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2019年11月

2019年11月16日 (土)

教育先進国と日本の違い②競争か自己目標達成か

  

今日は令和元年11月16日。

  

前投稿に続いて

11月14日放映の「羽鳥慎一モーニングショー」より。

 

玉川徹さんと玉川大学大学院田坂広志名誉教授との対談です。

    

田川:では2つ目というのは何ですか?

田坂:2つ目はですね、競争か自己目標かという大きな

  分かれ道ですね。

Rimg2191   

  日本という国はとにかく競争させれば学力は上がるんだと思っている

  わけです。ところがOECDの研究結果でも出てるんですけれども、

  競争を高めたからといって、必ずしも学生、生徒全体の学力は

  上がらないという結果が出ているんですね。

玉川:上がらないんですか?

田坂:上がらない。 

  競争を激しくすれば、全体の学力が上がるというのは幻想です。

Rimg2192   

ここでスウェーデンの事例が紹介されます。

Rimg2193

Rimg2194  

1991年~1994年の5年間、スウェーデンでは、教育現場に

競争原理を採用しました。その結果、総合読解力などの学力が

低下したという説明でした。

ただ、競争原理を採用した学年、到達度調査をした学年が明示されて

いません。因果関係があるのかはこの2つのグラフからは不明だと

思います。

  

田坂:もちろん競争を徹底的にやると、ごく一部の勝ち組といわれる

  人たちは、学力が上がりますよ。学力が上がるから勝ち組になれる

  わけですけれども。ところが一方で、この競争ばかりを

  激しくやると、そこから勝ち残れなかった人たちは、

  自己肯定感が無くなるんですね。

田川:もう負け組になってしまったら、俺はもうダメだと思って

  しまうという。

田坂:したがって、学習意欲もなくなるし、自分の中に眠っている

  素晴らしい可能性を開花しようとする気持ちもなくなる。

  そういう意味では競争を激しくすれば、全体の学力が上がるのは

  幻想です。

田川:勉強が嫌いではなかったという人たちに、何か共通点があるのか

  というのは自分なりに調べたんですね。そしたら小さい頃から

  何か学びのタネがあったりして、そういうものを親が、

  ちゃんと見つけてあげて、そこで学びがあると褒めてあげるという

  ふうなことを繰り返すと、成功体験になって自己肯定感が生まれる

  んですね。勉強は楽しいものなんだと思えるようになる。そうなると

  勝手に自分で勉強する軌道に入っていけるんですね。

Rimg2195

田坂:そうですね。負け組みたいな構造を作るのではなくて、誰もが

  自分の目標を持ってそこに向かって成長していけるという文化に

  戻ってくるべきだと思うんですね。  

 

ここでナレーションが入りました。

Rimg2196

Rimg2197  

自己目標の達成を目指す教育では、生徒に合わせた指導が必要になります。

田坂氏は、そのためには教師のレベルの高さが重要になると

指摘しています。

   

田坂:教育先進国というのは、例えばフィンランドの場合でいえば、

  教師になるためには、修士の資格が必要なんですね。しかも、

  教育哲学や教育思想からもしっかりと学んで、いわば教育の

  プロとして社会に出るわけですね。それがゆえに逆に国民から

  見れば、教育、教師というのは尊敬される職業であり、

田川:なるほど。

田坂:若者から見ると、やっぱり自分もなってみたい職業なんですね。

田川:憧れの職業。

田坂:憧れの職業。何年か前にフィンランドでは、600人の教師の

  募集に対して、6000人が応募したというくらい非常に

  人気があるわけです。日本も教育というものが、もともと

  非常に大切な仕事ですし、それに携わる方々がもっと本当に

  子どもたちもしくは生徒、学生の教育に時間がさける、

  自身の教育者としての能力も高めていけるような仕組みを

  作らないと、やはり先進国にはかなわないと思います。 

  

ここでグラフが提示されました。 

Rimg2210  

雑務に追われて、生徒指導の時間を十分にとれない教師。

ブラック企業のイメージがあり、採用試験の競争率は低下の一途です。

  

  

教育先進国と日本との違いの3つ目は、次の記事で書きます。

2019年11月15日 (金)

教育先進国と日本の違い①負担は家庭か国か

  

今日は令和元年11月15日。

  

昨日、11月14日放映の「羽鳥慎一モーニングショー」で、

教育に関する対談があり、それがとてもよかったです。

玉川徹さんと玉川大学大学院田坂広志名誉教授との対談です。

聞き書きします。

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Rimg2185_2

玉川:教育に関して日本が先進国と言えるのかどうか。

  率直に日本は教育に関して先進国ですか?

田坂:いやあ、先進国とは残念ながら言えないですね。

  さらに大きな変化が、社会全体にやってくる。

  さらに教育先進国ですら、また新たなチャレンジを

  しなければいけない時代になっているにもかかわらず、

  日本はまだ1周目遅れを追いつこうとしている状態

  なんですね。さらに2周遅れになりそうな状態だと

  いうことが気になるんです。

玉川:新しい時代とはどういう時代が来るんですか?

田坂:人工知能のいわゆる革命が始まっているわけですよね。

  これから人工知能革命、もう少し大きくいうと第4次

  産業革命というのがやってくると、教育の根本的な目標が

  変わってくると、人間として持ちうる能力の極めて高度な

  能力じゃないとこれからの人材、本当に社会に貢献できると

  言えないということまで、危機感を持っているわけですね。 

   

ここでグラフが示されました。

Rimg2187_2  

日本の場合、イギリス・アメリカよりも、人工知能やロボット等による

代替え可能性が高い労働人口の割合が多いです。

  

田坂:日本の教育というのは、単に遅れているというよりも、

  また新たな大きな変化に向かっての相当な改革をしないと、

  極めて厳しい時代がくると思います。

玉川:いわゆる教育先進国といわれる国は、そういうことは

  分っているんですか。

田坂:分かっていますね。私、ダボス会議、世界経済フォーラムの

  メンバーでもあったんですけれども、何年もこのテーマで議論

  してきて、OECDの参加国も当然参加しています。

  いわゆる教育先進国の識者もみんな集まっています。

玉川:例えばどこなんですかね、教育先進国とは?

田坂:例えばフィンランド、スウェーデン、ノルウェーなど、

  北欧諸国の教育というのは、私は非常に参考にすべきだ

  と思います。

玉川:教育先進国といわれる国は、日本と何が違うんですか?

田坂:私は3つだと思います。

玉川:3つの違い。

田坂:まず1番目。家庭か国かという根本的な違いがあるんですね。

Rimg2186_2  

  教育にかかわるお金をいったい誰が負担するんだと、言葉を

  変えれば、子どもたちの学力というものを、しっかりと

  ある水準まで高めてあげるというのは、誰の責任なんだと。

  この部分が根本的に違うんですね。

玉川:違うんですか?

田坂:違うんです。例えば北欧などでは、子どもの教育は大学卒業

  まで無償ですよね。でも日本の場合にはご存知のように、

  家庭が貧しいとそれだけの理由で大学に行けない。

  それぞれの家庭の経済的な事情に合わせた教育を受けさせたら

  どうですか、という文化が存在しているわけですよね。

玉川:だって、現職の文部科学大臣が「身の丈に合った勉強を

  すればいい」というようなことを言ってしまう国ですからね。

田坂:そうですね。教育にかかるお金というのは、いったい家庭が

  負担するのか、国が負担するのかという一点で、根本的な考え方を

  変えなければいけない。

   

ここで次のグラフが提示されました。

Rimg2190_2  

日本では高い教育を受けようとすれば、負担が大きくなります。

  

田坂:北欧はご存知のように、最初から国民の教育水準の高さこそが、

  国の戦略だと思っているんですね。だからそういう意味では、

  国民の中でごく一握りのエリートだけが育てばいいという

  考え方はしていないんですね。国民全体が非常に優れた

  学力を持つ、人間としての能力を持つことが、この国の未来を開く

  と思っています。

田川:では2つ目というのは何ですか?

  

  

2つ目は次の記事にします。

 

氷ノ山初冠雪のニュース

今日は令和元年11月15日。

  

「氷ノ山 初冠雪」のニュースを見て、

思いは、あっという間に2013年1月に飛んでしまいました。

Photo Yahoo!ニュース 氷ノ山など初冠雪

    

「氷ノ山」と書いて「こおりのやま」と読みたくなるけど、

違いますよ。とっても格好のいい名前なんです。

「ひょうのせん」です。

この名前に憧れて、2013年に登ってきました。

登るなら雪のある時と決めていました。

何と言っても「氷ノ山」ですから。

「氷」ですから、他の季節は似合いません。

  

記事にしてます。

こういう時に読み直します。

ここでも道草 氷ノ山登山前夜(2013年1月21日投稿)

ここでも道草 1月13日の氷ノ山1/3(2013年1月21日投稿)

※ここでも道草 1月13日の氷ノ山2/3(2013年1月21日投稿)

ここでも道草 1月13日の氷ノ山3/3(2013年1月21日投稿)

ここでも道草 氷ノ山登頂証(2013年1月21日投稿)

  

この時はドキドキでした。

氷ノ山に初めて登るのが冬で、

1人で登ったので緊張してました。

前泊した宿で、情報を仕入れたことを思い出しました。

頂上付近は広く平らで、雪を楽しんで歩いたことも思い出しました。

その時の1枚。☟

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いいなあ、ブログ。

すぐに記事にたどりついて、読み返すことができます。

「面白いことやっているじゃん」と、

自分の人生をささやかに見直しました。

2019年11月14日 (木)

「函館の大火」⑨/大火の記録 映像

 

今日は令和元年11月14日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

映像も重要な役割をはたした。火災の現場で撮影されていた

のである。それは当時の新聞、北海タイムスに勤め、

社命により大火当夜札幌から函館までノンストップで

かけつけた救援列車に便乗していた近澤美智雄、木俣実樹雄に

よって撮影された。大火後映像は最初に函館で公開されたが、

その後はどの程度一般に公開されたのか、ニュース映画に

なったのか等明らかではない。北海タイムスの販売店を巡回して

上映されたことは分っている。現在でもネットで

「函館の大火」と検索すれば、その一部を見ることができる

(上映時間は3分20秒)。しかし、それまでである。

(226p)

 

函館の大火 昭和九年の都市災害」が発刊されたのは2016年。

現在(2019年)もその動画は、ネットで見ることができました。


YouTube: 昭和9年函館大火の記録映像 1934年3月21日

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それから45年後、昭和54(1979)年3月21日に

UHB(北海道文化放送)のテレビ番組(特番「ドキュメント

函館大火」)で、その映像フィルムが再生され、放映された。

それは大反響をよび、大火の記憶が改めてよびさまされたのであった。

(226p)

  

ここがじれったいです。

大火から45年後にテレビ放映されたけど、

残念ながらその番組を私は見ていません。

見たいと思っても、ネットで一部を見ることができるところまで。

北海道文化放送にお願いしたら、見ることができるかと言えば、

きっと難しい。40年前ですしね。

もっとテレビ番組をオープンにしてほしい。

以上で、函館の大火 昭和九年の都市災害」からの

引用は終了。

この本は、我が家の本棚に入れます。

「函館の大火」⑧/大火の記録 短歌 絵ハガキ

  

今日は令和元年11月14日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

「終章 大火の記憶」の章では、

大火の記録がさまざまな形で残されていることを

紹介していました。

 

たとえば、先にもいくつか紹介しましたが、

ここでも一句。

 

すがられて知らぬ子なれど手を引きっ

       逃げゆく方も炎となりぬ

            今井キヨ 

  

逃げている時の状況のわかる句です。

印象に残りました。

  

絵よりも早く正確に実態を写す写真は、大火の最中から

撮られた。素人の個人写真からプロのカメラマンによる

写真まで多数あったが、それらが今日写真集となって、

残されたのである。中にはプロのカメラマン管初次が

撮った火災と復興の写真集がある。そこには、焼失した

市内の写真が多数収録された。

(222~223p)

 

「管初次」「函館」で検索してみましたが、その写真集は

わかりませんでした。

  

そうした中で、写真を絵ハガキにして売り出す方法もとられた。

当時発売された絵ハガキは何万枚であろうか。

荒涼とした焼跡、廃墟と化した土蔵、焼け落ちた橋・・・

それらが絵ハガキになって販売され大火を知らなかった人の

目に触れることになった。図8-14はその一部である。

かくて、写真は大火の記憶を伝える貴重な手段のひとつと

なったのであった。

(223p)

 

函館の大火 昭和九年の都市災害」には、上記の通り、

7枚の写真が掲載されています。

そのうちの1枚だけ載せます。

Epson114 (160p)

  

さらにネット上に次のような動画がありました。


YouTube: 戦前絵葉書に残る災害の記録(明治〜昭和初期) Japan Postcards of Great Disaster

この動画には、絵ハガキに残る災害の写真が紹介されています。

今まで聞いたことがない災害も多くありました。

その中に函館大火もありました。(6分30秒から5枚)

Photo

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3

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災害を絵ハガキで伝える文化について興味をもち始めました。

2019年11月13日 (水)

「函館の大火」⑦/死者数、行方不明者数

  

今日は令和元年11月13日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

数字を正確にここに書き留めます。

昭和9年3月21日の函館大火の死者数、行方不明者数です。

  

〇死者 2166人

 内訳は大火による死者2054人と大火による傷病者(傷病死)

 112人である。大火による死者では溺死が917人、

 焼死が748人、凍死が217人、窒息死143人、その他

 29人である。死因の1位が溺死なのは注目に値しよう。

 大火による傷病死では肺炎52人、凍死18人、火傷17人の

 順である。それらの数値が意味するものは大森浜で激浪に

 さらわれて溺死した人、運よく助かったものの全身濡れ鼠になり

 凍死した人、橋の崩落で新川に転落し窒息したり凍死した人、

 寒さで肺炎になって死亡した人等が火焔と火流に倒れて焼死した

 人より多かったということである。

 

〇行方不明者 662人

 それは、家族、親族、知人より届出のあった者の数であるが、

 激浪で海中に呑まれたものと考えられている。

(188p)    

 

この数字から、函館大火がどのような災害だったのか見えてきます。

苦しんで死んでいった人たちの死が風化しないことを願って、

こんなブログですが、書き留めました。

「函館の大火」⑥/大火の時の御真影

 

今日は令和元年11月13日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

11月10日の歴史的な出来事。

天皇陛下の即位に伴うパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」

Photo nippon.com

観衆は国旗を振り、スマートフォンで撮影をしていました。

天皇・皇后陛下の写真を撮るなんてとんでもなかったのが、

函館の大火があった昭和9年の日本でした。

  

  

明治以来、小中学校には宮内省より御真影(ごしんえい)という

天皇・皇后両陛下の公式肖像写真が貸与されてきた。

校長はそれを校内にもうけられた奉安殿に教育勅語謄本と共に

安置し、厳重に管理し、学内の儀式に使用していた。

危機の際御真影をどう扱うべきか。危機が学校に迫るや、

校長や教員は馳せつけ、身命を賭して御真影と教育勅語謄本を

取り出し、安全な場所へ移す奉遷(ほうせん)を行ったのであった。

(179p)

   

Wikipedia 御真影には次のように書いてありました。

 

宮内省からの「貸与」品として、ことさら慎重な取り扱いを

求められており、1898年(明治31年)に長野県の

町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)では、

失火により明治天皇の御真影を焼いてしまい、当時の校長・

久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を負って

割腹自殺するという事件が起きた。また、1933年(昭和8年)、

沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)が

火災に遭い、御真影が焼けてしまった際にも当時の校長が

割腹自殺をした

  

  

 

函館大火の時の話です。☟

  

それはある校長に生じた一生忘れることができない痛恨事であった。

それを明らかにした本人は後年兄から聞かされてそれと知ったので

あった。本人によると、大火の夜、父は家族を避難させると、

ひとりで自分が校長の小学校へ向った。途中には新川橋があり、

それを五稜郭側から松風町側へ渡らねばならなかった。

しかし、既述のように、松風側から渡ってくる圧倒的多数の

避難民のためどうしても渡ることができなかった。

新川橋が駄目なら別の橋へ移動しなかったのか、その間の事情は

分らない。ともかく、橋が崩落したため、渡ることができないうちに

学校は焼失してしまった。その結果、御真影と教育勅語謄本を

もちだせなかったのである。校長としては大失態であり、

進退問題に発展するのは必定であった。翌朝、父は焼け残った自宅へ

悄然(しょうぜん)として帰宅した。

相当な覚悟の上であったと思われる。

(179~180p)

【悄然】=元気がなく、うちしおれているさま。 引用:goo辞書 

  

  

   

どうなったと思いますか?

  

  

  

  

  

  

続きを引用します。

  

  

そこへ知らせが入った。宿直の代用教員が機転をきかして

くさりを切り、御真影と教育勅語謄本をもちだし奉遷

してくれていたのだった。彼のおかげで父は危機を脱した。

公式には、奉遷により御真影の取り扱いは万事遺憾なきを得て

安泰であった、ということで通った。

父は長男のみ真相を明らかにし、黙して語らなかった。

御真影は全部御安泰という事実の背後には、このような

ドラマがあったのであった。

(180p)

2019年11月12日 (火)

「函館の大火」⑤/物の十分なかった時代には、人は物に執着した

  

今日は令和元年11月12日。

  

寝る前にもう1本道草します。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

漠然と疑問に思っていたことが、この本を読んで理解できました。

  

漁師の娘、6才の近藤ウメは寝ているところを起こされ

火事だと知った。窓から見ると、浜の山沿いのあたりに

赤い花火が上がっているように見えた。

一家の避難先は函館公園と決った。

彼女は母に背負われ、「大丈夫、大丈夫」と励まされながら

公園へ向った。火災により空全体に広がった明るい光りが

近づいてくるようで、恐ろしかったのを憶えている。

家には父や兄たち男手が揃っていたため、家財道具一式を

公園へ搬入した。

  

日本では家財道具の搬出は江戸時代からの伝統的習慣であった

ように思われる。「すわ火事だ」となると、親戚・知人まで

駆付けて搬出を手伝う。物の十分なかった時代には、

人は物に執着した。中には、箪笥、布団類、衣類、柳行李、

書籍類、台所道具一式を持ちだし、障子や襖でそれらを囲うという

念の入ったものもあった。そこへこぶし大の火の粉がどしどし

落ちてくればどうなるか。当然それらは発火する。

函館公園、東川町の護岸、大森浜、大森橋の袂(たもと)には

火がついて放置された家財が多く、延焼を助長したように思われる。

(86p)

  

関東大震災の写真を見た時に、荷物をたくさん持って逃げる人たちに

驚きました。

たとえばこの写真。☟ 上野駅前広場に避難した人々

Kantodaisinsaiuenoekihukin 関東大震災のちょっといい話

  

関東大震災では、これらの荷物に火が襲いました。

橋を渡る人たちの荷物に燃え移って、

火は川を超えました。

本所被服廠跡で火災旋風が起こって、多くの人が犠牲になりました。

※関連:ここでも道草 再会「火災旋風」(2013年9月4日投稿)

なぜそんなに荷物を運ぶんだと、漠然と思っていました。

物の十分なかった時代には、人は物に執着した。

この言葉が特に印象に残りました。

そうなのか?そういうことなのか?

家財道具を持って出れば、それでほぼ全てだとしたら、

やっぱり持って逃げるのかと思いました。

ひとつ疑問が解決した気分です。

  

  

  

災害と背中合わせの現代。

私だったら、最近買ったばかりのお気に入りのショルダーバッグに

財布とタブレット端末を入れて逃げるかな。

いやいや、ザックにそれらを入れて、他にもザックに入るだけ入れて

逃げるかな。  

考えておくべきですね。

  

「函館の大火」④/火炎と打ち寄せる波の挟み撃ち

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

風の方向が変わったことで起こった惨事を書き留めます。

函館の大火 昭和九年の都市災害」は、

こまめに記録を書いてありますが、

地図に関しては、わかりにくい地図のみの掲載です。

したがって、頻繁に出てくる町名や坂名、橋名など、

所在がわかりにくかったです。

  

今回書き留める文章中に出てくる町名、浜名を

今の地名も参考にして、本の表紙の地図に

書き加えてみました。

地図の方角も上が北にしてみました。

Epson113_2  

(昭和9年3月21日)

風向きは21時に南西方向になり、さらに西南西へ廻り、

23時前から西へ変った。延焼中、局地的な旋風も生じていたが、

大局的には海峡側から吹き込んだ風が、ある時点で湾側から

吹き始めたことにある。そのため、東川町の護岸(埋立地)から

隣接する大森浜までの広大な空間は最初風上(かざかみ)に当たり、

安全地帯のように思えた。そこで、東川町、栄町、東雲町等

海岸に近い所に住んでいた市民と、警察の誘導により流れ着いた

市民がその空間に蝟集(いしゅう)したのであった。

消防組の調べではその数約1万人であった。

しかし、やがてそこが風下(かざしも)になり

悲劇が生じることになった。

(116p)

  

その時の様子を伝える文章を紹介します。

函高女1年の池田富美子さんの体験記。

  

一家四人で埋立地へ逃げました。

もう方々で火が燃えて天をこがすばかりでしたが、

私達のゐる所は大丈夫なので私は大変よい所へ逃げて来たと

思ひまして安心をいたしました。

母も「此処は大変よい所だね、なぜ皆こちらの方へ来ない(の)だろう」

といつてゐましたら、俄(にわか)かに風の向きがかはつて

火の粉がたくさん飛んできました。

あちらこちらの荷物に火がついて海へ投げてゐました。

(116p)

  

海辺に避難した人たちは、火炎と打ち寄せる波の挟み撃ちに

襲われてしまいます。

  

汐見小5年の尾崎邦さんの体験記

  

大森ですこしやすんでゐましたら、そばにあつた船に

火がつきましたので、荷物を全部そこへすてゝしまひました。

波うちぎはで四時間近く水につかってゐました。

二度も三度も波にさらわれ、後から火をかぶつて

とても苦しくて夢中でした。

(119p)

 

東川小6年の奥寺量平の体験記。

    

「ゴォー」又大浪がきた。と、僕の体がうき上った。

その時、目前にくいが立つてゐた。

僕はむちうになつてしがみついた。

そのくいこそ僕の命を助けてくれた。

もしこのくいがなかつたら僕は死んでいたかもしれない。

(119p)

  

どれだけの人が犠牲になったか?

  

護岸と浜で火と水で挟撃され、命を奪われた人の数は

353人を数えた。その他に湯の川・根崎に漂着した遺体は

325人である。

(120p)

  

聖保禄高女1年の山田芳子さんの短歌です。

  

突然に強風の向き北へ変り 

   激しき炎われらを襲ふ

 

火と風も漸(ようや)く鎮まり母と身を

   寄せ合い一夜浜辺に明かす

  

大波を被りし髪は砂まみれ

   櫛も梳(と)き得ず固まりしまま

  

母とまれ此の日の事は口閉ざし

   幾歳月を過ごし来たるや

  

姉一人妹二人を奪われし

   かの大火日のまた巡り来る 

 

(214~215p)

  

   

ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」⑥/函館大火(2019年10月29日投稿)

☝ 「雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6」の記述で

関心を持った函館大火。

海辺での悲劇が最も印象に残っていました。

昭和の始め、父親が生まれて3年後に、

函館でこのようなことがあったのですね。

教科書には載っていないけど、これも歴史。

「函館の大火」③/不運にも低気圧が減速して、強風が吹いていた

  

今日は令和元年11月12日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

この本は、次のような構成になっています。

 

第一部 函館の環境

 第一章 自然環境

 第二章 都市空間

 第三章 都市社会

第二部 函館の大火

 第四章 危機管理と大火の歴史

 第五章 大火の日

第三部 鎮火とその後

 第六章 後手に回った危機管理

 第七章 荒廃と混乱

 第八章 責任と被害

 第九章 復興

 終章 大火の記録

 

 註

 証人リスト

 状況推移表

 あとがき 

 

  

いよいよ第五章より引用します。

 

大火のあった日、日本海を低気圧が北上していました。

 

18時、それは函館の西側の日本海を通過して

北西方向の寿都(すっつ)沖約50キロメートルに達し、

発達して966ヘクトパスカルに達した。

(69p)

 

そこまで時速90km~63kmというスピードで、

日本海を北東方向に進んでいた低気圧が、

18時までは時速17km、18時から20時までは時速5kmと

急減速しました。

Epson112b (70p)

Epson112a (71p)

  

原因は低気圧が高圧帯に行く手をはばまれ、転進を模索して

手間どったから、と思われる。その間、急減速していた

18時から20時の間の18時53分頃、

函館で火災が発生したのであった。

要するに、気圧が速度を減速させ、ほとんど停滞している時であり、

同じような烈風がくりかえし長時間吹続(すいぞく)するという

最悪の条件下にあった時である。それは函館にとって極めて運の

悪い状況であった。

(69~72p)

  

ゆっくりではあるが低気圧が移動したことで、

函館に吹いた風は、方向を変えます。

最初は南南西でしたが、南西になり、西南西になり、

最後は西風になります。

この方向の変化が、大惨事を招きました。

風速は19時には22m、その後は24m内外だったそうです。

瞬間最大風速は40m近いと推定されています。 参考:72p

  

函館の大火には、強力な低気圧が関係していたのです。

低気圧は気温も変化させます。

  

気温も追い打ちをかけた。21日午前中は正午まで5度以下であった。

それが午後上昇し始める。13時に6.7度になり、

17時には8.3度まで上昇する。

その後気温は次第に下降し、出火直後の19時には7.3度、

24時には1.4度に下降する。

22日3時、気温はマイナス0.4度、

火炎の延焼が止む6時にはマイナス1.7度になる。

海に入ったり、川に落ちて濡れた人や烈風で着衣を

剥ぎ取られた人には厳しい状況であった。

(72~73p)

  

  

函館の大火による惨事は複数の場であり、

本にも描かれています。

その中で、風向きが変わったことで起こった

大森浜での悲劇を、ブログに書き留めておきたい。

  

つづく

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楽餓鬼

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