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2016年8月

2016年8月14日 (日)

東京での研修あれこれ3.インターフェイスの透明化/情報モラル

 

今日は8月14日。

  

8月9日・10日は発達協会主催の

「2016実戦セミナー M ICTを用いた指導・支援」の報告です。

 

前投稿に引き続き、

【発達障害・知的障害のある子へのメディア・リテラシー/

爲川雄二(東北大学)】より。

  

〇透明化による弊害

 ・オンラインでは伝達できない/伝達が困難な情報

  -表情 -声色(抑揚など) -コミュニケーションの「間」

 ・透明化によって

  「オフラインと同じように(上記の情報も)伝達されている」と錯覚

  

 ※たとえばの例で「バカで ごめんね」を提示

   この言葉には「おどけている」「悔やんでいる」「怒っている」の

   雰囲気を含む可能性がある。

   この言葉は、表情なしでは誤って相手に伝わってしまう。

   補助手段として絵文字が生まれた。

Original http://mery.jp/191109

   英語圏でも「絵文字」のことを「Emoji」と言うそうです。

  

〇相手の感情理解に困難をもつ自閉症スペクトラム障害

 →透明化によって2重の困難?

 →透明化の方がかえって快適?

  

 ※どっちだろう?

  

〇情報モラルの必要性

 ・「情報モラル教育実践ガイダンス」(国立教育政策研究所)の紹介

 ※国立教育政策研究所

 ・SNS東京ルール

  2015年 都教委

  ①一日の利用時間と終了時刻を決めて使おう

  ②自宅でスマホを使わない日をつくろう

  ③必ずフィルタリングを付けて利用しよう

  ④自分や他者の個人情報を載せないようにしよう

  ⑤送信前には、相手の気持ちを考えて読み返そう 

   

 ※次のサイトが参考になる。

  「SNS東京ルール」策定について

 「SNS東京ルール」は昨年11月に発表されて、今は学校ルールや

 家庭ルールが作成されて、今まさに旬な時。どうなるか見ていきたい。

Photo_2  ↑上記サイトから転載

 

〇特別支援教育での情報モラルの指導

 ・和歌山大学の取り組み

 参考:和歌山大学 江田研究室 特別支援教育における情報モラルとコミュニケーションの指導 

 ・以前、セミナーで話を聞いた豊田充崇先生の論文を読んでみた。

 

〇携帯各社のスマホ・ケータイ安全教室

 ・NTTドコモ「スマホ・ケータイ安全教室」

 ・ソフトバンク「考えよう、ケータイ」

 ・「KDDIスマホ・ケータイ安全教室」

  

〇リテラシー育成≠制限

 ・制限の例 

  -時間(夜間は使用禁止)

  -場所(校内では使用禁止)

  -コンテンツ(わいせつサイトへのアクセス禁止)

 ・制限が多ければ多いほど安心

  -だからと言って、あれもこれも制限するくらいなら、

   最初から一切使わせない方がよい。

 ・大切な考え方

  -せっかく大金を出しているのだから、幸せな使い方をしてほしい。

  -費用対効果 (=支出した費用によって得られる成果) 

  

 ※スマホには大きなお金がかかる。無駄な使い方をしてほしくない。

 ※日本ではあれをしちゃいけない、

   これをしちゃいけないといった教育になりやすい。

   ICTの良さももっと伝えるべき。

  

〇「スマホ18の約束」の良いところ

 ・「スマホ18の約束」

 ・「あれもダメ、これもダメ」でない。

  -代替手段を提示

  -積極的にすべきことも提示

 ・息子の自尊心を上手に活かしつつ説得  

  -息子への愛情ゆえの約束

  -責任の所在が明確

 ・母親が息子と同じ目線まで降りて、

  あくまで「あなたのチームメイト」という視点から語っている。

  -大人だって未熟、だから一緒に考える。    

東京での研修あれこれ2.オンラインとオフライン

 

今日は8月14日。

  

昨日は私が静岡県の山に行って、奥さんが留守番。

今日は奥さんが何と甲子園に行って、東邦高校の応援。

私が留守番です。

  

8月9日・10日は発達協会主催の

「2016実戦セミナー M ICTを用いた指導・支援」に参加しました。

6つの講義がありました。

  

最初の講義の大事なことを書きとめておきます。

講義の資料をそのまま書き写した(引用した)場合は茶色

それ以外、自分で聞いたこと、思ったことを書く時は黒字。

これを基本で書いていきます。

こうやってブログにまとめることで、

講義の内容が自分の血や肉になってくれたらと思います。

  

【発達障害・知的障害のある子へのメディア・リテラシー/

爲川雄二(東北大学)】

〇新しい情報手段は最初は批判される  ICTも?

 ・テレビ・・・大宅壮一「一億総白痴化」

 ・書き言葉・・・ソクラテス「人間の記憶力を衰えさせる」

 ※他にもソクラテスは書き言葉について述べています。

 (ソクラテスは)対話を重んじ、話し言葉を生きた言葉、

 書き言葉を死んだ言葉と考えた。

 また、書き言葉は一度書かれてしまうと反論を許さない。

 書き言葉は、知らない事も一度書かれてしまうと

 まるで知っているかのように思い込む。

 そして、それは誰の手に渡るかも分からない。

 よって、書き言葉は、使ってはいけない、と説いた。

 引用:私見 子宮腺筋症 書くということ

  

〇デジタル原住民とデジタル移民

 ・デジタル原住民

 ー生来(せいらい)からデジタル機器に慣れ親しんだ世代

 ー生活の一部にデジタル機器が当然存在する

 ・デジタル移民

 -物心がついた後にデジタル機器を使い始めた世代

 -デジタル機器は特別な存在

  

〇1980年と2010年の比較

 ・この2枚が紹介された

700724d8e35cd5aa1c7067a103eabe6e05e http://japan.digitaldj-network.com/archives/51626579.html 

 ※1980年にはたくさんの機器が必要でしたが、

  2010年にはiPhone1台ですむという話でした。

  

〇オンラインとオフライン

 ・本来の意味は、機器がネットワークに接続されているかいないか

 ・オンライン(コミュニケーション)

  -ネットワーク経由の情報取得・情報発信

  例)電子メール、SNS

 ・オフライン(コミュニケーション)

  -ネットワークを経由せず直接会うこと

  使用例)オフ会、オフミ

 

 ※「オフミ」?

  調べたら「オフラインミーティング」の略でした。

  

〇インターフェイスの透明化

 ・インターフェイス(Interface)

  -もともとの意味:人と機械の境界面   

  ー具体的には、人が行う入力操作と、

   その入力に応じて機械が行なう出力(結果)で構成。

 ・一般的な道具:習熟することで透明性を獲得。

 ・ICT:技術力で透明性を実現(GUI)

    →オンラインとオフラインの違いが不明確に

  -パソコン操作ではなく、文書を直接書いているという錯覚

  -SNSとオフラインの会話が同質であると錯覚

 ※「インターフェイス」がいまいちよくわからず。調べました。

  この表現がいいかな?

  

  コンピュータと人間を結びつけている仕掛け

  引用:http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~hirai/text/cui.html

 

※「GUI」? 

  ここがわかりやすい!↓

  パソコン初心者講座 用語解説 CUIとGUI

  ここを読みましょう。

  

※「GUI」によるインターフェイスの透明化がどのような事態を招くか?

 次の投稿で書きます。  

  

 

東京での研修あれこれ1.URAWSS(ウラウス)

  

今日は8月14日。

  

8月9日・10日に東京に行って研修会に参加しました。

その研修会も十分収穫ありですが、

その他にも東京での収穫は大きかったです。

2日間のことはこのブログに書き留めておこうと思い、

今日から始めます。タイトルは「東京での研修あれこれ」としました。

  

さあ、何から書こうか。

  

この夏休みにやっておきたいこと(夏休みの宿題)の一つに、

読字障害・書字障害を見極める方法を知ることがありました。

その宿題に関する情報をもらいました。

小川修史先生(兵庫教育大学大学院学校教育研究科)の資料に

載っていて、 坂井聡先生(香川大学)の講座の中で出てきました。

  

小川先生の資料の引用

  

URAWSS (東大先端研が開発)

小学生の読み書き速度を評価し、

読み書きが苦手な子ども達に

支援技術等を活用した支援を行うために作成。

・学習の遅れの可能性を予測

・早期に対策を講じることが可能

 

読みの速度が遅い

・理解が不十分なままに教科書の学習が進んでいく可能性

 

書きの速度が遅い

・黒板を全部写す前に先生が消してしまう

・試験の途中で時間切れになってしまう

(こころソースブック出版会より引用)

  

 

ラストに引用元があったので、さっそくチェックしました。

こころソースブック出版会 ウラウス

Photo 2013年7月に発刊したようです。

  

このサイトに、こんな説明がありました。

  

そこで読み書きの速度を知ることで、

学習の遅れの可能性を予測し、

できるだけ早く⼦ども達に応じた対策を

講じることができると考えました。

URAWSS は、読み書き障害の診断を

主たる⽬的とするものではありません。

読み書きの遅さが明らかにされても、

治療教育や訓練ではその回復に時間がかかるため、

⼦どもが学習に遅れて⾏く現状に変わりはありません。

そこで、読み書きの遅さの結果を分析することで、

読み書きの困難さがどこから来ているのかを明らかにし、

⽀援技術の活⽤や教科書のデジタル化など、

すぐに⼦どもの読み書きを⽀援できる⽅策に

結びつくような結果の解釈を⾏います。  

   

そうなんです。

診断は後回しでいいのです。

今の子どもの現状を知って、対策を立てなくてはなりません。

  

この当時、「kintaのブログ」という

「特別支援教育,AT,AAC,コミュニケーション支援」

について書いているブログでも取り上げていました。

kintaのブログ 小学生の読み書きの理解 URAWSS ウラウス

(kintaさん・・・pp団のフェイスブックをのぞきに行くと、

よくお見かけします)  

ちゃんとkintaさんも目をつけています。

実際にURAWSSを使ってみた報告をどこかで見つけたい。

「消えた仕事図鑑」より「サンドイッチマン」

今日は8月14日。

  

「イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑」

(澤宮優著/平野恵理子絵/原書房)

より引用しています。

今回は「サンドイッチマン」

  

「サンドイッチマン」と聞けば、今はこのコンビを思い出します。

Header_img http://www.allnightnippon.com/program/sand/

画像検索しても、このコンビの写真が続きますが、

でも、時々今回話題にしたい職業の人の写真も出てきました。

絶滅はしていない模様。

  

「消えた仕事図鑑」からの引用です。

  

体の前後にポスターや商品の宣伝広告を掛けて、

街や店の前でおどけて宣伝する人。

食べ物のサンドイッチのように広告で

体の前後を挟むのでそう呼ばれた。 (164p)

  

戦前から戦後にかけて「銀座のチャップリン」と呼ばれた

サンドイッチマンたちがいた。

一人は洗濯屋の職人で、暗くなると資生堂の角で

ハーモニカを吹いた。

二人目は深川のラジオ屋職人の牧純信である。

昭和の初めの頃の宣伝方法はチンドン屋か

新聞の折り込みチラシしかなかった。

牧は鼻の下にちょび髭を蓄えチャップリンによく似ており、

「モダン・タイムス」に出てくるチャップリンの格好をして

自分の店の看板を持って歩くと、たちまち人垣ができた。

昭和8年、牧はサンドイッチマンになり、戦後、

「牧チャップリン宣伝広告会社」を設立。

男女50人のサンドイッチマンを雇った。 (164p)

  

こんな文章を読むと、牧純信さんに興味を持ちましたが、

検索しても引っかかりませんでした。

「消えた仕事図鑑」の参考文献を見ると、

この文章は昭和36年8月7日の「週刊朝日」が挙げられていました。

いつか見れるといいなあ。

  

この文章も気になりました。

  

昭和23年には、背中に広告だけでなく、

一斗入りの水桶を担いだサンドイッチマンも登場した。

水が管を伝って流れ、靴底のフェルト活字に染み、

歩くと地面に左足で「明るい宣伝ロードサイン」の文字を

右足で映画の題名が次々と道路にスタンプされるという仕組みで、

ロードサインと呼ばれた。 (164p)

  

気になるけど、これは図示されないとわかりませんでした。

「消えた仕事図鑑」の図を載せちゃいます。

Epson694  

こんなサンドイッチマンの後ろを歩いてみたいです。

これも検索したけどヒットしませんでした。

  

昭和28年に流行した歌『街のサンドイッチマン』(鶴田浩二)は、

実存のサンドイッチマンの心情を託して歌われたという。

(165p)

  

これは検索に引っかかりました。


YouTube: 街のサンドイッチマン

歌詞もいいですよ。

話はそれますが、鶴田浩二さんのWikipediaの説明は

けっこう読みがいのある内容です。

いろいろなことがあった人生だったのですね。

特攻隊との関係、映画のクレジットに関する逸話、

そして女性関係などなど・・・。

自分はほぼ「男たちの旅路」シリーズしか知らなかった。

あの吉岡役での渋味は、この人生、生きっぷりが作ったのですね。

Wikipedia 鶴田浩二

「消えた仕事図鑑」より「三助」

  

今日は8月14日。

  

「イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑」

(澤宮優著/平野恵理子絵/原書房)

は面白い本でした。

残念ながら期限が来て図書館に返してしまいました。

ポン菓子屋については以前書きましたが、

他の職業について、引用して書きとどめておきたいです。

  

今回は「三助(さんすけ)」

  

銭湯の下男。

昼は薪など風呂を沸かす材木を集め、

湯加減の調整、掃除をし、夕方は下足番、客の背中流しも行う。

とくに釜焚き、湯加減の調整、番台業務の銭湯の三つの

主な仕事を助けたから「三助」と呼ばれた。 (168p) 

主に富山県や新潟県出身者が多く、(中略)

一人前になるまでには十年かかり、

後に番頭になって番台に座ることもあった。

年季を積み、銭湯の経営者になるというシステムだった。 (168p)

  

なぜ富山県、新潟県出身者が多い?と疑問に思えますが、

流れができていったのでしょう。

  

平成21年当時は、東京都東日暮里にある

「斉藤湯」には都内唯一の三助がいた。

橘秀雪と言い、当時は72歳。

富山県氷見市の出身で、背中も流した。 (168p)

   

都内最後の三助である橘さんも引退されました。

(Wikipediaによると、全国で最後の1人だったようです→Wikipedia 三助

その橘さんの写真をアップしていたサイトがここ↓

伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ 行って来ました 三助さんがいる斉藤湯

これは2013年10月の記事。

この頃はまだ橘さんは三助の仕事をしていました。

背中流しは次の要領↓

  

背中流しは、番台で銭湯代の他に流し代(400円)を支払うと、

木札が渡される。

橘が、紺色の水着で現れ、固いタオルに石鹸をつけて、

上腕、両肩、背中を洗う。

洗い終わると、首、頭、腰、手をマッサージした。 (168p)

  

この木札の写真も多田稔さんのサイトで紹介してくれてありました。

55e283ea4d5d327645b8a10ad4a16156  

こんなのでした。多田さんはこんな風に調べていました。

引用します。

  

以前インターネットで調べたところ、通の客は

「流し」の木札をぬらして鏡に張って待っている、

と書いてあったので、湯船であったまってから

木札をぺたっとはって三助さんの登場を待ちました。 

  

楽しそうです。

他にも「斉藤湯 橘秀雪 三助」で検索するといろいろヒットします。

橘さん、有名人だったのですね。

  

このサイトも勉強になりました。

PAPER SKY 最後の三助|TOKYO BATHING | 東京 銭湯 1

2012年7月の記事です。

三助の仕事している橘さんの姿も見ることができます。

引用します。

  

橘は富山県氷見市の農家の四男として生まれた。

農家の跡を継ぐのは長男と決まっていたので、

彼は自分で働き口を見つけなければならず、

15歳で中学を卒業すると、ひとつの決意を胸に東京にやってきた。

その決意とは、銭湯で働くこと。

当時、大盛況だった銭湯業界に働き口はいくらでもあり、

橘もいくつもの浴場に番頭として勤め、

銭湯の掃除やボイラーを使ったお湯の管理など、

さまざまな仕事をこなした。 (中略)

昔は三助を呼ぶベルがあり、お客さんが男なら1回、

女なら2回鳴らすことになっていたという。

ベルで呼ばれるまではボイラーの前で、

ちょうどいいお湯加減になるように、

古い家具などを次々に燃やしていたそうである。

  

ちょっとビックリは女性の背中流しもしていたのですね。

  

今は大盛況でも、時代が流れたら消えていく仕事があるんですね。

教師の仕事もどうなるんだろう?

2016年8月12日 (金)

「きのこ雲の下で何が起きていたのか」その7/やけどの皮膚の色が着色された写真

  

今日は8月12日。

  

 

前投稿に引き続き、昨年の8月6日放映の

「NHKスペシャル きのこ雲の下で何が起きていたのか」

の聞き書きをしていきます。

   

ナレーター:フラッシュバーンの苦しみを

  目の当りにした人がいました。

  セーラー服姿で写っていた河内光子さんです。

  右側に写る男性、娘の河内さんに探しに来た父親でした。 

Rimg9720

  屋外で被爆して、大やけどを負い、手は腫れ上がっていました。

Rimg9721

  河内さんが父親に声をかけ、何気なく腕をつかんだ時、

  腕の皮がむけてしまったのです。

Rimg9722

河内さん:ズーッとむけたんです。

  手ですわ。皮がね。見たらベチャベチャですわ。

  それで(皮を)道の端っこへ捨てました。

  ウェ~と言って。

  「痛い?」と聞いたら「聞くな!」と怒られて。

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ナレーター:写真に写る皮膚の色を原田医師の監修で再現します。

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  写真には激しい痛みに苦しむ姿が、写しだされていたのです。

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やけどの皮膚の色を着色する。

こうすることで、その時の悲惨な状況が伝わる。

こう考え、実行したNHKがすごいなあと思いました。

「聞くな」と怒ったお父さんの気持ちがよくわかります。

  

まだ続くけど、次は違うネタです。

「きのこ雲の下で何が起きていたのか」その6/フラッシュバーン

 

今日は8月12日。

  

 

昨日の投稿に引き続き、昨年の8月6日放映の

「NHKスペシャル きのこ雲の下で何が起きていたのか」

の聞き書きをしていきます。

  

Rimg9695

ナレーター:原子爆弾はその年だけで

  14万人以上の命を奪いました。

  多くはやけどによるものでした。

  やけどをもたらした熱線。

  爆心地付近の地表温度は、3000℃以上となり、

  鉄をも溶かしました。

  御幸橋の写真には、熱線による原爆特有のやけどが

  写っていることがわかってきました。

Rimg9696

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  女性の顔は黒ずみ、目や口の周りが腫れ上がっています。

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  この人の手のひらは、大きく腫れていることがわかります。

  日本熱傷学会の元理事、原田輝一医師に、

  医学的に分析してもらいました。  

Rimg9699   

  原田医師が特に注目したのは、この女性と見られる人。

Rimg9700

  破れた服のようなものが、実は肩から垂れ下がる皮膚だと言います。

Rimg9701

原田医師:ここで見えるのは、でこぼこの皮膚ですので、

  かなり深いところで比較的短時間に

  皮膚がパッとはがれてきたということでしょうね。

  通常の生活をしているなかで起こりえる熱傷ではないですね。

   

ナレーター:通常では起こりえないやけどだとい原田医師。

  根拠として示したのが、戦後まもなく書かれたアメリカの論文でした。

  アメリカは、広島に原爆を投下した後、

  深刻なやけどが発生したことに気づき、

  密かに研究を行っていました。

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  その結果報告されたのが、フラッシュバーンと呼ばれる

  特殊なやけどでした。

Rimg9703

    

  女性のやけども、フラッシュバーンだったのではないか、

  原田医師が推定したメカニズムです。  

  強烈な熱線が当たると、皮膚に含まれる水分が、

  一瞬で水蒸気になります。

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  水蒸気で膨らんだ皮膚は、裂けて垂れ下がります。

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  これが原爆特有のフラッシュバーンです。

  この時、激しい痛みに襲われます。

  表皮と真皮でできている皮膚に、痛みを感じる痛覚神経が

  はりめぐらされています。

  フラッシュバーンによって、痛覚神経がむき出しになっていたのです。

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Rimg9714 ↑熱線を浴びた

Rimg9716 ↑水蒸気ができる

Rimg9717 ↑表皮がはがれる

Rimg9718 ↑痛覚神経がむき出しになる

  

原田医師:相当痛いと思いますね。

  痛覚神経というのは、皮膚の中の真皮層を通ってきて、

  真皮層はどこの層でもけがをすると痛いですね。

  ですから、その傷全てが深く神経を刺激していると思いますから、

  おそらく人間が感じる痛みの中で、

  最大の痛みを感じてたんではないかなと思いますね。

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皮が裂けて垂れ下がるというのは、このような仕組みだったのですね。

酷いことです。

「人間の感じる痛みの中で最大な痛み」

想像を絶します。 つづく。

2016年8月11日 (木)

8月8日 大給城址の写真 その3

 

今日は8月11日。

  

前投稿に引き続き大給城で撮った写真を載せていきます。

今回がラスト。

  

Epson693  

①「Ⅱの曲輪」にある石碑

Rimg9734

Rimg9693_2  

石碑には少々古い字体で「明治天皇碑」とありました。

どういう石碑なのでしょう?

事前の調べによると、「Ⅱの曲輪」が標高で最も高い場所です。

「Ⅰの曲輪(主郭)」よりも高いです。

大給山の頂上付近にあるこの石碑については、また調べよう。

 

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⑤「水の曲輪」ゾーンに移ります

しっかりした石塁が築かれています。

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他にも石塁の写真を撮りました↓

Rimg9761  

戦国時代に積んだ石塁?

積んだ人たちの姿をいろいろ想像しました。

この日は私一人でしたが、

その時はこの場所は人がにぎやかだっただろうなと思いました。

  

Rimg9755  

Rimg9757  

⑨大給城の北、下の方から上を見上げました。

Rimg9758  

両側に崖、そして土塁・石塁群。

そして城からの攻撃。

見上げると攻めるのが嫌になってしまう景色でした。

  

⑩この道の先には石塁があるとのこと。調べました。

Rimg9764  

⑪ありました!資料通りでした。

Rimg9765

Rimg9766  

以上、やぶ蚊と闘いながらの城址見学でした。

最後に見納めで⑫の写真を撮りました。

Rimg9767

堀切によって細くなった道。

東から攻めるのも難しそうでした。

  

以上です。

古宮城、大給城。

お城の勉強の楽しみ方が少しわかってきた気がします。

8月8日 大給城址の写真 その2

  

今日は8月11日。

  

前投稿に引き続き大給城で撮った写真を載せていきます。

  

Epson692  

①「Ⅰの曲輪(主郭)」から見た石塁

Rimg9700_2  

Rimg9701_2  

立派な石柱がありました。

Rimg9703_2  

背面にこの石柱のできた年が刻まれていました。

字が少々古くさいなあとは思いましたが、

予想以上に古い石柱でした。

Rimg9718

「大正五年一二月」とあります。

けっこう以前から大事にされていた場所なんですね。

  

いよいよ物見岩です。

「英雄の選択」を見てから、

この岩からの景色を楽しみたいと思っていました。

 

Rimg9706_2

④物見岩

Rimg9707_2 

物見岩には穴が開いています。

Rimg9708_2

Rimg9710  

では物見岩からの景色

Rimg9712

Rimg9713

住宅街。後でこの住宅街の路上から、大給山を撮影しました。

  

Rimg9716

  

主郭から南の方へ下りてみました。

⑥館があったと思われる場所。

草ぼうぼうでした。

Rimg9729  

ここから主郭に向かうジグザグの登り道を歩きます。

Rimg9730  

Rimg9731  

Rimg9732左下から右上の道。これを登ると主郭

(トイレが見えている。そこが主郭)

 

このジグザグの登り道は、なかなか効果的です。

敵は簡単には主郭に迫れません。

巨石もゴロゴロしていて、

それが防御の役目をしていると感じました。

実際に大給城にやってきて歩き、

巨石、石塁、土塁、崖、堀切などは

すごく効果的だと思いました。

それは、古宮城址に行った時にも感じたことです。

城からの攻撃を受けながら、城に侵入することは

非常に難しかったと思います。

  

⑩再び主郭全体

Rimg9733   

つづく

8月8日 大給城址の写真 その1

  

今日は8月11日。

  

今晩は8月8日に行った「大給城(おぎゅうじょう)址」のことを書きます。

大給城址の位置については以前の投稿で地図で示しました。

ここでも道草 大給城に行ってみたくなりました(2016年7月22日投稿)

私は岡崎を北上して、巴川沿いの道を走り、

国道301号線に入って東に向いました。

大給城址に向かう道はわかるかなと気にしていたら、

次のような案内と石碑がありました。

 

Rimg9667_2

Rimg9668_3

石碑には「大給城趾とふれあいの道/開通碑/交通安全/

昭和52年4月8日完工」とありました。

まあこれがあればわかりやすいと思って、

301号線を右折しました。

  

しかし、ここからが難しかった。

  

途中で駐車場があったけど、通り過ぎていくと、

「大給城」の看板があり、それにつられてどんどん進んでいくと、

細い道をS字カーブで上がって行くことになり、

少々危なっかしい思いもして、

何と民家に入って行く道になってしまいました。

もう一度駐車場のあるところまで戻って、確認しました。

  

これが駐車場。

Rimg9669_3  

駐車場を過ぎて、少し登ったところにちゃんと看板がありました。

Rimg9670_3

↑自動車をとめて、奥に行きます。

Rimg9673_3

↑左手にこの看板があります。

「大給城址」が下向きの赤い矢印になっているのは、

道がこの後少し登ってすぐに下るところに、

城址への入口があることを示していたと、後で思いました。

  

これが入口です。

Rimg9674_4  

これを一度は見逃して、通り過ぎて危なっかしい体験をしました。

これから行く人は見逃さないようにしてください。

道路の右側にあります。

  

  

この日は暑い日でした。

山中でしたが、暑かったです。

それは想定内でしたが、油断していたのは、やぶ蚊。

ずっと身近にいて、攻撃してきました。

出直そうかと思うほど煩わしかったです。

目の付近を攻撃してきたのが一番厄介でした。

  

こんな道を進みました。

Rimg9675_3   

左に行くと「大給城址」の看板。

しかしまずは右に行きましょう。

Rimg9768

上の写真のように、右手の方から上がってきて、

看板の前で右に行くと、「松平乗元の墓」があります。

Rimg9677_3

Rimg9679_3

Rimg9680_4

Rimg9678_2  

まずはこちらを見ておいて、さあいよいよ大給城址です。

大給城址には東側から入って行くことになります。

  

前勉強をしておいたのは、実際に見る体験です。

ワクワクです。

※参考:ここでも道草 今日の午後、大給城に行く予定です(2016年8月8日投稿)

確かめましたよ。そしてたくさん写真を撮りました。

  

どこから撮影したものか、

できるだけ思い出して地図に落としました。

ベースになった地図は、城址に案内の地図を使わせてもらいました。

Epson691  

石碑

Rimg9683

①堀切

Rimg9684

②虎口

Rimg9685  

③ ②の反対側からの虎口

Rimg9688_2虎口の両側は櫓台になっているそうです。

  

④曲輪(くるわ)に入る虎口

Rimg9689_3 8月8日の投稿だと「Ⅲの曲輪」に入る場所。

虎口の左手には櫓台あり。

  

⑤「Ⅲの曲輪」

Rimg9690_4  

⑥「Ⅱの曲輪」から見た石塁

Rimg9694_3  

⑦石塁の左隅から「Ⅰの曲輪(主郭)」へ

Rimg9695_3 小さな建物(トイレです)の前を通ると主郭に入る。

ここが主郭の虎口です。

  

⑧「Ⅰの曲輪(主郭)」

Rimg9696_4

 

次の投稿につづく。

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