「ハイネさん」より引用/午前10時13分から10時39分まで
今日は10月8日。
前投稿に引き続き、
著書「ハイネさん 豊川海軍工廠をめぐる4つの物語」
(住田真理子著/これから出版)より引用します。
師走に入って数日後。
昼食を終えて午後の作業に戻った矢先だった。
何の前ぶれもなく地面が揺れ、作業台の上の工具が、
目の前でぱらぱらと落ちた。
「地震だ」
誰かが叫んだ。
反射的に身を低くして机の下にもぐりこんだ。
工員たちは出口に殺到している。
「建物が倒れるわ、早く逃げよう」
(37p)
これは1944年12月7日の東南海地震。
豊川海軍工廠でも、大きく揺れたことがわかります。
年が明けて1月の夜中にもまた大きな地震あった。
幡豆町、吉良町など西三河に被害が大きいと人々は
噂していた。
ぺしゃんこになったり火事で焼けた家も多く、
遺体の多くは外に筵(むしろ)をかけて
放り出したままだという。
「空から下から、神風が吹くどころの騒ぎじゃない。
こりゃあ、日本が負けだ」と言い出す人もいた。
(39p)
こちらが1945年1月13日に起こった三河地震。
2つの地震が、「ハイネさん」には描かれていました。
戦時中は被害を公表できなかった2つの地震。
多くの犠牲があったのにそれが伝えられませんでした。
戦意に影響すると考えたのでしょう。
だからこそ、今はこんな地震があったんだよと伝え、
忘れてはいけない地震だと思います。
田んぼのあぜ道を走っていると、
艦載機が工場の屋根すれすれまで急降下してきた。
身を低くして水路に伏せた。
1メートルくらいの所で弾がはねる。
狙い撃ちされている。
急降下の一瞬、若くて青い目の米兵の顔が見えた。
「ヒット」「オーバー」と叫ぶ声まで聞こえてくる。
田んぼの中やあぜ道でも、血を流して何人も死んでいた。
爆風で服が破れてほとんど丸裸になり、
カエルのように仰向けのまま、
空を睨(にら)んで動かない女学生がいた。
両足も首もない胴体だけが水路に落ち、
水を赤く染めている。
(66p)
機銃掃射は狙い撃ちしてくる。
この事実を知った時は、驚きました。
上空から降下して、無防備な人間を撃ってくるのです。
以前機銃掃射を記事に書きました。
※ここでも道草 銃掃射 1945年8月14日田原(2016年5月13日投稿)
↑ この記事で紹介した動画を今一度掲載します。
YouTube: ガンカメラの機銃掃射映像・・・「私の街も戦場だった」より
昭和20年8月7日、午前10時13分から10時39分まで。
わずか26分という短い時間に、米軍の絨毯爆撃によって、
豊川海軍工廠で働いていた2500人が死んだ。
わたしたちの女学校では、37人の尊い命が奪われた。
「どうして逃げなかったの?」
という問いは、生き残った側から発せられる、
愚かな質問にすぎない。
わたしが入った防空壕の奥にいた女生徒たちは、
崩れた壕の下に埋もれた。
外に出ると紙一重のところで爆弾が炸裂した。
門の外では、機銃掃射の弾が身体をかすめた。
ほんのいくつかの偶然に助けられただけだ。
(69p)
生き残るかどうかは運だったのです。
でも生きている人を見て遺族は、
「どうして逃げなかったの?」と問いたくなると思います。
その気持ちもわかります。
(遺体で発見された)知らせを聞いた父母は、
葬式を出すため、わが子を家に連れて帰ろうとしたが、
そんなささやかな願いもかなえられなかった。
軍の機密という理由で、遺体は家族に引き渡されず、
海軍工廠近くの千両の山林に
20~30体ずつまとめて埋められてしまったという。
(中略)
「せめて葬儀をしてやりたいと思った遺族が、
リヤカーに(遺体を)乗せて帰ろうとしたら、
工廠側からすぐに遺体を戻すようにと言われたらしい。
本当は戻したくはなかっただろうが、軍の命令は絶対だ。
工廠に戻ると大きな穴が掘られていて、
そこへ爆弾でバラバラに吹き飛ばされた腕や脚や胴体が
次から次へと放り込まれているじゃないか」
家族の見ている前で、七人の女学生は全員、
その穴に投げ込まれ、土砂がかけられてしまったという。
「十把一絡げに、まるで犬猫の死骸を捨てるように・・・」
そこまで話して、こらえきれず、花井先生は嗚咽(おえつ)した。
(72~73p)
この死体を埋めた穴のスケッチは、
書棚にあります。
web上での公開は不可ので、今まで載せたことはありませんが。
関連:ここでも道草 海軍工廠の授業資料1/仮埋葬(2011年7月9日投稿)
豊川海軍工廠の勉強は、これからもずっとブログ上で続けていきたいですね。
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