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2018年10月 8日 (月)

「ハイネさん」より引用/工廠へと従業員を運んだ鉄道

今日は10月8日。

 

前投稿に引き続き、演劇「迸る(ほとばしる)」の原作者

住田真理子さん関連のことを書きます。

著書「ハイネさん  豊川海軍工廠をめぐる4つの物語

(これから出版)を読みました。

この本から引用します。

  

6年生になると、担任の先生から高等女学校への

進学を勧められた。尋常小学校は昨年より国民学校と

名前を変えていた。

国民学校から高等女学校を受験する者は少なく、

商業学校や家政女学校などを合わせても進学組は

二割ほどだった。

豊橋は蚕都(さんと)と呼ばれる生糸の産地で、

市内には製糸工場も多く、国民学校を卒業した近所の

女の子たちは、たいていが製糸工場の女工になった。

そこで三・四年働き、お見合いや親の言いつけで

お嫁に行く。

ロイド眼鏡をお嫁にもらってくれる男の人がいるとは

思えなかった。わたしはまだ勉強をしていたいと思った。

(16p)

 

国民学校になったのは昭和16年(1941年)。

映画「早咲きの花」の主舞台も、国民学校でした。

当時の豊橋在住の多くの女の子たちの、

国民学校卒業後のたどる道がわかりました。

豊橋市は「蚕都」と呼ばれていたのですね。

ロイド眼鏡の語源になったのは、アメリアの喜劇役者

ハロルド・ロイド(1893~1971)の眼鏡。Img_0276_3 リュネットプラス メガネの歴史について考えた 有名人と眼鏡

以上、短い文章の中にいろいろな内容を含んでいました。

  

  

(高等女学校の)上級生は全員工廠近くの寄宿舎に入ったが、

わたしたちの学年は通いなので、朝五時半起きで、

早朝の豊橋駅に集合する。(中略)

豊橋駅から飯田線の電車に乗り込む。

車内は海軍工廠に通う工員さんや女子挺身隊で

身動きが出来ないくらい満員だ。(中略)

電車は街路樹の枝葉をかすめるようして走り、

豊川西駅ホームにすべりこむ。

駅を降りたわたしたちは、後ろから追い立てられるようにして

北東門に入る。

(35p)

 

豊橋市に在住していた人たちが、豊川海軍工廠まで

どのように通っていたかは知りたいと思っていました。

映画「早咲きの花」では、豊橋在住の男の子たちが

工廠まで通うシーンはありませんでした。

飯田線を使っていたのですね。

ただ「豊川西駅」は現在ありません。

調べました。

  

「豊川西駅」はなくて「西豊川駅」がありました。

Wikipedia 西豊川駅には次のように書いてありました。

  

西豊川駅(にしとよかわえき)は、かつて愛知県豊川市にあった、

日本国有鉄道飯田線の駅(廃駅)である。

飯田線豊川駅から伸びる西豊川支線の終着駅で、

路線とともに1942年(昭和17年)に開業、

1956年(昭和31年)に廃止された。(中略)

西豊川駅が属した西豊川支線は、豊川市内に開設された

豊川海軍工廠への物資・従業員の輸送用に敷設された。

(中略)

西豊川駅は海軍工廠の敷地から外れた場所に位置していたが、

工廠内まで工廠の専用線(幹線2km・側線1.6km)が敷設された。

西豊川支線は電化されていたが、この専用線も一部区間は電化され、

専用線内まで電車が直通した。

一般客の利用は西豊川駅までしか認められていなかったが、

工員や工廠関係者はそのまま電車で工廠内に設置された

北東門乗降場までの乗車が可能であった。

  

  

こうなると、地図で確かめたい。

この地図に注目。

Tokai_11_001 総務省HP

豊川駅から海軍工廠へ向かう鉄道。

まてよ、この鉄道、線路が今も残っていますよ。

おなじみの線路です。

そうか、あの線路が、工廠へと人を運んだ鉄道だったのですね。

この鉄道については、また後日書きたい。

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