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2018年10月8日

2018年10月 8日 (月)

「ハイネさん」より引用/午前10時13分から10時39分まで

 

今日は10月8日。

  

前投稿に引き続き、

著書「ハイネさん 豊川海軍工廠をめぐる4つの物語

(住田真理子著/これから出版)より引用します。

  

師走に入って数日後。

昼食を終えて午後の作業に戻った矢先だった。

何の前ぶれもなく地面が揺れ、作業台の上の工具が、

目の前でぱらぱらと落ちた。

「地震だ」

誰かが叫んだ。

反射的に身を低くして机の下にもぐりこんだ。

工員たちは出口に殺到している。

「建物が倒れるわ、早く逃げよう」

(37p)

  

これは1944年12月7日の東南海地震。

豊川海軍工廠でも、大きく揺れたことがわかります。

  

  

年が明けて1月の夜中にもまた大きな地震あった。

幡豆町、吉良町など西三河に被害が大きいと人々は

噂していた。

ぺしゃんこになったり火事で焼けた家も多く、

遺体の多くは外に筵(むしろ)をかけて

放り出したままだという。

「空から下から、神風が吹くどころの騒ぎじゃない。

こりゃあ、日本が負けだ」と言い出す人もいた。

(39p)

  

こちらが1945年1月13日に起こった三河地震。

2つの地震が、「ハイネさん」には描かれていました。

戦時中は被害を公表できなかった2つの地震。

多くの犠牲があったのにそれが伝えられませんでした。

戦意に影響すると考えたのでしょう。

だからこそ、今はこんな地震があったんだよと伝え、

忘れてはいけない地震だと思います。

  

 

田んぼのあぜ道を走っていると、

艦載機が工場の屋根すれすれまで急降下してきた。

身を低くして水路に伏せた。

1メートルくらいの所で弾がはねる。

狙い撃ちされている。

急降下の一瞬、若くて青い目の米兵の顔が見えた。

「ヒット」「オーバー」と叫ぶ声まで聞こえてくる。

田んぼの中やあぜ道でも、血を流して何人も死んでいた。

爆風で服が破れてほとんど丸裸になり、

カエルのように仰向けのまま、

空を睨(にら)んで動かない女学生がいた。

両足も首もない胴体だけが水路に落ち、

水を赤く染めている。

(66p)

  

機銃掃射は狙い撃ちしてくる。

この事実を知った時は、驚きました。

上空から降下して、無防備な人間を撃ってくるのです。

以前機銃掃射を記事に書きました。

ここでも道草 銃掃射 1945年8月14日田原(2016年5月13日投稿)

↑ この記事で紹介した動画を今一度掲載します。


YouTube: ガンカメラの機銃掃射映像・・・「私の街も戦場だった」より

 

  

昭和20年8月7日、午前10時13分から10時39分まで。

わずか26分という短い時間に、米軍の絨毯爆撃によって、

豊川海軍工廠で働いていた2500人が死んだ。

わたしたちの女学校では、37人の尊い命が奪われた。

「どうして逃げなかったの?」

という問いは、生き残った側から発せられる、

愚かな質問にすぎない。

わたしが入った防空壕の奥にいた女生徒たちは、

崩れた壕の下に埋もれた。

外に出ると紙一重のところで爆弾が炸裂した。

門の外では、機銃掃射の弾が身体をかすめた。

ほんのいくつかの偶然に助けられただけだ。

(69p)

 

生き残るかどうかは運だったのです。

でも生きている人を見て遺族は、

「どうして逃げなかったの?」と問いたくなると思います。

その気持ちもわかります。

  

  

(遺体で発見された)知らせを聞いた父母は、

葬式を出すため、わが子を家に連れて帰ろうとしたが、

そんなささやかな願いもかなえられなかった。

軍の機密という理由で、遺体は家族に引き渡されず、

海軍工廠近くの千両の山林に

20~30体ずつまとめて埋められてしまったという。

(中略)

「せめて葬儀をしてやりたいと思った遺族が、

リヤカーに(遺体を)乗せて帰ろうとしたら、

工廠側からすぐに遺体を戻すようにと言われたらしい。

本当は戻したくはなかっただろうが、軍の命令は絶対だ。

工廠に戻ると大きな穴が掘られていて、

そこへ爆弾でバラバラに吹き飛ばされた腕や脚や胴体が

次から次へと放り込まれているじゃないか」

家族の見ている前で、七人の女学生は全員、

その穴に投げ込まれ、土砂がかけられてしまったという。

「十把一絡げに、まるで犬猫の死骸を捨てるように・・・」

そこまで話して、こらえきれず、花井先生は嗚咽(おえつ)した。

(72~73p) 

 

この死体を埋めた穴のスケッチは、

書棚にあります。

web上での公開は不可ので、今まで載せたことはありませんが。

関連:ここでも道草 海軍工廠の授業資料1/仮埋葬(2011年7月9日投稿)

  

  

豊川海軍工廠の勉強は、これからもずっとブログ上で続けていきたいですね。

「ハイネさん」より引用/工廠へと従業員を運んだ鉄道

今日は10月8日。

 

前投稿に引き続き、演劇「迸る(ほとばしる)」の原作者

住田真理子さん関連のことを書きます。

著書「ハイネさん  豊川海軍工廠をめぐる4つの物語

(これから出版)を読みました。

この本から引用します。

  

6年生になると、担任の先生から高等女学校への

進学を勧められた。尋常小学校は昨年より国民学校と

名前を変えていた。

国民学校から高等女学校を受験する者は少なく、

商業学校や家政女学校などを合わせても進学組は

二割ほどだった。

豊橋は蚕都(さんと)と呼ばれる生糸の産地で、

市内には製糸工場も多く、国民学校を卒業した近所の

女の子たちは、たいていが製糸工場の女工になった。

そこで三・四年働き、お見合いや親の言いつけで

お嫁に行く。

ロイド眼鏡をお嫁にもらってくれる男の人がいるとは

思えなかった。わたしはまだ勉強をしていたいと思った。

(16p)

 

国民学校になったのは昭和16年(1941年)。

映画「早咲きの花」の主舞台も、国民学校でした。

当時の豊橋在住の多くの女の子たちの、

国民学校卒業後のたどる道がわかりました。

豊橋市は「蚕都」と呼ばれていたのですね。

ロイド眼鏡の語源になったのは、アメリアの喜劇役者

ハロルド・ロイド(1893~1971)の眼鏡。Img_0276_3 リュネットプラス メガネの歴史について考えた 有名人と眼鏡

以上、短い文章の中にいろいろな内容を含んでいました。

  

  

(高等女学校の)上級生は全員工廠近くの寄宿舎に入ったが、

わたしたちの学年は通いなので、朝五時半起きで、

早朝の豊橋駅に集合する。(中略)

豊橋駅から飯田線の電車に乗り込む。

車内は海軍工廠に通う工員さんや女子挺身隊で

身動きが出来ないくらい満員だ。(中略)

電車は街路樹の枝葉をかすめるようして走り、

豊川西駅ホームにすべりこむ。

駅を降りたわたしたちは、後ろから追い立てられるようにして

北東門に入る。

(35p)

 

豊橋市に在住していた人たちが、豊川海軍工廠まで

どのように通っていたかは知りたいと思っていました。

映画「早咲きの花」では、豊橋在住の男の子たちが

工廠まで通うシーンはありませんでした。

飯田線を使っていたのですね。

ただ「豊川西駅」は現在ありません。

調べました。

  

「豊川西駅」はなくて「西豊川駅」がありました。

Wikipedia 西豊川駅には次のように書いてありました。

  

西豊川駅(にしとよかわえき)は、かつて愛知県豊川市にあった、

日本国有鉄道飯田線の駅(廃駅)である。

飯田線豊川駅から伸びる西豊川支線の終着駅で、

路線とともに1942年(昭和17年)に開業、

1956年(昭和31年)に廃止された。(中略)

西豊川駅が属した西豊川支線は、豊川市内に開設された

豊川海軍工廠への物資・従業員の輸送用に敷設された。

(中略)

西豊川駅は海軍工廠の敷地から外れた場所に位置していたが、

工廠内まで工廠の専用線(幹線2km・側線1.6km)が敷設された。

西豊川支線は電化されていたが、この専用線も一部区間は電化され、

専用線内まで電車が直通した。

一般客の利用は西豊川駅までしか認められていなかったが、

工員や工廠関係者はそのまま電車で工廠内に設置された

北東門乗降場までの乗車が可能であった。

  

  

こうなると、地図で確かめたい。

この地図に注目。

Tokai_11_001 総務省HP

豊川駅から海軍工廠へ向かう鉄道。

まてよ、この鉄道、線路が今も残っていますよ。

おなじみの線路です。

そうか、あの線路が、工廠へと人を運んだ鉄道だったのですね。

この鉄道については、また後日書きたい。

演劇「迸る」を見る/原作者は1961年生まれ

今日は10月8日。

 

ここでも道草 豊川用水の歴史を演劇で/「迸る(ほとばしる)」(2018年8月5日投稿)  

↑ここで書いた演劇「迸る」を9月22日に見てきました。

その時の写真です。

Rimg0450  

Rimg0451

↑ 演劇が行われた豊橋市の穂の国とよはし芸術劇場「PLAT」

5年ぶりでした。

ここでも道草 合唱劇「カネト」PLAT公演/ムックリ(2013年8月26日投稿)

もう5年が経ってしまったのですね。

  

豊川用水は関心があることだったので、

いい勉強になりました。

 

豊川用水の工事に関わった人たちは、

戦争の”生き残り”である人たちがいたそうです。

彼らの中には、生き恥をさらしていると

思っていた人たちもいて、

他の人のためになる工事だったらと

精を出して働いたようです。

発破作業による死傷者も出たことも知りました。

宇連ダム建設に伴い、水没する村の人たちの苦悩も

表現されていました。

用水が引かれる前、

遠くの井戸まで水くみに行っていた話、

井戸を自宅に作ろうとして、

井戸の壁が崩れて死んだ人の話。

あらためて、今は豊川用水のおかげで水が

困ることなく手に入ることを思い出させてくれました。

今の生活は、少し前まで当たり前ではなかったのです。

1968年(昭和43年)完成の豊川用水。

みんなが(自分も含めて)忘れかけている

豊川用水のありがたみを思い出させてくれる演劇でした。

 

演劇「迸る」の原作者は住田真理子さん。

著書「ハイネさん 豊川海軍工廠をめぐる4つの物語

(これから出版)には、次のような著者説明がありました。

  

1961年、兵庫県伊丹市生まれ。

大阪市堺市、兵庫県西宮市で育つ。

甲南大学文学部卒業。フリーライター。

阪神大震災被災を機に、西宮市から

愛知県豊橋市へ一家で移住。

2009年大阪文学学校入学、小説を学ぶ。

2014年より「あるかいど」同人。

Photo 毎日新聞 2017.8.7.

  

よそから来た人が、地元の豊川海軍工廠や

豊川用水に関心をもち、調べて作品にしたのですね。

ここに住んだら、やっぱりここに目が行くよなと

思いました。

おかげさまで、豊川用水のありがたみを

思い出させてもらいました。

1961年生まれがいい。同い年です。

  

1961年生まれが出てくると今までも敏感でした。

記事にしてきたものです↓

ここでも道草 ほぼ同じ年齢の今井さん、亡くなる(2015年5月29日投稿)

ここでも道草 就学時検診のことを調べていて出会った人(2016年3月29日投稿)

ここでも道草 真田丸シリーズ16.「真田丸」の登場人物は今何歳?(2016年5月1日投稿)

ここでも道草 映画「11人のカウボーイ」を見ました(2016年5月15日投稿)

ここでも道草 正岡子規の選択/もうちょっと褒められてから死にたい(2016年7月30日投稿)

ドラマ「聖徳太子」・・・法を作るのじゃ、冠位をつくるのじゃ

 

今日は10月8日。

  

10月3日に引き続き、

2001年11月10日放映のドラマ「聖徳太子」より。

  

   

うれしいと思いつつも、喜べないこと。

2001年放映のドラマ「聖徳太子」を

youtubeで見ることができました。

しかし、NHKのドラマをアップしてもいいのかな

という気持ちもあります。

でも2001年に録画して手元にあるものより、

映像がとてもきれいです。

映像の下に中国語の字幕はありますが、

俳優が話しているのは、オリジナルの日本語です。

この映像を授業で見せたいという誘惑はありますが、

きっと違法なので、やっていません。

Youtube 聖徳太子 (テレビドラマ) 上 NHK特別劇 2001

Youtube 聖徳太子 (テレビドラマ) 下 NHK特別劇 2001

  

  

小野妹子が遣隋使として、1回目の隋の国に行き、

そのことを飛鳥の豪族の前で報告するシーンが、

ドラマ「聖徳太子」の中にあります。

このシーンは、ドラマの中でも名場面であり、

授業でも見せました。

聞き書きして、読み物化します。

  

ナレーター:隋への使者が都長安を目指した。。

  大和の国の者が中国大陸に向かうのは、

  百二十数年ぶりのことだった。

  隋はあまりに巨大で豊かな国であった。

   

  使者たちは、時の皇帝に接見することすらできずに帰ってきた。

   

小野妹子:隋を見て痛感いたしましたのは、

  彼(か)の国には律令があるということです。

Rimg0512

      すなわち法であります。

  仏が殺生を戒められているように、

  国が殺生を戒め、その法を犯せば、

  誰でも罰せられるというような法であります。

Rimg0513

  また隋には法に定められた位があります。

  国のために働く者には、それぞれの働きに応じた

  冠位が与えられ、他の者が侵すことはできません。

  大和の国はそれがないため、力ある者が身勝手な争いを起こし、

  国としてまとまりがありませぬ。

大伴の連(むらじ):はははははは、我らにも位はある。

Rimg0514

  わが大伴家は、代々大王(おおきみ)に仕え、

  軍事をつかさどった氏(うじ)よ。氏は家柄ぞ。  

  家柄は位であろう。

他の豪族たち:そうだ、そうだ。

有力豪族A:連よ。その位は意味が違うのじゃ。

Rimg0515

大伴の連:どしゃーん!この近江の新参者(妹子)は何もわかっておらん。

  大和の国に法がないというが、我らが法ぞ!

Rimg0516

  身勝手に争う者は、我らが懲らしめる。

  税も我らが取り立て、朝廷に納める。

  何も隋などに感心することはない。

  そもそもなれ(汝)はいかなる家柄の者ぞ。 ・・汝(なれ)※1

  この四天王寺にどのような資格で立っておる! ・・四天王寺※2

Rimg0517

有力豪族B:近江の新参者が、我らに政(まつりごと)を説く

  資格があるのか! 

有力豪族C:然(しか)り、然り。皇子(みこ)にお尋ね申し上げる。

  何故(なにゆえ)この者を隋に参らせました。

  何故我らではなく、近江の名も無き者を。

Rimg0518

他の豪族たち:そうだ、そうだ。

蘇我馬子:静まれ!摂政は大王の名代であらせられるぞ。

  慎まれよ。

  

聖徳太子:小野妹子。下がってよい。

小野妹子:はっ。(去っていく時に転ぶ)

豪族たち:はははははははは・・・。(嘲笑い)

Rimg0519

聖徳太子:大伴の連よ!

  名も無き者でも、国のために働く者には位を与える。

  たとえ家柄よきものでも、私利私欲のために働く者には、

  位を与えぬ。隋はそういう国ぞ。

  我らもそれに倣(なら)いたい。

  今後我らは、古きを捨てねばならん。

  新しき冠位を作り、朝廷に優れた者を集める。

  小野妹子には、しかるべく位を与え、

  あらためて隋との交渉に当たらせる。 

  この仕事に家柄は不要ぞ。

豪族たち:何と・・・そんな・・・。

聖徳太子:皆!小野妹子たちが隋でいかなる扱いを受けたか

  忘れてはならぬ。

  法も冠位も持たぬ大和の国を、

  隋はまともな国とは見なかった。

  妹子らは粗末な寺に泊められ、

  蛮夷の人のごとく取り調べを受け追い返されたという。

  我らは蛮夷の国と見做されたのじゃ。

Rimg0510

  法を作るのじゃ、冠位をつくるのじゃ。

  我らは急ぎ、隋に追いつかねばならぬ。

Rimg0511

  隋に大和の国を認めさせ、

  対等な交わりを結ばねばならぬ。

  異議のある者は申し述べよ。

Rimg0520

大伴の連:皇子! 新しい冠位に我らはどのように?

  どのようなくらいに着くことに?

Rimg0521

聖徳太子:それは追って知らせる。(聖徳太子、去る)

 

以上です。

聖徳太子の行った「十七条の憲法」「冠位十二階」の動機が、

端的に表現されているシーンです。

当時の豪族たちと考え方も、デフォルメされているとはいえ、

よくわかります。「我らが法ぞ!」は最高!

教師が説明するより、数倍も効果的なシーンだと思います。

授業に見せたくなるシーンです。

  

※1「汝(なれ)」=二人称。対等あるいはそれ以下の者

          に対して用いる。おまえ。なんじ。

          参考:weblio辞書

※2「四天王寺」 =聖徳太子が建立した寺。物部氏との戦いで、

          もし物部氏に勝ったら、寺を建てると

          四天王の像に勝利祈願した聖徳太子。

          物部氏に勝利して、約束通り建立した。

          参考:聖徳太子謎紀行

  

  

また一つ、読み物化完了。

  

  

  

  

  

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