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2019年7月20日 (土)

「いだてん紀行」/人見絹枝を継いでいく者たち

今日は令和元年7月20日。

  

前投稿に引き続き、 7月7日放映の大河ドラマ

いだてん~東京オリムピック噺~26 明日なき暴走」より。

「いだてん紀行」を聞き書きしていきます。

 

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ナレーター:日本女性初のオリンピックメダリストとなった、

  人見絹枝。プレッシャーと孤独の中で、勝ち取ったメダルは

  女子スポーツ界の大きな一歩となりました。

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  新聞記者でもあった人見は、国際大会に出場する傍ら、

  後進の育成にも取り組み、年間200以上もの講演を

  こなしました。

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人見茂雄(人見絹枝の姉の孫):後輩のために、

  後輩を引っ張っていかないといけないと(※思っていて)

  今、それは有森さんがずっとやってくださっているゆうか、

  引き継いで(くれています。) ※聞き取れずに予想

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ナレーター:人見絹枝以来、64年ぶりに女子陸上に

  メダルをもたらした有森裕子さんは、女子スポーツ発展のために

  生涯をささげた人見を、深く尊敬しています。

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有森裕子:物事を変えていくって難しい。それはいつの時代も

  そうだと思うんですが、もっと幅広く自分がしてきたことを活かして

  やれるこって、まだあるんじゃないかなと思いつつも・・・

  そこにいつも「まだできるよ」といつも(私に)

  言ってくるのが人見さんだな(と思います)。

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ナレーター:普及活動で、無理を重ね、24歳で亡くなった人見絹枝。

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有森裕子:スポーツをしている私たちが、歴史あるその道をつくった

  人たちを、教えながら、伝えながら、忘れず、次世代の人たちを

  育てていきたいかなあと思います。

  当たり前に今ある道ではないと。  

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いい笑顔です。

  

Wikipedia 人見絹枝から引用します。

  

当時、国内での女子陸上への偏見は厳しいものであり

それをうかがわせる例がいくつも存在する。

●人見が陸上を始めた頃、周りの人々から冷たい目で見られたと、

 本人が述懐している。

●オリンピック出場を決めていた人見の実家にも

 「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」

 「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が

 送られて来ていたという。

 それに対して人見は女子陸上競技に関する記事にて

 「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。

 しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や、

 日本女子競技会には指一つ触れさせない」と書いている。

●短距離走の日本記録を保持していた寺尾正・文姉妹の実家に出向き、

アムステルダムオリンピックへの出場を説得したが、

寺尾の家族の意向により、寺尾姉妹の出場は叶わなかった。

これも、女子陸上への世間の偏見が一因であると言われている。

  

「いくらでも罵(ののし)れ!」のセリフにこもる熱は高い。

  

「寺尾正・文姉妹」に興味を持ちました。

どんなことがあったのか詳しく知りたいです。

また調べます。

  

我が家には、人見絹枝さんの番組が2本あります。

その時歴史が動いた」(2004年放映)、

英雄たちの選択」(2016年放映)があります。

まだ見ていません。

「いだてん」でいい機会をもらったので、見てみよう。

  

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