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2013年1月

2013年1月21日 (月)

兵庫での2日間4・・・斎藤喜博先生の映像

 

今日は1月21日。

 

安徳宮を少し見たあと、急いで相生市に向かいました。

第2回『朝まで語ろう!M&M(俵原正仁&古川光弘)パワーアップセミナー』に出席するためです。

1時開始で、会場に入ったのが1時。ギリギリでした。

懐かしい人にもすぐに何人か会いました。

40歳以後、神戸市で一緒に勉強してきたメンバー。

今回は相生市ですが、人を見て、またここに来たと感じました。

 

 

3人の講師の先生の話を聞きました。

内容をここにまとめ、自分の血や肉にしたいと思います。

 

第1講座 斎藤喜博から今、改めて学ぶプロの極意/古川光弘先生

・斎藤喜博先生の映像を見ながらの講座

・この映像は、2005年1月20日放映の番組だと後からわかる。

 「わくわく授業 私の考え方 表現させ学ぶ力を伸ばす 斎藤喜博先生の表現学習」

・なんと!この番組、私は録画してありました。近いうちにまた見てみよう。

・斎藤先生の授業から見えてくるポイントとして4つを挙げられた。

 ①子どもが見える

   できない子がいると、できない原因が「見える」

 ②手入れをする(これは斉藤先生の言葉 「指導する」と置きかえてもいい)

 ③引き出す

   子どもたちの中にある無限の可能性を引き出す

 ④ゆさぶる

   発問によって子どもをゆさぶる。

   「出口の授業」・・ゆさぶり論争。同じ言葉でも、解釈はいろいろであること。

・詩の音読授業・・・変化のある繰り返しが行われていた。

・教師が朗読するのを斉藤先生が指導する映像

 「すぐに指導するのが大事」

 「何回注文できるかが教師の力量」

 子どもに対して、即座にどれだけ的確な指導ができるかが力量。

 さらに、子どもの前で教師が模範を示さなくてはならないので、

 「教師は一流の表現者でなくてはならない」

・斎藤先生の言葉・・・教師の仕事とは何か。

             教師も一緒になって考えていくのが授業。

             浅はかな知識を教えて評価するのではダメ。 

・古川先生が中心になって作られた本が紹介された→「『ゆさぶり発問』の技」(明治図書)

・さらに桔梗友行先生の発問の本も紹介→

 「子どもの力を引き出す新しい発問テクニック」(ナツメ社教育書ブックス) 

 いい機会をもらったので、映像を見たり、本を読んでみよう。 (つづく)

 

 

 

2013年1月20日 (日)

兵庫での2日間3・・・歴史館/松王丸

 

今日は1月20日。

 

神戸の歴史館の中で見たものを紹介します。

 

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十二単の重さを味わうための装置。

2つのレバーを肩で持ち上げます。

ナイスアイディア。重さを実感できました。

10kgを常に身につけているのは確かに重い。

 

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松王丸と言われる人の像。

誰であるか全くわかりませんでした。

像の下にあった説明を読みました。

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こう書いてありました。

 

松王丸像  勝福寺蔵(須磨区)

大輪田泊の改修工事は困難を極めたため、

清盛は陰陽博士の阿部秦氏に占わせた。

「島を築くには、海中の龍神の怒りを鎮めねばならぬ。

そのためには、生きながら三十人の人柱を海中に沈めて龍神に捧げ、

それを基礎として工事をすればよい」

ということであった。

そこで、生田の小野に関を設けて旅人狩りが始まった。

捕らえられた人々の声が、和田の松原に響きわたったという。

清盛の侍童に、讃岐の大井民部の子で、

松王丸という十七歳の少年がいた。

松王丸は、「人柱などというむごいことはやめてください。

私がよろこんで三十人の身代わりになりますから」と、

くり返しくり返し清盛に訴えた。

ついに清盛もその申し出を聞き入れ、

白馬にのせた石櫃に入れられて、松王丸は海中に沈められていったという。

人々は大小の石に一切経を書き写し、松王丸とともに海中に投げ入れ、

それをいしずえとして、やがて築島(つきじま)を完成することができた。

この書き写されたお経から、

築島は「経ヶ島(きょうがしま)」と呼ばれるようになった。

参考書籍 神戸の伝説

 

そんな話があったのですね。

人柱という発想が怖い。

旅人狩りを命じた平清盛もむごい。

今ではありえないことですが、当時はあったのでしょうか。

龍神などという物の怪もしっかり存在していたのでしょうか。

 

最近映画「陰陽師」(2001年)を見たためか、

現代の人が見ることができない物の怪を、当時の人たちは見ることができた?

 

17歳で亡くなった松王丸。

このブログに書き記しました。



大鵬さん、亡くなる

 

今日は1月20日。

今晩から明日の午前中にかけてブログを頑張る。

 

昨日、大相撲の横綱大鵬が亡くなったというニュースを聞きました。

我が家は相撲が大好きだったので、子どもの頃は相撲中継をよく見ていました。

大鵬も見ていました。ヒーローでした。

貴ノ花に敗れて、引退したことも知っていました。

僕よりおそらく4~5歳若い人に、大鵬の話をしたら、

よくわからないという返事。

え!そうなの?

私は鮮明だったのに・・・・あの引退した取り組みがいつだったのか知りたくなりました。

 

016

今日の新聞にちゃんと書いてありました。

1971年夏場所のことでした。

5月13日のことでした。

私は10歳。

確かに、ここで4~5歳の違いは大きい。

記憶にないのも納得。

 

ちなみに1971年の夏場所の番付表を見て、懐かしい名前を並べてみます。

生まれ年、亡くなった年も調べてみました。

 

横綱 大鵬(1940~2013年)

    玉の海(1944~1971年 蒲郡出身!)

    北の富士(1942年~ )

大関 大麒麟(1942~2010年)   

    清国(1941年~ )

    琴櫻(1940~2007年)

    前の山(1945年~ )

関脇 大受(1950年~ )

    長谷川(1944年~ )

小結 貴ノ花(1950~2005年)

 

その他で覚えている人は・・・

陸奥嵐(1943~2002年)

龍虎(1941年~ )

黒姫山(1948年~ ) 

高見山(1944年~ )

金剛(1948年~ )

増位山(1948年~ )

三重ノ海(1948年~ )

輪島(1948年~ )

富士桜(1948年~ )

魁傑(1948年~ )

 

夢中になった力士の面々。

皆さん、いいお年になりました。

 

 

 

 

兵庫での2日間2・・・安徳宮

 

今日は1月20日。

16日の投稿のつづき。

安徳宮に行った時の写真を載せます。

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上の表示版には次のように説明が書いてありました。

 

安徳宮

祭神 安徳天皇(第81代) 1178~1185

源平の戦で源氏に追われた安徳帝は平家一門に奉じられて

西走の途中、一の谷に内裏を置かれたと伝えられている。

この地に安徳帝のご冥福を祈るために祀られたのが安徳宮である。

安徳帝は寿永4年(1185)下関壇ノ浦の戦にて

祖母二位の尼(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれ、8才で海中に身を投じられた。

御神徳 子供守護  水難厄除  学業達成

年祭4月24日

 

この場所が、内裏があった跡地だったようです。

 

細い道が入り組んだ小さな住宅街の中にありました。

この住宅街の上に「義経道」があるのですが、

時間がなくて確認ができませんでした。

 

その義経道に至る手前に、ヤシの木などの南洋系の植物が

ジャングルのようになっている場所があると、

歴史館のガイドさんが教えてくれました。

かつてその場所に「南洋植物園」があったのですが閉園。

そこに植わっていた植物が育っているとのこと。

それも確かめたかったです。

 

「義経道」「南洋植物園跡地」も、次の機会のお楽しみ。

 

 

安徳天皇といえば、この投稿に出てきた「横倉宮」も気になります。

壇ノ浦の戦いで死なずに生き延びた安徳天皇が過ごしたと言われる、

高知県越知町の神社です。 ※参考:テレビで勉強「壇ノ浦の戦い」

2013年1月17日 (木)

今は朝焼けが楽しめる時

 

今日は1月17日。

 

私が出勤で家を出発するのは、

自転車でも自動車でも6時50分~7時くらいです。

日の出が6時58分くらいですから、

通勤途中に山並みの向こうから日の出を見ることができます。

 

つまり、今の時期は「日の出」と、日の出直前の「朝焼け」を楽しめる時なのです。

夕焼けもいいけど、朝焼けも心がうれしくなります。

 

最近の写真。

 

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1月10日の朝焼け。

雲がいいところに、そこだけにあったのが面白かった。

 

 

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7月16日の朝焼け。

撮影場所は違いますが、山は同じようです。

 

 

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1月17日の日の出。

雲がうっすらあって日差しがさえぎられた太陽。

きれいに見えました。

 

これからだんだん日の出時刻が早くなり、

今は普通に見られる朝焼け・日の出も見られなくなるでしょう。

今だから楽しめる物を楽しみたい。

 

 

 

 

兵庫での2日間1・・・まずは歴史館へ

 

今日は1月16日。

 

いろいろブログに書きたいことがありますが、

1月12日・13日に神戸に行ったことも書き始めたいと思います。

 

1月12日。

同じ学校に勤める新任の先生と一緒に、自動車で兵庫県へ。

午前中にやりたかったことは、一の谷の戦いゆかりの場所に行くこと。

特に、「歴史秘話ヒストリア」で見た

義経道」「多田行綱が通ったとされる道」を見たいと思いました。

※参考:テレビで勉強「一の谷の戦い」

しかし、事前の調べが不十分で、具体的にどこなのか不明でした。

 

そんな時に耳寄りな情報。

大河ドラマ「平清盛」放映に合わせて、

2012年1月から神戸に「歴史館」がオープンしていました。

閉館が2013年1月14日。やった、間に合う。

 

この「歴史館」に行けば、一の谷の戦いゆかりの場所について詳しい人がいる可能性あり。

「歴史館」がこの日最初の場所に決めて向かいました。

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・・・・これが歴史館。

 

ありがたいことに、ガイドさんがおられて、一生懸命教えてもらいました。

その時に教えてもらったことのあらましを言うと、

「多田行綱が通ったとされる道」は、

氷室神社の近くにある長福時付近が出口と思われるとのこと。

歴史秘話ヒストリアでの「義経道」は安徳宮の上であると教えてもらいました。

 

説明を聞いた後、あまりに時間がなく、

長福寺付近には行きましたが、駐車場を探す暇なく、安徳宮へ。

安徳宮に行きましたが、5分ほどしかいることができず、

「義経道」は確認できませんでした。

せっかく来たのにという気持ちはありましたが、

仕方がありません。

いつになるかわかりませんが、後日のお楽しみです。(つづく)

 

 

 

2013年1月15日 (火)

「ヒストリア 天文」より3・・・「さそり座」は「あきんど星」

 

今日は1月15日。

 

前日の投稿のつづき。

番組「歴史秘話ヒストリア いつだって天文ゴールドイヤー

星々と日本人 はるかな物語」(昨年9月12日放映)からです。

 

星々を見て、昔の日本人はこんなことを思い描いていたそうです。

 

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これは西洋では「さそり座」。

昔の日本人は、アンタレスを中心に3つの星で「あきんど星」と呼ばれたそうです。

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重い天秤棒をを担いで、赤い顔をしている行商人に

見立てたからです。

 

 

次は北斗七星。

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戦国時代には、剣の形に見立てられ、武将たちの守り神とされていました。

武田信玄が愛用したと言われる軍扇(ぐんせん)には、

北斗七星が描かれていました。

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実際にこの軍扇を使って、軍勢を指揮したようです。

 

 

次は清少納言の言葉。

 

星はすばる ひこぼし

ゆふづつ(金星)

よばひぼし すこしおかし

 

よばひぼし」とは流れ星のこと。

好きな女性の寝室に行きたいという男の下心が、

流れ星になって現れたとのこと。

 

こうやって星を見ていろいろな想像をするのは、

昔の日本人が星をよく見ていた証拠でしょう。

明かりがあまり発達していなくて、テレビなんてもちろんない時代、

星を見る時間は昔の方が格段に多かっただろうなあ。

 

(つづく)  

追記:1月27日に続きをうちました。

「ヒストリア 天文」より4・・・渋川春海




 

 

2013年1月14日 (月)

「陽動作戦」の「陽」の意外な意味

 

今日は1月14日。

 

今日も久々、空凛(ソラリン) さんのメルマガ「言葉拾い」から。

昨日届いたばかりの内容は特によかったです。

」に関する内容でした。

 

一部引用。

 

■   陽動作戦(ようどうさくせん) ■


意表をついた挑発的な行動をとって敵の注意をそらせ、

情勢判断を誤らせようとする作戦。

「陽動」(ようどう)とは、

他人の注意をそらすために、わざと目立つように、

本来の目的とは違った動きをすること。

この「陽動」ですが、字面だけ見ると、

太陽の下で正々堂々と行動するようなイメージですが・・・

そこで「陽」の意味を再チェックです。

「陽」・・太陽のあたる山の側面の意

1、太陽

2、ひなた

3、山の南側

4、うわべ、表面

5、いつわる。いつわり。

「陽」のもつイメージとは反対の“うわべ”や“いつわり”の意味がありました。

「陽言」(ようげん)“いつわっていうこと”

という語も辞書にありましたが、ほとんど目にしたことがありません。

“うわべ”や“いつわり”の意味での「陽」はほとんど使われていないようです。

 

 

引用は以上です。

「陽狂(ようきょう)」という言葉も見つけました。

「佯狂」という漢字も使われます。

意味は「狂人のふりをすること」

これも”いつわり”の意味の「陽」の使い方ですが、

「陽狂」もあまり使われません。

「陽動作戦」が今も現役で孤軍奮闘している感じです。

 

「陽」にはこんな意味があったのですね。

それを「陽動作戦」から、疑問に思って調べて行きついたのが素晴らしい。

こんな追体験ができるから、メルマガ「言葉拾い」が大好きです。

 



「ヒストリア 天文」より2・・・天の異変は地上で起こる災いの予兆

 

今日は1月14日。

 

少し間が空きました。

12~13日の兵庫県に行っていました。

一の谷の戦いゆかりの場所調べ。

教育関連講座への参加。

そして氷ノ山登山。

なかなか充実した2日間でした。

その報告は、いずれこのブログで。

 

3連休ラストの今日は、やりたいこと・やらねばならないことがドッサリです。

でも一つ一つ片付けていきます。

 

以前少し書き始めたことを進めます。

1月9日の投稿のつづき。※「ヒストリア 天文」より1・・・昔もあった星座

 

天武天皇が国をあげて天体観測をした最初の人でした。

オーロラや彗星を観察したことが日本書紀に書かれています。(684年)

記録に残る彗星は、ハレー彗星が日本で最初に見た記録と言われているそうです。

ではなぜ、天武天皇は天体観測をしたのかというと、

中国の歴史書「晋書(しんじょ)」を参考にしたからだそうです。

 

晋書にはこう書いてありました。

 

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オーロラのあとには兵乱が起こる

 

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彗星が見えるとき大水害が起こる

 

天の異変は地上で起こる災いの予兆であって、

天が発する人間への警告とされていたからです。

特に恐れられていた天体異変は日蝕でした。

晋書にはこう書かれていました。

 

君主に過失があれば、

日は必ずそれを知らせる。

日の色が消えうせるとき、

国は衰退する。

 

日本でも同じように考えられていました。

なるほど。

これなら、天武天皇は天体観測をしたくなるなあ。

  

   

番組「歴史秘話ヒストリア いつだって天文ゴールドイヤー 

星々と日本人 はるかな物語」(昨年9月12日放映)からでした。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

2013年1月10日 (木)

ドラマが目白押し

 

今日は1月10日。   

 

新学期始まって慌ただしい中、今晩から始まったドラマ「科捜研の女」

のスペシャルを見てしまいました。

1月は困ったことに、気になるドラマがどんどん始まります。

6日(日)ー「八重の桜」

10日(木)ー「科捜研の女」

11日(金)ー「信長のシェフ」

        「火怨 北の英雄 アテルイ伝」

12日(土)ー「ネオ・ウルトラQ」

13日(日)ー「とんび」

14日(月)ー「ハンチョウ」

16日(水)ー「相棒」

3学期、これらのドラマと上手につきあいながら、仕事がちゃんとできると良いのですが。

いやいや、やらなくてはね。

さっそく今晩は夜ふかし。

まだもうひと仕事しないと寝られない。

 

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