「目くじら社会の人間関係」② 「他人は他人、自分は自分」が苦手な日本人
今日は令和2年7月4日。
前日の記事に引き続き、
「目くじら社会の人間関係」(佐藤直樹著/講談社+α新書)
から引用していきます。
さらに「世間」では、前にも説明したように、「みんな同じ」と
いう「人間平等主義」のルールと、「身分制」という上下関係のル
ールとの間に「ねじれ」がある。つまり、「みんな同じ」と心のな
かでは思っているのだが、厳然と「身分」という上下関係の序列が
存在するという現実の間の矛盾である。そのために、強い「ねたみ」
意識が生まれる。
実は、この強固で執拗な「ねたみ」意識は、日本独特のものであ
る。
(58p)
最後の一文が印象に残りました。
「ねたみ」に関する文章を他にも引用してみます。
この強い「ねたみ」意識は、「世間」の人々の日常的な相互監視
に結びついている。「世間」を騒がすような事件や不祥事が起きた
ときに、その報道を見て、自分にはとりあえず何の関係もないのに、
「迷惑をかけられた」と思い込み、わざわざ行政にチクったり、職
場に抗議電話をかけたり、ネットで叩いたりする人間がかなりいる。
「世間」には、お節介な人が多すぎるのである。
私が徹頭徹尾、卑怯だと思うのは、こうした人々のほとんどが匿
名であることだ。「世間」のウチは「顔見知り」の実名の世界だが、
そのソトは「赤の他人」や「ヨソ者」の匿名の世界である。
いったん匿名の世界に入ると、日本人は「旅の恥はかき捨て」状
態となり、「世間」のウチでは考えられないほど傍若無人にふるま
う。日本人は、この意味で「世間」のウチとソトで二重人格者にな
る。ネット上での特定個人への匿名のバッシングで、聞くに堪えな
いような言葉があふれるのは、そのせいである。
(69p)
日本の宝くじの高額当選者は、場合によっては「身内」にも、当
選したことを明かさない。明らかになったとたんに、「なんであい
つだけが」と考える「世間」からのねたみを受けるからだ。
明かしたとたんに、「奢れよ」くらいは当然のこととして、返す
つもりのない借金を申し込まれるだろう。ねたまれるのはメンド―
だから、本人もなかなか断りきれない。そうなることが火を見るよ
り明らかだから、当選したことがゼッタイに明かさないのだ。
こうなるのは、「人間平等主義」があるために、「世間」の人々
は高額当選者に対して「不平等」だと考えるからである。
(中略)
これがアメリカだと、ニコニコ顔の宝くじの高額当選者が堂々、
実名と顔出しでメディアの取材に応じているのはよく見る。
(中略)
これは、アメリカ社会には、少なくとも宝くじの高額当選者に対
する「ねたみ」意識は存在しないことを意味している。理由は明確。
「他人は他人。自分は自分」と思っているからだ。
つまり、アメリカの人間関係は社会から構成されていて、日本に
あるような「人間平等主義」や「身分制」というルールを持つ「世
間」が存在しないのである。
(106~107p)
「身分制」について書かれている文章をもう一つ引用します。
「世間」のなかに、年上・年下、先輩・後輩、格上・格下など、
無数の上下関係のルールがあるということ。日本人は、自分が存
在するその場その場の状況に応じて、この上下関係のどこに自分
が属しているかを常に意識している。
(中略)
では、西欧社会にはこうした「身分制」は存在しないのか?
たとえば、英語の一人称と二人称の単数形はIとYOUだけで
ある。(中略)だが、日本語の一人称、二人称は、「俺」「私」
「あちき」「我が輩」「あなた」「君」「てめえ」「お前」など、
数限りなくある。
これらの言葉は一つ一つニュアンスが異なる。つまり上下関係
を前提としている。日本でこれらの使い分けをしなければならな
いのは、その都度形成される人的関係において、相手がどんな「
身分」なのかで言葉遣いを変える必要があるからである。
(31~32p)
たくさん引用しましたが、
結局「他人は他人、自分は自分」という発想が日本人には苦手。
目立たないように「みんなと一緒」になることに気を使い、
それなのに現実には上下関係のどの位置に
自分がいるか意識しなくてはなりません。平等ではないのです。
厄介な暗黙のルールです。
そんなしがらみの中で、自分よりも出世する人を見たり、
宝くじを当てた人を知ったり、きれいな奥さんをもらったりると、
「他人は他人、自分は自分」とは思えずに、
「ねたみ」の感情が出てしまうのでしょう。
昨日も書きましたが、日本は生き辛い国に思えてきました。
つづく
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