「目くじら社会の人間関係」④ 「いろいろな人がいてもよい」
今日は令和2年7月5日。
前記事に引き続き、
「目くじら社会の人間関係」(佐藤直樹著/講談社+α新書)
から引用していきます。
もともと「世間」は1000年以上の歴史を持つが、そこでは行
動の基準として、西欧にあるような神に対する「罪」の意識は希薄
で、「世間」に対する「恥」の意識のほうがきわめて強い。
すなわち、「世間」には「呪術(じゅじゅつ)性」のルールがあ
り、そこでの原理は多神教であるが、神が数限りなくいるために、
一つの神が行動の基準となることはない。そのために「世間」への
「恥」の意識が行動の基準となる。
(65~66p)
「恥」というのは、確かに行動の基準の
一つになってきたと思います。
こうやって分析する人がいるのですね。
う~ん、結露を急ぎます。
ニッポンが「目くじら社会」になったのは、近代に新たに生成さ
れた「きびしい世間」が、1990年代末になって復活・強化され
たためである。とすれば、この「目くじら社会」に対抗しうる原理
は、近代以前にあった「渡る世間に鬼はなし」であろう。
生き心地がよく、風通しのよい「やさしい世間」の復権。これが
喫緊の課題である。
最後に本書の結論として、そのために一人一人ができることを、
箇条書きにまとめておこう。
①「いろんな人がいてもよい」と考える。「みんな同じ」とは考え
ず、個人を生かすということである。
②「なんであいつだけが」と考えない。他人との身分差をねたまず
に、「他人は他人。自分は自分」と考えるということである。
③「つき合い残業」をやめよう。職場で「共感過剰シンドローム」
に陥って、過労死しないようにということである。
④「お返し」はほどほどに。お中元・お歳暮、香典返し、返信メー
ルなど、お互いに過剰な心理的負担にならないようにということで
ある。
⑤あまり「聖地」とか「前世」とか「パワー・スポット」にこだわ
らない。こだわらなくとも、不幸になったり、世の終わりが来たり
はしないということである。
⑥「いえ」意識にとらわれない。「いえ」は差別の根源であるし、
子どもに対する「親の責任」をあまり過剰に考えるなということで
ある。
(202~203p)
特に①②はしっかり頭に置いておきたい。
いろいろな人がいるのがあたりまえだということ。
ねたんでいるようなときは正常な状態ではないこと。
以上で「目くじら社会の人間関係」からの引用を終えます。
次の本を読み始めます。
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