「その時歴史が動いた・人見絹枝」その4/100m敗退 800mへの参加
今日は令和元年7月21日。
前日に引き続き、2004年8月18日放映
「その時歴史が動いた 奇跡の銀メダル 人見絹枝
日本女子初メダル獲得の時」より。
人見絹枝に対する批難中傷がありました。
次のようなハガキが届きました。
「男か女か」
「日本婦人の個性を破壊」
という言葉に目が行きます。
人見絹枝は、あの文章を書いたのです。
いくらでも罵(ののし)れ
私はそれを甘んじて受ける
しかし、私の後から生まれてくる
若い選手や日本女子競技界には
貴方等のような者に
指一つ触れさせない。
昭和3年(1928年)5月20日。
オリンピック日本代表選考会100m決勝で、
人見絹枝は世界新記録を樹立します。
日本中の期待が高まりました。
いよいよアムステルダムオリンピック開幕です。
女子の参加選手は、人見絹枝ただ一人。☟
☝ 昭和3年(1928年)6月1日のことです。
この番組では、人見絹枝の手記がたびたび紹介されます。
出発の際の手記を載せます。
私はすべての私情を捨てた。
再びこの大阪に帰るまでは
親も社も親しい友のことも
すべてのことを忘れよう。
そして唯一つのこの戦いのために
自分の最後の努力を注ごう。
アムステルダムオリンピック開幕は、
昭和3年(1928年)7月28日でした。
7月29日から陸上競技スタート。
日本男子陸上は3種目で敗退。
7月30日は女子陸上100m予選。
人見絹枝の番です。
その日の朝の朝食で、陸上競技総監督の
竹内広三郎が次のように言ったそうです。
人見さん、あなたが日の丸を
揚げてくれなかったら、
もう日本選手には、
日の丸も君が代も与えられない
どうか今日の100メートルは、
そのつもりで
ベストを尽くしてください。
いやあ、プレッシャーですね。
実際、人見絹枝は朝食を食べれずに競技に参加したそうです。
大河ドラマ「いだてん」でも総監督がプレッシャーを
かけるシーンがありました。
総監督は総監督で、プレッシャーをかけられていたのでしょう。
100m予選の時の写真です。☟
びっくりです。
当時は、スタートブロックではなくて、
穴を掘っていたのですね。
準決勝。2位までに入らなければ、決勝進出ができません。
予選の記録では、人見絹枝がトップでした。
しかし、結果は4位。決勝に進めませんでした。
落胆した人見絹枝ですが、悩んだ挙句、
7月30日その日のうちに
800mへのエントリーを竹内広三郎総監督に申し出ます。
その時の様子を、織田幹雄は次のように書いています。
いまだ一度も走ったことのない
苦しい800メートルに出て
世界の強豪を相手に
走ろうというのだから、
その無謀さには、竹内さんならずとも、
反対せざるを得なかった。
しかし、人見さんの決意は固く
このままでは日本に帰れぬと
泣いて訴えたので、
出場を認めるほかなかった。
つづく
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