指揮していたのが、
東郷平八郎連合艦隊司令長官でした。
「三笠」が保存されている理由は、
やはりこの日露戦争での活躍だと思います。
実際、「世界三大記念艦『三笠』HP」の「キッズページ」の説明には、
次のように書いてありました。
三笠ってどんな船?
明治35年(1902年)、日本海軍が
イギリスに注文して造った戦艦です。
明治37年~明治38年の日露戦争において、
ロシアは遠くヨーロッパのバルト海から
大艦隊(バルチック艦隊)を派遣しましたが、
明治38年5月27日、東郷平八郎司令長官(とうごうへいはちろうしれいちょうかん)
ひきいる連合艦隊が、これを対馬沖に迎え撃ち、
大海戦(日本海海戦)が行われました。
「三笠」は連合艦隊の旗艦として、つねに先頭に立って勇敢に戦い、
歴史上例を見ない圧倒的な勝利に大きく貢献しました。
この大勝利により戦争を止めようと言う話し合いが進み、
同年9月にアメリカ大統領の仲介で、
ポーツマスにおいて日露講和条約が結ばれました。
現在横須賀にある戦艦が、1905年9月11日に沈没していました。
沈没した戦艦が、なぜ横須賀にあるんだ?
もう好奇心のアンテナがビンビン反応しました。
Wikipedia 三笠(戦艦)を見ました。
沈没した後のことが書いてありました。
(1905年)10月23日の海軍凱旋式は
戦艦敷島が三笠に代わって旗艦となった。
三笠は予備艦とされ、1906年(明治39年)8月8日浮揚、
佐世保工廠で修理され1908年(明治41年)4月24日
第1艦隊旗艦として現役に戻った。
「浮揚」の文字を大きくしてしまいました。
沈没した戦艦を、浮揚させたのですね。
【浮揚】=浮かび上がらせること
そして1908年に復活していました。
ビックリです。
Wikipediaを読んでいて、さらにビックリしたのは、
復活した「三笠」に起こった出来事です。
1920年のこと。
1920年の尼港(にこう)事件の際は砕氷艦見島と
ニコラエフスクに救援に向かったが
堅氷に阻まれ入港できなかった。
このため約700名の日本人と数千名のロシア人は
救助されることなく赤軍パルチザンに惨殺された。
「尼港事件」とは何だ?
こんな虐殺事件のことを私は知りませんでした。
「三笠」が入港できなかったために、
多くの人名が失われた?
「赤軍パルチザン」とはどんな人たちなんだ?
なぜ、歴史の教科書に載っていなかったのだろう。
とんでもない出来事だと思う。
ニコラエフスクとは、ロシアにある都市名。
現在はニコラエフスク・ナ・アムーレ。
漢字では「尼港」と表記されます。
Yahoo地図で表します。
「三笠」が関わった「尼港事件」に興味をもちました。
いずれ調べたいです。
そしてWikipediaを読むと、戦艦「三笠」はその後紆余曲折して、
記念艦「三笠」となり、今に至っていることがわかりました。
今回、偶然にも「三笠」が、
339人の犠牲を払って一度は沈没した戦艦だったことを知りました。
バルチック艦隊を迎えたときでも、
「三笠」では113名の死傷者を出しています。
そんな船であることを踏まえて、
心して記念艦「三笠」にいつか乗船したいです。
次のサイトでも、沈没のことが勉強できました。↓
※知っていましたか?近代日本のこんな歴史 連合艦隊旗艦「三笠」 ~沈没とその後~
このサイトに載っていた写真です。
そして「尼港事件」
この事件についても知りたい。
道草の扉はまたまた開かれました。
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