2019年9月 9日 (月)

「健康診断 戦艦大和」その3/快適な設備「冷房」「ベット」「風呂」

 

今日は令和元年9月9日。

  

前記事の続きで、8月22日放映の

「偉人たちの健康診断 戦艦大和 男たちの“健康”」

の読み物化をしていきます。

  

〇戦艦大和の設計者の一人、松本喜太郎が目指した理想。

 世界一の戦艦は

 「世界一快適で 乗組員が健康であること

 このような考え方で設計されたことを初めて知りました。

 今までは、戦艦大和の外から見えるものに注目していました。

 「世界一快適」を実現するための戦艦大和の快適装備として

 空調による冷房があった。

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〇冷房が 一般家庭に普及するのは、昭和40年代のこと。

 兵たちは 見たことすらない冷房装置に

 感激したという。

〇もともと 軍艦の弾薬庫には、

 高温になって自然発火することを防ぐために

 冷房装置が入っていた。

 大和では その能力を高め 艦内の大部分に

 冷気を供給できるようにした。

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〇戦艦大和の快適装備その2。「ベット」 

 他の軍艦では、ハンモックであったものが、

 大和ではベットが設置された。

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〇ハンモックと違って、ベットは、就寝中に寝がえりがうてる。

 それが安眠を可能にした。枕も硬めのものだった。

 これも、寝返りには向いていた。

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〇戦艦大和の快適装備その3。「風呂」

〇 ☟ これは他の軍艦の入浴映像。

 水が貴重な軍艦では 湯船に海水をためた海水風呂に

 入っていた。 通常は 1週間に1度の割合だった。

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〇大和では 水回りの設備を大幅に改善。

 3日に1度は、海水風呂に入ることができるようになった。

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〇塩水性の風呂は、今でも多くある。効能が高い風呂である。

 熱海の温泉もその種類の温泉。

 したがって、戦艦大和の風呂は、

 熱海温泉と同じようなものと考えらえる。

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〇ここで番組は、大和ミュージアムへ。

 そこに展示されている(海底に沈む大和からの)引き上げ品。

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〇展示品の中に、士官の浴室のタイルがあった。

 模様がほどこされ、セメントは非常に分厚い。☟

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〇展示品の中にはビールや酒の瓶もあった。

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〇大和には大量のお酒が積まれていた。

 アメリカの海軍は 一滴も 船にはアルコールを

 積んではいけないというルールがあったらしい。

 日本の軍艦はお酒を積んでいた。

 船内で何カ月も生活するため、いつも緊張していられない。

 飲んでいいという許可が出た時には、喜んで飲んでいた。

 例えば、赤道祭り。船が赤道を越える時は、赤道の神様に

 赤道を越える鍵をもらうという船独特のお祭りがあった。

 その時には どんちゃん騒ぎをしていた。☟

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つづく  

  

2019年9月 8日 (日)

「健康診断 戦艦大和」その2/3倍の広さの兵員室

 

今日は令和元年9月8日。

  

前記事の続きで、8月22日放映の

「偉人たちの健康診断 戦艦大和 男たちの“健康”」

の読み物化をしていきます。

  

〇 ☟ 戦艦大和の乗組員だった石上さん。

 昭和17年(1942年)3月に大和に乗船した。

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〇石上さんが言うには、大和は大きくて島だと思ったとのこと。

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〇石上さんが言うには、トイレが個室で洋式で驚いたとのこと。

 従来の軍艦は ☟ のように個室ではなかった。

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〇戦艦大和はこのようなトイレだった。☟

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〇戦艦大和には誰でも使える売店があった。

 故郷に手紙を書くための便箋やタオルなどの生活用品、

 ようかんやお酒まで売っていた。 ☟

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〇当時最新の医療設備もあった。

 陸上の病院も顔負けの立派な手術室を完備。

 胃がんの摘出まで行うほど、本格的な外科治療が可能であった。

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〇戦艦大和の中央部分の船体断面図 ☟

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〇 ☝ 兵員室は 2段にわたって、大きくとられていた。

 駆逐艦などに比べて 1人当たりの面積が3倍も広くなった。

  

  

広さだけでなく、兵員室には、乗組員が快適にすごせる施設がありました。

それについては次の記事で書きます。

「健康診断 戦艦大和」その1/大和以前は、狭くて暑かった

 

今日は令和元年9月8日。

  

前記事で予告した通り、8月22日放映の

「偉人たちの健康診断 戦艦大和 男たちの“健康”」

の読み物化をしていきます。

電波ログテキストマイニングの聞き書きを利用して、

箇条書きでまとめていきます。

  

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〇戦艦大和が造られたのは広島県呉市。

 今でも、建造された時のままの骨組みを使った建物が残る。☟

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〇戦艦大和の全長は263m。

〇もし、戦艦大和がここに停泊していたとしたらということで、

 CGで映像化。☟

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〇戦艦大和が就役したのは、昭和16年(1941年)12月。

 その頃の写真。☟

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〇 ☝ 極秘だったため 国民には一切知らされずひっそりと

 行われた試運転。

  

〇戦艦大和の設計者の一人、松本喜太郎は 「最強の戦艦」には

 これまでとは異なる 「新しい設計思想」が必要だと考えた。

 「世界一快適で 乗組員が健康であること」

 それこそが 世界最強を目指した大和が掲げた理想だった。

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〇 ☟ 大和以前の軍艦で撮られた、兵の就寝時の写真。

 天井から 所狭しとハンモックが つるされている。

 軍艦は 基本的に兵器中心の構造で士官を除く

 多くの兵の居住スペースがなかった。

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〇 ☟ 軍艦の問題は 他にもあった。

 軍艦内は とても暑く兵が倒れるほどでした。

 軍艦の動力は ボイラーでした。

 大量の熱を発するボイラーを鉄の箱で囲っているために、

  熱がこもって暑かったのです。

 それに加え 赤道直下など南方地域に赴くことも多かった。

 例えるのならば、オーブンの中で暮らしているようなものでした。

 狭くて 暑くて 十分に眠れない軍艦。

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「世界一快適で 乗組員が健康であること」をめざして、

戦艦大和は設計されました。次の記事に続く。

 

 

 

読み物化をする前に「テキストマイニング」

 

今日は令和元年9月8日。

 

昨晩、またいい番組を見ました。

8月22日放映の「偉人たちの健康診断 

戦艦大和 男たちの“健康”」です。

  

この番組ついて調べていたら、面白いサイトに出合いました。

電波ログテキストマイニング

 

「テキストマイニング」は初めて聞く言葉。

Wikipediaには次のように書いてありました。

  

文字列を対象としたデータマイニングのことである。

通常の文章からなるデータを単語や文節で区切り、

それらの出現の頻度や共出現の相関、出現傾向、

時系列などを解析することで有用な情報を取り出す、

テキストデータの分析方法である。

 

この説明だけではまだよくわかりません。

でも上のサイトをみると、わかるような気がします。

番組中のすべての言葉が聞き書きされています。

1時間番組の全てです。

人力で聞き書きをされたのか、

それとも機器を使っての聞き書きでしょうか。

見事な聞き書きです。

その聞き書きデータを使って、”テキストマイニング”され、

「ワードクラウド」という形で、結果が示されています。☟

Photo こうやって、見える化するのが、”テキストマイニング”なのかなと

考えました。

番組を見た後だと、この「ワードクラウド」が

少し理解できます。

「乗組員」「健康」「食事」「カレー」などの大きな文字を見ると

この番組の大事なことを表現しているなと思います。

  

う~ん、”テキストマイニング”の勉強は、

いずれまたするとして、

このサイトの聞き書きを利用させてもらって、

読み物化をしようと思います。

  

次の記事から。

 

落花生ではなくて枝豆でした

 

今日は令和元年9月8日。

  

ひとつ解決した話。

  

ここでも道草 落花生の”豆”知識 なぜ土の中で結実するか?(2019年8月24日投稿)

☝ 8月24日に、床屋に行く時に見かけた

畑に広く植えられた作物は何か?という疑問が解決しました。

  

昨日、その畑の中を通った時に、花を見つけて撮影しました。

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枝豆の花です。

以前、この花を撮影したことがあります。

ここでも道草 8月中・下旬の花々5/クロマメ(2012年9月22日投稿)

7年前のことでした。

 

My Tiny Flower Garden 枝豆・中生(なかて)の花も咲き出しました

☝ このサイトによると、枝豆の花の色は、白いのもあれば、

今回のように紫色の花もあるようです。

  

 

 

枝豆とわかったからには、今度はジャラジャラと

枝豆がなっている写真を撮りたいです。

  

 

「なんで幽霊には足がないの?」/全生庵の幽霊画

今日は令和元年9月8日。

  

今回は8月23日放映の「チコちゃんに叱られる」からです。

注目の疑問はこれ。☟

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「なんで幽霊には足がないの?」

実は私はこの正解を知っていました。

正解を先に見せてしまうと、これです。☟

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江戸時代の売れっ子画家、円山応挙(1733~1795)が、

幽霊画を依頼されたが、描けずに悩んでいました。

その時に、夢枕に亡くなった妻が立ったそうです。

その姿をそのまんま描いたのが、足の幽霊画の最初だったそうです。

その幽霊画は弘前市にあるお寺で見ることができるそうです。

番組スタッフは、「美の壺」スタッフから映像を借り、

その映像を流していました。☟

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足のない新しい幽霊画は人気となり、

たくさん描かれるようになりました。

(それまでの幽霊画には足があrました)

  

この番組の展開だと、きっと出るぞと期待した映像が流れました。☟

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そうです。

全生庵の幽霊画です!

8月に実際に見てきた幽霊画が映し出されました。

ここでも道草 20190810報告7 全生庵 幽霊画展(2019年8月13日投稿)

待ってました。

  

 

番組では、なぜ幽霊画がたくさん描かれたかについて触れていました。

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怪談噺の演出として、幽霊画が使われたそうです。

この夏は、幽霊画の勉強が充実しました。 

 

2019年9月 7日 (土)

井上智さんの本より/妻の一言/「そうか!」チャート

  

今日は令和元年9月7日。

  

前投稿に引き続き、「夢見た自分を取り戻す

(井上智著/エンパワメント研究所)より引用します。

  

井上智さんのことを先に知っていて、

8月に奥さんの井上賞子先生のセミナーに参加して、

初めてお話を聴きました。

「これぞ特別支援!」という実践をされていて、

驚きました。

  

「夢見た自分を取り戻す」の最後に、

「妻からの一言」と5pの文章が寄せられていました。

その中から引用します。

 

私は教師で、彼(智さん)の語る場所の多くは学校です。

リアルな彼の話を聞いていると、すぐそこに子ども時代の

智の姿が見えるようで、

「自分にできることはなかったのか」と思わずには

いられませんでした。

それは、「現代の学校」にも、40年以上前と同じ状況が

あるかもしれません。

「オレの時代は仕方がない。誰もディスレクシアなんて

知らなかったんだろう。でも、今は違うよな?

すべての教室で『特別支援教育』が行われているというなら、

全員見つけてもらえて、みんな自分の勉強の仕方を教えて

もらえるんやろ?」という彼の問いかけに

「そうだよ。安心して」と答えることはまだできずにいます。

(160~161p)

セミナーのラストでも、井上賞子先生は同じことを言っていました。

これだけの実践をしているにもかかわらずです。

智さんが言うように、まずは見つけることなのです。

その子が、定形の子と何が違うのかを見つけることが第一だけど、

それが難しい。

見つけたら、ICT機器など使って、学習を進めることができます。

 

井上賞子先生は、セミナーで

「そうか!」チャートというのを教えてくれました。

読み書きに課題のある児童・生徒の指導の助けになるサイトです。

見つけ方の参考になると思います。

  

いただいたパンフレットの写真です。☟

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読むこと・書くことが苦手な子どもの指導と支援チャート「そうか!」チャート 

  

特別支援教育の可能性を示してくれたセミナーでした。

    

井上夫妻の実践は、これからも見ていきたい。

井上智さんの本より/卒業制作動画「ディスレクシア Dyslexia」

 

今日は令和元年9月7日。

  

前投稿に引き続き、「夢見た自分を取り戻す

(井上智著/エンパワメント研究所)より引用します。

  

井上さんは、大学の卒業制作で動画を作ることになります。

  

オレしかできない表現で、ディスレクシアについて

知ってもらえるものを作りたい。

そう考えて「ディスレクシアについての啓発動画」の

計画を作った。

そこには、「見えない障害を、見える動画にすることで、

社会の理解を広げるものを作りたい」と書いた。

(97p)

  

自分が「伝える側」に立ったとき、

「かわいそう」を強調しなくても伝わるものが

作りたいと思った。

これを見たかつてのオレのような子どもたちが、

今のオレのような大人たちが、

つらいことを思い出して切なくなるのではなく、

明るい気持ちになってほしいと願った。

(99p)

  

この動画の中で、大阪医科大学LDセンターの

竹田契一先生が登場しているそうです。

  

なかでも、竹田先生の「Learning Difference、

学び方が違うんです」という言葉が胸を打った。

ディスレクシアだと分かったころ、「LD=学習障害」

という言葉が大嫌いだった。

だって「学習の障害」って、

「頭が悪い」って言われているようで、

みじめでたまらなかったんだ。

そりゃ、学習にたくさん支障が出る。

でも、どうしてもこの言葉は、受け入れられなかった。

でも、LDが「Learning Difference」なら、

心から「そのとおり!!」と言える。

みんなと同じ方法では学びにくいことだって、

引け目に感じなくていいと思える。

だって、「Learning Difference」学び方が違うんだ。

オレたちはオレたちの学び方で学んでいいんだよ。

というか、そうでないと学べないんだよ。

(102~103p)

そして、どうしても入れたかった「識字率99%の日本、

僕らはどっちなんだ」という問いかけ。

きっと99%にカウントされているんだろう。

まったく読めないわけでも、まったく書けないわけでも

ないんだから。

でも、日本は「読めて書けること」が当たり前の社会。

すべてはそれを前提に進んでいく。

その中で、オレたちはその前提に立てずにいたんだ。

それをICTは救ってくれる。「方法」はあるんだ!

(104p)

  

  

たくさんの人の力を借りながら、

オレの卒業制作動画「ディスレクシア Dyslexia」は

完成した。

5分4秒この時間に、思いをぎゅっと詰め込んだ。

(110p)


YouTube: ディスレクシア「Dyslexia」

Photo

☝ 「明るい気持ちになってほしい」という願いが感じられた

映像でした。

  

つづく

井上智さんの本より/「子どもたちの進む先は、こんなに柔軟なんだ!」

今日は令和元年9月7日。

  

夏に井上賞子先生の話を聞きました。

ここでも道草 20190809報告1 これぞ”特別支援” 井上賞子先生(2019年8月11日投稿)

井上賞子先生の旦那さんである

井上智さんの本を読みました。

71e7ukexezl 「夢見た自分を取り戻す」(井上智著/エンパワメント研究所)

ディスレクシアである井上智さんが、

50代で大学に挑戦したお話が中心の本です。

  

引用します。

  

大阪芸術大学短期大学部通信教育部の特修生に

出願するにあたり、次のことを事務局に申し込みました。

  

・自分にはディスレクシアという障害があり、

 紙媒体での読み書きがとても厳しいということ。

・障害に関しては、診断書の提出も可能だということ。

・しかし、理解の力には問題はなく、ICTを活用することで

 学習は可能であるということ。

・具体的には、レポートやテストにおいて、パソコンの使用を

 許可してほしいこと。

・スクーリングの際は、板書の撮影や携帯へのメモを

 認めてほしいということ。 

(42p)

  

  

井上さんは、電話でお願いしたら、「学内で検討してから回答」

ということになります。2日後。

  

かかってきた!!!

「先日、お問い合わせいただいた件ですが・・・」に続いて、

「本学で、LDの方の支援を行った前例はありません」ときた。

やっぱりな。前例がないことは、ダメだろうな。

絶望的な気持ちになったところに間髪を入れず、

「前例はありませんが、学内で検討した結果、

ICT機器の活用で学べるというのであれば、

使用を許可します。」と言われた。

  

そのときの気持ちを、なんと言ったらいいんだろう。

うまくお礼が言えたのかさえ、定かではない。

そのくらい興奮した。

ただただ、頭をぺこぺこ下げていたことだけは覚えている。

  

「ICT機器の活用で学べるというのであれば、

使用を許可します」そうだよな。当たり前だよな。

オレにとってはメガネなんだ。

これがなければ学べないんだ。

本当は許しを請う種類のものではないはずなんだ。

  

でも、この回答がどれだけ貴重なものかも自分は知っている。

啓発活動をしていた日々、出会った子どもたちも

保護者の人も、口をそろえて言っていたのが、

「前例がないと許可してもらえない」だった。

時には現場の先生でさえ、「前例がないと学校の許可が出ない」

と頭を抱えていた。

 

あのさ、どっちかというと、「前例がない」ことの方が、

大問題なんだと思う。

それって、オレみたいな子をほっておいたってことやろ?

「これがあればできる」って分かっているのに、

取り上げてたってことやろ?

もちろん、それが分からなかった時代も、

それができる機器がなかった時代もあったことは分かってる。

でも、今は違う。

機器もある、「これがあれば学べる」と分かっている

ケースだってある。

それなのに「前例がないから」っていう理由で断られるって

本当におかしなことだと思う。

  

おかしいことのはずなのに、あまりにもそっちが多数派だから、

きっと今回も「前例がない」と断られるのが、怖かった。

だから、本当に「ICT機器の活用で学べるというのであれば、

使用を許可します」の一言に心躍った!

自分の選んだ大学を、入る前から誇りに思った!

  

子どもたちの進む先は、こんなに柔軟なんだ!

それがうれしくて、うれしくて、そこにたどり着く前に

力尽きてしまう子どもたちがたくさんいる現場が悲しくて・・・・。

たくさんの人に知ってほしいと思った。

大学は、1人ひとりの学び方を、

ちゃんと受け入れてくれる。あきらめないで。

そして、あきらめさせないで。

「前例」でなく、その子とその子の未来を見てほしい。

心からそう願わずにはいられなかった。

(43~45p) 

 

 

井上賞子先生がセミナーの中で「子どもたちの進む先は、

こんなに柔軟なんだ!」という言葉を使っていました。

この本のここにそのもとの言葉がありました。

言葉というより叫びかな。

前例がないからと言ってあきらめることなく、

あるいはあきらめさせることなく、とにかく動こう。

そう思わせてくれる井上智さんの体験であったし、

いい叫びだと思い、しっかり引用しました。

2019年9月 6日 (金)

「石狩平野」を楽しむ7/121年前の大水害

  

今日は令和元年9月6日。

  

前日の記事の続き。

本「石狩平野」(船山馨著/河出書房)をついに読破しました。

52年前に発行された本。1ページに字がぎっしりの本。

40年前に四苦八苦して読んだ覚えのある本。

今回はじっくり読めました。

さらには、こうやってブログに引用する余裕もあり。

楽しんで、423pの小説を読み切りました。

  

  

明治31年9月5日にはじまって、

8日の午後に及んだこの暴風雨は、

明治2年北海道開府以来のものであった。

当然、その被害はかつてない悲惨な爪跡を刻んだ。

河川の氾濫はほとんど全道にわたり、

流失倒壊家屋2万5千余戸、

田畑の冠水流失5万8千余町歩、

死者は2百50余人に及んだ。

負傷者および道路、橋梁、堤防の破損流失、

排水溝の埋没、家畜の被害などは、

その正確な数を知ることすら不可能であった。

とりわけ石狩、夕張、十勝の各河川の流域が

深刻な被害地となった。  (339~340p)

  

この暴風雨は、この小説のクライマックスのように

描かれていました。

ヒロインの鶴代が恋する次郎が、

2人の間にできた子どもを救わんが為に、

命を落とす話でした。  

 

明治31年(1898年)の水害は、実際にあったものです。

北海道は相次ぐ台風で洪水被害 北海道の洪水対策のきっかけは118年前の台風被害

☝ ここに詳しく書いてありました。

「石狩平野」の中には書いてなかったと思いますが、

この暴風雨は台風だったようです。

 

引用します。

  

石狩川流域の開拓が始まったのは、

北海道の札幌に開拓使ができた明治4年以降です。

当初は石狩川の氾濫原である

広大な低湿地の土地利用が進められていました。

アイヌ語の曲がりくねった川という意味の「石狩川」は、

雪解け期や大雨期にはたびたび流路を変える暴れ川でした。

石狩川流域は、雪解け期や夏の大雨期には

氾濫をくりかえていた未開の原野で、

入植当時は洪水被害に悩まされていました。

しかし、高低差が少ない石狩川は、

広大な農地が得られる可能性を持った魅力的な川でした。

そして、明治政府の積極的な移民政策もあって、

明治30年には流域人口が30万人と増大しました。

しかし、今から118年前の明治31年(1898年)9月6日、

台風によって石狩平野の氾濫原である広大な低湿地の開拓が

大洪水によって大きな被害を受けています。

明治43年(1910年)から北海道で洪水対策が始まったのは、

この明治31年の台風被害がきっかけです。

  

  

くねった川の「石狩川」が、治水工事のため、

ショートカットされ、長さが短くなりました。

   

  

石狩川は全長268キロメートルで、全長367キロメートルの信濃川、

全長322キロメートルの利根川に次ぐ、日本三位の長さの川ですが、

明治27年の記録では石狩川の全長が364キロメートルと

信濃川に匹敵する長さの川でした。

しかし、その後の改修工事で川をショートカットしたため短くなり、

そのなごりが、今も多数残っている三日月湖です。

短くなった石狩川は、ときどき発生する大水害を乗り越え、

北海道が発展してきた証の一つです。

 

 

石狩川が日本一に匹敵する長さだったとはビックリ。

三日月湖のことなど知っていましたが、

この水害については知りませんでした。

(40年前に読んだ時には印象に残らず)

 

今からちょうど121年前の大水害の勉強ができました。

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