「函館の大火」④/火炎と打ち寄せる波の挟み撃ち
今日は令和元年11月12日。
前投稿に引き続き、
「函館の大火 昭和九年の都市災害」
(宮崎揚弘著/法政大学出版局)より引用します。
風の方向が変わったことで起こった惨事を書き留めます。
「函館の大火 昭和九年の都市災害」は、
こまめに記録を書いてありますが、
地図に関しては、わかりにくい地図のみの掲載です。
したがって、頻繁に出てくる町名や坂名、橋名など、
所在がわかりにくかったです。
今回書き留める文章中に出てくる町名、浜名を
今の地名も参考にして、本の表紙の地図に
書き加えてみました。
地図の方角も上が北にしてみました。
(昭和9年3月21日)
風向きは21時に南西方向になり、さらに西南西へ廻り、
23時前から西へ変った。延焼中、局地的な旋風も生じていたが、
大局的には海峡側から吹き込んだ風が、ある時点で湾側から
吹き始めたことにある。そのため、東川町の護岸(埋立地)から
隣接する大森浜までの広大な空間は最初風上(かざかみ)に当たり、
安全地帯のように思えた。そこで、東川町、栄町、東雲町等
海岸に近い所に住んでいた市民と、警察の誘導により流れ着いた
市民がその空間に蝟集(いしゅう)したのであった。
消防組の調べではその数約1万人であった。
しかし、やがてそこが風下(かざしも)になり
悲劇が生じることになった。
(116p)
その時の様子を伝える文章を紹介します。
函高女1年の池田富美子さんの体験記。
一家四人で埋立地へ逃げました。
もう方々で火が燃えて天をこがすばかりでしたが、
私達のゐる所は大丈夫なので私は大変よい所へ逃げて来たと
思ひまして安心をいたしました。
母も「此処は大変よい所だね、なぜ皆こちらの方へ来ない(の)だろう」
といつてゐましたら、俄(にわか)かに風の向きがかはつて
火の粉がたくさん飛んできました。
あちらこちらの荷物に火がついて海へ投げてゐました。
(116p)
海辺に避難した人たちは、火炎と打ち寄せる波の挟み撃ちに
襲われてしまいます。
汐見小5年の尾崎邦さんの体験記
大森ですこしやすんでゐましたら、そばにあつた船に
火がつきましたので、荷物を全部そこへすてゝしまひました。
波うちぎはで四時間近く水につかってゐました。
二度も三度も波にさらわれ、後から火をかぶつて
とても苦しくて夢中でした。
(119p)
東川小6年の奥寺量平の体験記。
「ゴォー」又大浪がきた。と、僕の体がうき上った。
その時、目前にくいが立つてゐた。
僕はむちうになつてしがみついた。
そのくいこそ僕の命を助けてくれた。
もしこのくいがなかつたら僕は死んでいたかもしれない。
(119p)
どれだけの人が犠牲になったか?
護岸と浜で火と水で挟撃され、命を奪われた人の数は
353人を数えた。その他に湯の川・根崎に漂着した遺体は
325人である。
(120p)
聖保禄高女1年の山田芳子さんの短歌です。
突然に強風の向き北へ変り
激しき炎われらを襲ふ
火と風も漸(ようや)く鎮まり母と身を
寄せ合い一夜浜辺に明かす
大波を被りし髪は砂まみれ
櫛も梳(と)き得ず固まりしまま
母とまれ此の日の事は口閉ざし
幾歳月を過ごし来たるや
姉一人妹二人を奪われし
かの大火日のまた巡り来る
(214~215p)
※ここでも道草 「雪虫の飛ぶ日」⑥/函館大火(2019年10月29日投稿)
☝ 「雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6」の記述で
関心を持った函館大火。
海辺での悲劇が最も印象に残っていました。
昭和の始め、父親が生まれて3年後に、
函館でこのようなことがあったのですね。
教科書には載っていないけど、これも歴史。
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