2019年3月 3日 (日)

20190223報告その3/キミヤーズ塾 数列や循環小数を教えるのは自己中だから

 

今日は3月3日。

  

2月24日の記事の続きです。

 

キミヤーズ塾に参加しました。

ちょうど10回目です。

2月23日のことでした。

もう1週間経ってしまいました。

思い出して、勉強になったことを書き留めておきたいです。

  

バーレスク(風刺劇)で、村上公也先生の実践を

裁判する3回目でした。

練習をかなりしたようで、演技の質がとても高かったです。

裁判員としてどの罰を与えるか3択でした。

①無期懲役

②教育活動の停止

③無罪

私は隣の人と相談して、無期懲役に挙手しました。

思ったより少なかったです。

  

②はもったいないと思いました。

やはり村上先生のこれからやることを見ていたいという

気持ちは強いです。

会場で圧倒的に多かったのは無罪でした。

でも本当に無罪かと思った時に、

嘘を教えたり、話を聴く姿勢はどうでもよかったりと、

目の前の子どもたちが社会に出た時に「通用する」かという

視点で見ると、不安を感じます。

社会に出て困ってしまう子どもが想像されるので、

それはやはり罪なのではと思いました。

だから私は無罪を選びませんでした。

  

赤木先生が、「教師って誰もが罪を犯していませんか」と

この日のどこかで言われました。

ハッとしました。

子どもをどう導くかは、教師によって様々です。

本当に教えるべきことを教えていますか?

目の前の子どもは、社会に出て「通用する」子どもに

成長していますか?

どこか無責任で、成長しないのは子どものせいだと

逃げていませんか?

正しいことを本当に教えていますか?

忙しい日々、教材研究を疎かにして、

教える内容の真偽も確かめず、ただ伝えていませんか?

伝えるだけでなく、自分の主義を無理強いしていませんか?

給料をもらっている分のことをしているのでしょうか?

税金の無駄使いをしていないでしょうか?

 

そんな自問をしていくと、誰だって無罪ではないように思えます。

村上先生の実践がわかりやすいだけのことのように思えます。

  

  

〇キミヤーズ塾は16回目。

 私は10回目。連続ではありません。一度休みました。

 教員免許状更新の研修会があったためです。

 つまり私は6回目からの参加となります。

〇キミヤーズ塾のテーマに「正しいということを、

 再考してみよう」と言うのがあります。

 ここが上の話とだぶります。教師は思いこみでやっていて、

 正しいと思ってやっていることが、実はおかしいのでは。

 だからキミヤーズ塾で再考してみようというわけです。

〇特別支援の目的は、定型の子どもたちに近づけることか?

 普通に近づけることか?

〇考えない定型の子どもが多すぎる。

〇「欠点も長所も一体のもので、上辺の欠点をなくせば、

 中身の大切なものもなくなるかも!・・・注意深く考えて」

〇「『正しいこと』を、そぉーっと強制すな!」

 

 

〇ネガティブ・ケイパビリティ=答えの出ない事態に耐える力

 ※初めて聞く言葉。その例として「数列の規則性を考え出す」実践。

〇循環小数を分数に変換  そのやり方を教えてもらう

 0.22222222・・・・の場合。

 X=0.22222222・・・

 10X=2.2222222・・・

 10XーX=2

 9X=2

 X=2/9(9分の2)

  

 0.123123123・・・・の場合

 X=0.123123123・・・・

 100X=123.123123・・・

 100XーX=123

 99X=123

 X=123/99(99分の123)  

 約分して41/33(33分の41)

〇この日麻生武先生が言っていました。

 どの先生も、数列や循環小数を子どもに教えたいとは思わない。

 でも村上先生はこれが面白いと思っているから、生徒に教えています。

 いかに面白いか伝えたくて仕方がない。

 この自己中心的(ジコチュー)なのが村上先生。 

 ※今の私にはテレビを見て社会を勉強することが面白いと思い、

  とにかく社会科の授業ではそのことをベースにして教えています。

  授業だけでなく、家でテレビを見て勉強をするといいと勧めています。

  このやり方を後押ししてもらう発言でした。

 ※こういうジコチューなところが、その先生の「らしさ」

  大切に、そして貫き通したいところ。

〇ニキリンコ「私には背中がない。みんなは背中があるけど」

 見えないものはないと考えてしまう。自閉症の障害。

 ※ニキリンコさんについて興味をもちました。

 さっそくこの本を図書館で予約しました。↓

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自閉っ子、こういう風にできてます!

(花風社)

 

〇「マッハの自画像」の話が出る。

 どんな絵であるかは知りません。さっそく調べてみました。

Photo_2 なんとなくサンネット日記

これが「マッハの自画像」です。

上の話とのつながりで、自閉症の人は

見えるものを認識できるけど、

見えないものは想像できないこともあるということでである

この絵が紹介されたと思います。

「自画像」というと、鏡に映った姿を描くのが普通ですが、

この「自画像」は、左目から見える自分を描いたものです。

 

この絵を描いたのは19世紀末に活躍した

物理学者であり哲学者であるエルンスト・マッハ。

昔からあった絵だと思いますが、やっと出合えました。

  

  

つづく

 

 

2019年3月 2日 (土)

くじけない後醍醐天皇その4/後醍醐天皇陵は北向き/尊氏の弔いの言葉

 

今日は3月2日。

  

前投稿に引き続き、2011年2月2日放映の

歴史秘話ヒストリア 折れない、負けない、くじけない

~風雲!後醍醐天皇がゆく~」より。

  

奈良県吉野にある如意輪寺。

このお寺の裏手に後醍醐天皇は葬られています。

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後醍醐天皇が葬られている後醍醐天皇陵

塔尾陵(とうのうのみささぎ)」です。↓

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この天皇陵は、北を向いています。

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これは天皇陵としてはほとんどないそうです。

なぜ北を向いているか?

ここから聞き書きです。

 

ナレーター:崩御する直前、後醍醐天皇は、

  こう遺言したと言います。

  

  玉骨(ぎょっこつ)は縦(たとい)

  南山(なんざん)の苔(こけ)に埋(うずも)るとも

  魂魄(こんぱく)は常に

  北闕(ほっけつ)の天を望まん

  ※「北闕」は「京都」を指します。  

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  たとえ我が亡骸(なきがら)は吉野の山の苔に埋まろうとも

  魂は北、京の都の空を常に見ていようと思う。

   

  京都に向けて作られたこの御陵は、

  まさに後醍醐天皇の最後まであきらめないという気概を

  現代に示し続けているのです。

  

  それでは最後にもう一つ。

  後醍醐天皇が亡くなった後、とても意外な人物から

  その人柄を懐かしがられています。

  その人物とは誰でしょうか?

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授業では、ここで一時停止して、生徒に聞きました。

「誰だと思う?」

けっこう当たっていました。

  

ナレーター:京都市西部、嵐山。

  後醍醐天皇の死後、その御霊を弔うお寺が建てられました。

  美しい庭園で名高い天龍寺。

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  創建したのは、後醍醐天皇と争ったあの足利尊氏です。

  尊氏は、天龍寺を京都で最も格の高い寺院のひとつと位置づけ、

  厚く保護し続けました。

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  何事もなければ、一(いち)武将で終わったであろう尊氏の運命は、

  後醍醐天皇の挙兵に応じることで、大きく変わりました。

  人生の転機をもたらしてくれた後醍醐天皇を尊氏は、

  弔いの場でこう懐かしんでいます。

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  自分はいまや室町幕府の将軍になりました。

  もともと一人の武士にすぎなかった自分が、

  ここまでなれたのは、帝のおかげです。

  どうして感謝しないでいられましょうか。

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  あきらめない生涯を貫いた後醍醐天皇。

  その生き方で、本当に動かしたのは、

  人の心だったのかもしれません。

   

  

聞き書きは以上です。

足利尊氏の弔いの言葉が印象的です。

後醍醐天皇の実行力が、尊氏の人生を変えました。

後醍醐天皇が動かなければ、

そのような人生をたどらなかったと思います。

人との出会いは大事です。

そんなことを思った言葉です。

  

天龍寺については、かつて少しだけ調べました。↓

ここでも道草 4連休の話/夢窓疎石が庭園を設計した永保寺(2017年12月3日投稿)  

天龍寺の庭の設計をしたのは、夢窓疎石(むそうそせき)という方でした。

  

  

くじけない後醍醐天皇その3/井伊谷の宗良親王

  

今日は3月1日。

  

前投稿に引き続き、2011年2月2日放映の

歴史秘話ヒストリア 折れない、負けない、くじけない

~風雲!後醍醐天皇がゆく~」より。

  

建武の新政が始まって2年、

後醍醐天皇と足利尊氏の争いが起こります。

話はそこから。

  

ナレーター:戦いを制したのは足利尊氏でした。

  京都を占領した尊氏は、次の天皇を擁立。

  新たに室町幕府を開きます。

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  後醍醐天皇は、再び京の都で幽閉され窮地に陥りました。

  ところが、やはりここで終わらないのが、後醍醐天皇です。

  その反撃は、またもや都から脱出することから始まりました。

  天皇が逃れたのは、大和の国、今の奈良県吉野。

  後醍醐天皇はここで尊氏側の天皇とは別の朝廷、南朝を開きます。

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  京都の北朝と吉野の南朝が相争う南北朝の争乱の始まりです。

  この時、近畿の武士の大半が、北朝足利尊氏についたため、

  南朝はきわめて不利でした。

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  しかし、後醍醐天皇は奥の手とも言うべき策をうっていたのです。

  それは、自分の子ども、皇子たちを、遠い地方に派遣することでした。

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  静岡県浜松市の井伊谷宮(いいのやぐう)。

  皇子のひとり、宗良親王(むねよししんのう)が祭られている神社です。

  南北朝の動乱が始まるや、後醍醐天皇は、

  宗良親王を東に向けて派遣。

  ここ井伊谷は、親王が最初に拠点にした所縁(ゆかり)の地です。

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  この地にたどり着いた親王には、地元の武士、井伊氏が味方し、

  北朝方との戦いを始めます。

  その後、親王は各地を移動しては、武士を味方につけ、戦い続けたのです。

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  こうして後醍醐天皇は、6人の皇子を、北は東北から、

  南は九州まで、次々に派遣します。

  皇子たちによる戦いの火の手が、続々と上がりました。

  皇子派遣のねらい、それはかつて後醍醐天皇自身が、

  楠木正成たちを味方にした時と同じ状況を各地に

  作り出そうとするものでした。

  中でも、東北では伊達政宗の先祖伊達一族を従えて、北朝側と激戦。

  やがて京の都に攻め上ろうと、関ケ原付近まで到達しました。

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  しかし、京都に近づくにつれ、北朝室町幕府の軍勢は

  厚みを増していきます。

  大軍を前に、南朝側は苦戦。ついに皇子までもが

  命を落とす事態まで追い込まれ、敗退しました。

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  後醍醐天皇の策は行き詰まります。

  北朝にも天皇がいる今、劣勢続きの後醍醐天皇が、

  いくら権威をかざしても、自分の損得を優先する武士たちには、

  通用しなくなっていました。

  あらゆる逆境にもくじけなかった後醍醐天皇。

  でも、今度は時間がありませんでした。

  

  「こととはむ 人さへまれに 成りにけり

        我が世のすゑの 程ぞしらるる」

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  私が話しかける相手も今や稀となってしまった。

  人生に終わりが見えてきたのだろうか。

  

  それから間もなく、後醍醐天皇は、吉野で世を去りました。

  享年52。まさに激動の生涯でした。

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  後醍醐天皇の死後も、南北朝の動乱はおよそ50年続きます。

  しかし、南朝が世を治める日が来ることはなかったのです。   

  

  

南朝ができて以後、後醍醐天皇側がこんなに奮戦していたことを

この番組で初めて知りました。

ナレーターの言った「やはりここで終わらないのが、後醍醐天皇ですが、

この番組を見るとよくわかります。

  

驚きは井伊谷と宗良親王とのこと。

2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」が放映された時に、

直虎所縁の地として井伊谷を訪れています。

※参考:ここでも道草 ゆかりの場所巡り その1/8時間で回った場所一覧(2017年2月21日投稿)

※参考:ここでも道草 20180203観音山報告その6/井伊直宗正室の墓他(2018年3月17日投稿)

その時に「宗良親王」という名前にも出合っていますが、

残念ながらその時は勉強不足。

宗良親王が、後醍醐天皇の息子であって、南朝に味方する武士を増やすために

井伊谷に来たことを知っていたら、もっと意識して見学したのになあ。

無知はもったいない。でもまた行こう。幸い近いので。

 

  

後醍醐天皇の和歌もいい。

 

「激動の生涯」だった後醍醐天皇。

52歳で亡くなったのですね。

私よりも年下。

後醍醐天皇よりも長生きしていることを幸せだと思いたい。

後醍醐天皇は、もっと生きたいと思ったであろうに。

  

つづく。

  

書き出したのは3月1日でしたが、もう2日になってしまいました。

2019年2月28日 (木)

くじけない後醍醐天皇その2/討幕の発火点になった船上山

今日は2月28日。

  

今年の2月最終日。もう1本書きたい。

  

2011年2月2日放映の

歴史秘話ヒストリア 折れない、負けない、くじけない

~風雲!後醍醐天皇がゆく~」より。

  

隠岐に流された後醍醐天皇が、隠岐を脱出したところから。

 

ナレーター:船に乗った後醍醐天皇は、数日で伯耆の国、

  今の鳥取県西部の沿岸に到着しました。

  そこで天皇を迎えたのが、地元の武士

  名和長年でした。

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  名和長年も楠木正成と同様、幕府北条氏の支配に

  苦しんでいたと思われる地方の武士の頭領です。

  後醍醐天皇をかくまった名和長年。

  そこに幕府の軍勢3000余りが攻め寄せます。

  名和軍はおよそ20分の1の150人ほど。

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  とても勝てそうにありません。

  しかし、名和長年たちは、まさかの戦いぶりを示します。

  後醍醐天皇と名和軍が陣取ったのは、

  ここ船上山(せんじょうさん)という山でした。

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  険しい崖がそそり立つ船上山は、まさに難攻不落の要害。

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  名和長年たちは、勝手知ったるこの山の険しさを武器に、

  幕府の大群に抵抗し続けました。

  船上山では今も、名和軍の戦いぶりをうかがうことができます。

  

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松岡さん:こういう石をですね、投げて、戦ったというふうに

  聞いてますけどね。

  春の山焼きでですね、この草原を焼いた後にですね、

  やはりこういう石がたくさんありますんで、

  戦いの名残り(があります)。

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 (こうやって幕府を)撃退したと言い伝えられています。

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ナレーター:こうして名和軍が頑強に抵抗を続けているうちに、

  突然流れが変わります。

  天皇を守る軍勢が、幕府相手に善戦している。

  これを知った近隣の武士たちが、次々に味方に駆け付けたと

  言われます。

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  その変化は、わずか二月で全国に波及。

  幕府の有力な武将足利尊氏が天皇方に加わり、京の都を攻略。

  幕府に不満をもつ武士たちは続々と寝返り、

  鎌倉の北条氏をいっきに滅ぼしてしまったのです。

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ラスト4枚の写真で表現されている、

船上山から討幕の動きが波及する様子は

とてもわかりやすかったです。

  

波及の様子をもう少し詳しく調べてみました。

船上山での挙兵は1333年閏2月28日。(参考:Wikipedia

足利尊氏が鎌倉幕府を裏切って、京を攻めたのが同年5月7日。

(参考:今日は何の日?徒然日記

新田義貞に攻められて北条高時が自刃。鎌倉幕府が滅亡したのが

同年5月22日。(参考:鎌倉手帳

 

参考にしたサイトがバラバラなので、正確ではないかもしれませんが、

およそはわかると思います。

今日(2月28日)、船上山で挙兵したら、

5月には鎌倉幕府が滅亡したのです。

今とは交通機関、通信手段が未発達な時代としては、

異例のスピードで討幕の動きは広がったと予想されます。

 

  

討幕の発火点になった船上山。

登ってみたいなあ。

そして戦いの名残の石を見てみたい。

※参考:むきぱんだ 後醍醐天皇の足跡をたどれ! 名和~船上山 太平記ウオーク

くじけない後醍醐天皇その1/天皇が通過した所縁の場所

今日は2月28日。

  

今年の2月の最終日。

どんな1日になるかな。

  

書いている途中のものもあるけど、

今朝は後醍醐天皇のことを書こう。

  

2011年2月2日放映の

歴史秘話ヒストリア 折れない、負けない、くじけない

~風雲!後醍醐天皇がゆく~」を授業で使いました。

8年前の番組がとても有効でした。

この番組のことを書き留めておきたいです。

  

まずは、この番組のタイトルがすごい。

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折れない、負けない、くじけない

この視点で番組では後醍醐天皇を扱っていました。

確かにそうだったんだと思って見ました。

特に吉野に移ってからの後醍醐天皇については

あまり知らなかったので、この番組で学びました。

詳細は後日。

  

話は、鎌倉幕府打倒をめざして後醍醐天皇は旗揚げしましたが、

失敗し、隠岐の国に流されるシーン。

聞き書きします。

  

ナレーター:元弘2年、後醍醐天皇は、幕府によって、

  京都の幽閉先から、日本海の島、隠岐の国へ流されることと

  なりました。

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  京都から隠岐へは、300kmあまり。

  主に中国地方の陸路を通り、

  山陰の港から船で隠岐に渡ります。

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  岡山県北部、大井野の山間(やまあい)の道に現れた

  小さな神社。

  後醍醐天皇宮(ぐう)です。

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  すぐ近くには、後醍醐天皇所縁(ゆかり)の石が残っています。

  その名は、「ご飯石(ごはんいし)」

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地元・大井野の方:これはここでね、後醍醐天皇さんが

  隠岐に流される途中で、ご飯を食べたと言われているんですけど。

  あれが箸の跡。

  昔っから、これが「ご飯石」だと言うとったけれど。

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ナレーター:他にも、天皇が使ったお椀やお皿の跡もあるというのですが、

  わかりますか?

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  さらに道を進んで、鳥取県江府町御机(こうふちょうみづくえ)。

  この御机という地名も、後醍醐天皇と深い関係があります。

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地元・御机のみなさん:昔、ここを通られた後醍醐天皇が、

  机を3つ並べてね、その上でご休憩※されたとか、

  という話を聞いちょるわけですが。

  (※正確に聞き取れず。予想)

  それで、「三机(さんつくえ)」と名をつけられて、

  それを「御机」と。

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ナレーター:他にも中国地方には後醍醐天皇所縁の場所や地名が

  こんなに。

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  地元の人々にとって京都におわすはずの天皇を

  突然目の当たりにした驚きと喜びが、

  こうした数々の伝説となったのでしょうか。

  

  

たった1回通過したことが、地元では事件をなり

言い伝えが残ったのでしょう。

他の言い伝えについても調べたいですね。

700年前のことが、いまだに残っていることが

とても面白いです。

  

以上です。今朝はここまで。

   

  

2019年2月26日 (火)

学習まんがで久々世界史を楽しむ/大都は中都だった/「フレー、フレー」の語源

 

今日は2月26日。

 

この本を読みました。

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学研学習まんが 世界の歴史 5 十字軍とモンゴル帝国

(学研)です。

  

このマンガ本は、誰を対象としている本なのだろう。

小学生?

小学校の図書館にあっても、眠ってしまう本だと思いました。

基礎知識がないと、けっこう難しい本です。

中学生でもまだまだ難しい。

高校で習う世界史を勉強した後なら、

どうにか楽しめるかな?

 

私は高校で世界史を頑張って勉強しました。

当時は日本史以上に関心があり、

いろいろな出来事や人名を覚えていました。

その後の人生で、世界史の内容にご無沙汰していました。

小中学校勤務だと、世界史は縁遠くなってしまいます。

この本でいろいろ思い出しつつ

久々世界史を楽しみました。

  

サラディンはどうにか覚えていましたね。

第3回十字軍遠征時のイスラム側の英雄です。

リチャード1世(イングランド王)、

フリードリッヒ1世(神聖ローマ帝国皇帝)、

フィリップ2世(フランス王)などなど、

もう懐かしいとも思えないほど、

遠くに行ってしまっていた人たちが、

私の前に表れました。

ああ、何か第3回十字軍を扱った映画が見たくなりました。

少し探して見つかったのがこれ↓

映画「キングダム・オブ・ヘブン 」  

面白そうです。

 

この本から引用。

  

大都(だいと)・・・金の時代には中都(ちゅうと)とよばれる都市だった。

フビライは1264年に遷都し、1272年に大都と改称した。

現在の北京。

(「時代のまとめ」31p)

「大都」の前は「中都」だった!初めて知りました。面白い。

  

 

運動会のかけ声の起源

モンゴル(帝国)の騎馬軍団は、大草原を馬でかけぬけ、

馬上から遠く離れた目標物を弓で射ました。

このときのモンゴル人の突撃の声は、

悪魔の声としておそれられました。

モンゴル人のさけび声は、ロシア語で「ウラー」、

ドイツ語で「フラー」、英語では「フレー(hurray)」と

なりました。

これが今でも運動会の応援などで使う「フレー、フレー」の

語源です。

(「時代のまとめ」32p)

これも勉強になりました。

明日にも誰かに話したくなりました。

  

さあ寝よう。

2019年2月24日 (日)

20190223報告その2 その次は同じ八幡市の「安居橋」に行く

 

今日は2月24日。

  

前投稿の続きです。

  

「流れ橋」の次に出向いたのは、同じ八幡(やわた)市にある

安居橋(あんごばし)」です。

この橋に行きたいと思ったのは、ドラマ「科捜研の女」です。

そのことを書いたのは、次の記事です。

ここでも道草 「科捜研の女」ロケ地・・・安居橋/らくがき寺/真正極楽寺真如堂(2018年2月24日投稿)

ビックリ、ちょうど1年前の記事でした。

1年前に行きたいと思っていた場所に、今回行くことができました。

その記事によると、石清水八幡宮に行ったついでに、

「安居橋」に行きたいと書いています。

メインは石清水八幡宮でした。

しかし、この朝の見学テーマは「橋」だったので、

石清水八幡宮は全く寄りませんでした。

  

昨年2月1日放映の「科捜研の女」の安居橋の写真です。↓

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ドラマのカメラが設置されたと思われる場所から撮影してみました。↓

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トリミングしてみます。↓

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ね、同じ場所でしょ。

こういうのが楽しい。

  

その他の「安居橋」の写真を並べます。

  

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この階段で、橋の下に下りることができました。

橋の下は鉄骨が隠れていました。

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↑ 橋も向こうに見えるのが石清水八幡宮の駐車場。

写真の右手にある緑の車は私の車です。

  

こんな景色もありました。↓

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石に「やわた放生の景」と刻まれていました。

どういうことかな?と思ったら、

すぐ横にある説明板にヒントがありました。

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「鳥羽伏見の戦いで焼失しました」という記述も気になりますが、

今回はその後の文章を引用します。

  

現在は石清水八幡宮の神事である

石清水祭(放生会)の舞台として親しまれています。

  

さらに詳しく・・・

京阪電車HP 京阪沿線の名橋を渡る 安居橋

ここから引用します。

  

殺生(せっしょう)を戒(いまし)める仏教の教えに従い、

捕らえた魚や鳥などの生き物を

川や野に放って供養する儀式のことを

「放生会(ほうじょうえ)」と言う。

この放生会は、神仏習合で神道にも取り入れられ、

宇佐神宮(大分県宇佐市)をはじめとする

全国の八幡宮で催されたが、中でも特に有名なのが、

京都府八幡市の石清水八幡宮で行われる、

石清水祭(石清水放生会)だろう。

この石清水祭は、京都の葵祭、奈良の春日祭と並び、

「日本三大勅祭」のひとつでもある。

石清水八幡宮が鎮座する男山の麓(ふもと)を流れる放生川で、

最初の放生会が営まれたのは、平安時代初期の863(貞観5)年のこと。

それから数えて1150年目に当たる今年(2013年)も、

例年通り9月15日に、降りしきる雨の中で石清水祭が斎行された。

八幡大神を乗せた3基の鳳輦(ほうれん)を核とする500人の祭列が、

山裾の頓宮(とんぐう)に向けて山上の本殿を出発するのは、

真夜中の3時。

それから終日にわたり、時代絵巻のような高尚典雅な儀式が展開されるが、

石清水祭の原点である放生会の舞台となるのが、

放生川と、そこに架かる安居橋だ。

今年もこの橋の上で朗々と大祓詞(おおはらえのことば)が奏される中、

神職によってその場でハトが空に放たれ、

橋のたもとでは、コイやウナギなどの魚が放生川に放流された。

(後略)

  

社会科の授業で教えた「神仏習合」も出てきた説明です。

京都新聞 2017年9月16日の記事の写真です。↓

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いい写真です。

行ってみたいなあ。

日本でさえ、行ってみたいところがたくさんあります。

  

  

鳥羽伏見の戦いは、名前の通り、「鳥羽」(現在、京都市南区)、

「伏見」(同、京都市伏見区)が戦場になりましたが、

それ以外の場所も戦場でした。

石清水八幡宮付近も戦場になったそうです。

その戦いで、安居橋は焼失したと思われます。

物騒な場所だったのです。

今は穏やかな朝を迎えた場所でした。

 

以上です。

八幡市の2つの橋を見学して、

キミヤーズ塾が開催される京都市に向かいました。

  

  

つづく

20190223報告その1 まずは八幡市「流れ橋」に行く

今日は2月24日。

  

最近は、少なくとも年2回京都に行っています。

キミヤーズ塾に参加するためです。

昨日がその日でした。

記念すべき10回目の参加でした。

昨日のことをできるだけ早く書き留めておきたいです。

  

いつものように、キミヤーズ塾参加だけでなく、

あちこち道草もしました。

今回は橋!

  

京都府八幡(やわた)市にある橋を見てきました。

  

最初に行ったのは「流れ橋

以前から行こうと思っていた「安吾橋」を調べていたら、

その近くにもう一つ面白そうな橋があることに気がつきました。

それが「流れ橋」です。

ここです↓

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案内板の部分的アップの写真を載せます。

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八幡市HPには次のように書いてありました。

八幡市HP

  

正式名は府道八幡城陽線上津屋橋(こうづやばし)。

長さ356.5メートル、幅3.3メートルの木津川にかかる

日本最長級の木橋。川が増水すると、床板が流れるように作られている。

白砂の河原と清流によく調和し、のどかな風景を残しているところから、

映画等の撮影にしばしば利用されている。

 

近くに八幡市の無料駐車場がありましたが、

この日は少年野球チームが使うことになっていたようで、

「(午前)8時30分頃から続々と車が入ってくるから、

それまでに戻ってきてね」と少年野球チームの係の人に頼まれました。

その時に時刻は午前8時10分頃。

急いで見学してきました。

 

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床板は立派なワイヤーがセットされていました。

まずは渡ってみようと思って、向こう岸まで走りました。

けっこう長い橋だと思いました。

八幡市のHPで調べたように、350mを超える長さだったのですね。

確かにそれくらいあるなと、実際に走ってみた体験上からも思います。

 

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向こう岸にたどり着いて、振り返り撮影しました。↓

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長い川幅でしたが、現時点で水が流れていたのは一部でした。

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往路で走ったおかげで時間に余裕ができたので、

復路はゆっくり歩いて橋を楽しみました。

橋げたのない橋は開放感があってよかったです。

でも川が増水して、ごうごうと流れていたら恐怖だろうなと思いました。

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確かに時代劇で使いたくなる橋です。

でもできたのは昭和28年。

江戸時代かあった橋だと思っていたら、違いました。

 

堤防下にある無料駐車場に戻ろうとしたら、

先ほど話をした少年野球チームの係の人が、

「まだ来ないようだから、ゆっくり見ていってください」と

言いに来てくれました。

でももう十分堪能しました。

  

実際に、どの時代劇でこの橋がロケ地として使われていたか

調べたいと思いました。

このサイトがまずは参考になると思います。

京都メディア支援センター 京都の映画文化と歴史 洛南に見るロケ地  

  

大河ドラマ「いだてん~東京オリンピック噺~」でも

木橋の上を走るシーンがありました。

調べたら、この橋ではなかったです。

この場所どこ.com いだてん 5話のロケ地!

 

こうやって調べて、さらに公開している方がいるのがありがたい。

 

つづく

 

2019年2月20日 (水)

鎌倉幕府滅亡は、今年度は「今夜はヒストリー」で

今日は2月20日。

  

あの番組はよかったと思う番組。

TBSが制作した「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」です。

放映されたのは2011年4月18日~2012年8月29日。

もう放映が終了して、7年近く経つのですね。

しかし、いまだに番組HPは残っていました。↓

Photo_3 今夜はヒストリーHP

 

今回は2011年9月19日に放映された

「鎌倉幕府の滅亡」のことを少々書きます。

  

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↑ 鎌倉幕府のあった鎌倉の地形の特徴である

「切通し」がいかに狭かったかがよく分かる映像。

そしてそこに新田義貞登場。

アナウンサーは、さっそくインタビューをしています。

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ワイドショーだと年齢が出るのが当然のようになっていますが、

こうやって歴史上の人物の年齢が出るのは新鮮です。

あの出来事の時、この人物は何歳であったかはあまり知らないこと。

新田義貞、33歳だったんだ。思ったより若い!

  

次は鎌倉幕府執権、北条高時へのインタビュー。↓

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こちらは31歳!

 

この戦いの後、北条高時は東勝寺で一族とともに自害します。

大河ドラマ「太平記」での、片岡鶴太郎さん演じる

北条高時が私には強烈に印象に残ります。

特に東勝寺での最期のシーンは、

フランキー堺さんとか児玉清さんなどの名演技も加わり、

見ごたえがありました。

次々に自刃していく一族を見て、戦に負けるということは、

こういうことなのかと、戦の恐怖を感じました。

そのシーンを含む1991年6月2日放映の

大河ドラマ「太平記 22話 鎌倉炎上」を録画した

ビデオテープを私は持っています。

18年前まで勤めていた中学校の社会科では、

この映像を見せていたと思います。

今年度も見せたいけど、

今年度は「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」ですね。

両方見せたいけど、時間なし。

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新田義貞の稲村ケ崎での故事も、実況中継されました。

面白い!

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この番組は、中学生を歴史好きにする魅力があると思います。

録画して7年半ほど。

授業で初めて使います。

  

今朝は月見/首が痛み出したぞ/2月は逃げる!逃がさん!

今日は2月20日。

  

もう2月の終わりが見えてきました。

毎年思いますが、1~3月は早い。

待てよ、このことを表すフレーズがあったな・・・

思い出しました。

1月は行く、2月は逃げる、3月は去る

「いちがつ」の「い」で始まる「行く」

※「往ぬる(いぬる)」の場合もあり。

「にがつ」の「に」で始まる「逃げる」

「さんがつ」の「さ」で始まる「去る」

 

ブログでも使ったぞと思って検索したら、2年前に使っていました。

ここでも道草 「バリバラ」はどうやって生まれたか?(2017年3月31日投稿)

ついでに番組「バリバラ」誕生の話を読みました。

何か検索することで、簡単に「たぐる」ことができるのが、

ブログのいいところです。

  

  

今朝、外に出たら、

昨晩の雨はあがり、とても暖かい。

そして明るい。

今年最接近の月(満月/スーパームーン)が

雲間から照らしてくれていました。

Photo ウェザーニュース

Photo_2 ウェザーニュース

ウェザーニュースの予告通り、愛知県東部に住む私は、

20日の朝方見ることができました。

9月14日とこんなに大きさが違うのですね。

9月14日も楽しみになりました。

でも今朝との月の大きさの比較は難しいでしょう。

  

しばらく月見をしていました。

前回が意識して見なくて失敗したので、

今回はじっくり見ていました。

前回です↓

ここでも道草 「八甲田山の日」/アナログ版「道草」を復活させたいと思った朝(2019年1月23日投稿)

ここで書いたことを再読して、

再びアナログ版「道草」のことを

記事にしてみたいと思いました。

またたぐってしまいました。 

  

 

自転車転倒事件?が2月8日のこと。

翌日に首が痛くなりましたが、

その後痛みは治まっていました。

しかし、1週間ぐらいして再び痛み出しました。

間が空いたので、転倒が理由で痛み出したのではなく、

寝違えたのかと思っていましたが、

毎晩、痛みがピークになり、すぐに寝込んでしまいます。

そして何日も痛みが続いています。

転倒が起因の痛みのように思えてきました。

来週早々、また整形外科に行くので、相談してみよう。

   

とりとめもなく書きました。

サッと過ぎてしまいそうな3か月ですが、

日々やったこと、思ったことをここに書き留めて、

後に「いろいろあったなあ」と、期間の厚みを感じたいです。

さあ今日もいい日にしよう。

最近の写真

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楽餓鬼

今日はにゃんの日

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