« 「函館の大火」⑤/物の十分なかった時代には、人は物に執着した | メイン | 「函館の大火」⑦/死者数、行方不明者数 »

2019年11月13日 (水)

「函館の大火」⑥/大火の時の御真影

 

今日は令和元年11月13日。

  

前投稿に引き続き、

函館の大火 昭和九年の都市災害

(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。

  

11月10日の歴史的な出来事。

天皇陛下の即位に伴うパレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」

Photo nippon.com

観衆は国旗を振り、スマートフォンで撮影をしていました。

天皇・皇后陛下の写真を撮るなんてとんでもなかったのが、

函館の大火があった昭和9年の日本でした。

  

  

明治以来、小中学校には宮内省より御真影(ごしんえい)という

天皇・皇后両陛下の公式肖像写真が貸与されてきた。

校長はそれを校内にもうけられた奉安殿に教育勅語謄本と共に

安置し、厳重に管理し、学内の儀式に使用していた。

危機の際御真影をどう扱うべきか。危機が学校に迫るや、

校長や教員は馳せつけ、身命を賭して御真影と教育勅語謄本を

取り出し、安全な場所へ移す奉遷(ほうせん)を行ったのであった。

(179p)

   

Wikipedia 御真影には次のように書いてありました。

 

宮内省からの「貸与」品として、ことさら慎重な取り扱いを

求められており、1898年(明治31年)に長野県の

町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)では、

失火により明治天皇の御真影を焼いてしまい、当時の校長・

久米由太郎(小説家久米正雄の父)が責任を負って

割腹自殺するという事件が起きた。また、1933年(昭和8年)、

沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)が

火災に遭い、御真影が焼けてしまった際にも当時の校長が

割腹自殺をした

  

  

 

函館大火の時の話です。☟

  

それはある校長に生じた一生忘れることができない痛恨事であった。

それを明らかにした本人は後年兄から聞かされてそれと知ったので

あった。本人によると、大火の夜、父は家族を避難させると、

ひとりで自分が校長の小学校へ向った。途中には新川橋があり、

それを五稜郭側から松風町側へ渡らねばならなかった。

しかし、既述のように、松風側から渡ってくる圧倒的多数の

避難民のためどうしても渡ることができなかった。

新川橋が駄目なら別の橋へ移動しなかったのか、その間の事情は

分らない。ともかく、橋が崩落したため、渡ることができないうちに

学校は焼失してしまった。その結果、御真影と教育勅語謄本を

もちだせなかったのである。校長としては大失態であり、

進退問題に発展するのは必定であった。翌朝、父は焼け残った自宅へ

悄然(しょうぜん)として帰宅した。

相当な覚悟の上であったと思われる。

(179~180p)

【悄然】=元気がなく、うちしおれているさま。 引用:goo辞書 

  

  

   

どうなったと思いますか?

  

  

  

  

  

  

続きを引用します。

  

  

そこへ知らせが入った。宿直の代用教員が機転をきかして

くさりを切り、御真影と教育勅語謄本をもちだし奉遷

してくれていたのだった。彼のおかげで父は危機を脱した。

公式には、奉遷により御真影の取り扱いは万事遺憾なきを得て

安泰であった、ということで通った。

父は長男のみ真相を明らかにし、黙して語らなかった。

御真影は全部御安泰という事実の背後には、このような

ドラマがあったのであった。

(180p)

コメント

コメントを投稿

最近の写真

  • Img_8523
  • Img_8520
  • Img_8519
  • Img_8518
  • Img_8522
  • Img_8521
  • Img_8517
  • Img_8512
  • Img_8510
  • Img_8508
  • Img_8507
  • Img_8504

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉