2020年5月 2日 (土)

「三陸海岸大津波」② 岩手県田老町の防災の歴史

  

今日は令和2年5月2日。

  

前記事に引き続いて

「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)より

引用していきます。

  

前記事で引用したように、この本が出版されたのは

昭和45年のことです。

その時点で取材できた明治29年、昭和8年の大津波と

昭和35年のチリ地震の被害について書かれていました。

  

 明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみ

ると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。

 死者数を比較してみても、

  明治29年の大津波・・・・・26360名

  昭和8年の大津波・・・・・・・2995名

  昭和35年のチリ地震津波・・・・105名

 と、激減している。

 流失家屋にしても、

  明治29年の大津波・・・・・・9879戸

  昭和8年の大津波・・・・・・・4885戸

  昭和35年のチリ地震津波・・・1474戸

 と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理

由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろ

んできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年

の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられて

きたことも、その一因であることはたしかだろう。

 高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられてい

たことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、

防潮堤その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮し

ていたと考えていい。その模範的な例が、岩手県下閉伊郡田老町に

みられる。

(171~172p) 

ここから話は田老町にしぼられます。

  

 田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、

2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。

「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的

打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所

と言われたほどだった。

 しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に

恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた

土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどでき

ようはずもなかったのだ。

 町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿

勢をとった。

 まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設

をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防と

なって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭

和33年3月に至って全長1350メートル、上幅3メートル、根

幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ

10.65メートル)という類をみない大堤防を完成した。またそ

の後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業とし

て施行されている。

(172~173p)  

  

その田老町を、吉村さんは訪れます。

  

 私も田老町を訪れた時、海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみ

た。堤は厚く、弧をえがいて海岸を長々とふちどっている。町の家

並は防潮堤の内部に保護されて、海面から完全に遮断されている。

町民の努力の結果なのだろうが、それは壮大な景観であった。

 そのほか田老町では、避難道路も完成している。それまでの津波

襲来時に、道路がせまいため住民の避難が思うようにゆかなかった

苦い経験をもとに、広い避難道路を作ったのである。また避難所、

防潮林、警報器などの設備も完備している。

 ことに町をあげての津波避難訓練は、昭和8年3月3日の大津波

を記念して、毎年3月3日に行われている。それも、昭和8年の地

震発生時刻の午前2時31分39秒(盛岡観測所記録)に津波襲来

を予告するサイレンの吹鳴によって開始されるという徹底したもの

である。むろんそれは、寒さの厳しい深夜なのだが、住民は真剣な

表情で凍てついた夜道を一斉に避難するのだ。

(173~174p)

  

 田老町の防潮堤は、高さが海面より10.65メートルある。が、

明治29年、昭和8年の大津波は、10メートル以上の波高を記録

した場所が多い。(中略)

 そのような大津波が押し寄せれば、海水は10メートルほどの防

潮堤を越すことはまちがいない。

 しかし、その場合でも、頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させるこ

とはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるにちがいな

い。

(176~177p)

  

以上、田老町の防災の歴史に関する部分を引用しました。

つけたしで、Wikipedia 田老町より引用します。

  

昭和三陸津波70周年に当たる2003年(平成15年)3月、町は

「災禍を繰り返さない」と誓い、「津波防災の町」を宣言して記念

の石碑を設置した。同地区出身の田畑ヨシによる「津波てんでんこ」

の紙芝居活動をはじめとする児童への防災教育や、年一回の避難訓

練にも力を入れ「防災の町」として全国的にも有名であった。その後、

2005年に田老町は宮古市に編入され、消滅した。

  

 

「昭和三陸津波」というのが昭和8年の大津波のことでしょう。

防災にこうやって務めてきた田老町。

そこに2011年3月11日がやってきました。

  

つづく

「三陸海岸大津波」① 二階家の屋根の上に波がのっと突き出ていた

 

今日は令和2年5月2日。

  

最近は暑い。

2日前は車の気温計は25度でした。

昨日もそれぐらいの気温でした。

今日はどうやら30度に届きそうとの予報。

5月もまだ始まったばかりなのに、もう30度。

昨晩から、寝間着は半そで半ズボンにしました。

  

本が読めました。

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「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)

   

体験者の話を聞いて、出来事を再構築するこのような話を

もともと私は好きでした。

ルポルタージュと言ったっけ。

学生の頃は、本多勝一さんに憧れて、

自分でもやってみようと思ったのが、

就職浪人中の北海道徒歩旅行でした。

たくさんの人に話を聞き、体験をさせてもらいましたが、

結局文章として残さなかったのが残念です。

本多勝一さんは1932年1月生まれ。

御年88歳。いかがお過ごしなのだろう。

ちなみに吉村昭さんは1927年生まれで

2006年に79歳で亡くなられています。

  

 

引用していきます。

この本では、三陸海岸を襲った

3つの大津波のことが書いてありました。 

明治29年の津波、昭和8年の津波、

そして昭和35年のチリ地震津波です。

  

 まえがき

 私は、何度か三陸沿岸を旅している。

 海岸線をたどったり、海上に舟を出して断崖の壮絶な美しさを見

上げたこともある。小説の舞台に三陸海岸を使ったことがあるが、

いつの頃から津波のことが妙に気にかかり出した。

 或る婦人の体験談に、津波に追われながらふとふりむいた時、二

階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていたという話が

あった。深夜のことなので波を黒々としていたが、その頂は歯列を

むき出したとように水しぶきで白くみえたという。

 私は、その話に触発されて津波を調べはじめた。そして、津波の

資料を集め体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残し

ておきたい気持ちにもなった。・・・それが、この一書である。

 私は、むろん津波の研究家ではなく、単なる一旅行者にいすぎな

い。専門的な知識には乏しいが、門外漢なりに津波のすさまじさに

ふれることはできたと思っている。

昭和45年6月                   吉村 昭

(10~11p)

  

 「二階家の屋根の上にそそり立った波がのっと突き出ていた」

印象的な表現です。この証言をしたのは

昭和8年の大津波を体験した岩手県下閉伊郡田野畑村

鳥ノ越に住む畠山ハルさんです。

 吉村昭さんが、三陸海岸を歩いて、

大津波の経験談を聞いた一人です。

  

  

 ハルさんは、当時14歳で、村会議員の熊谷武蔵という人の家に

家事手伝いをして働いていた。その家、海から100メートルほど

ある所に建っていて、激しい地震で一家中がとび起きた。

 ハルさんは、熊谷家の次女である6歳の京子と添寝をしていたが、

揺れ方があまりに激しいので、いつでも戸外へとび出せるように京

子に着物を着させた。

 やがて地震もおさまり、主人の熊谷氏も、

「もう大丈夫だから寝なさい」

 というので、京子とふとんに入ったが、不安なので京子には着物

をつけさせたままだった。地震で電線がきれたのか、停電していて、

部屋の中にはただローソクがともっているだけだった。

 突然、津波だあ!という声をしたので、ハルさんは、京子を抱い

てとび起きた。そして、夢中になって30メートルほどはなれた裏

山の登り口に走り出した。

 後方でゴォーッという音がしバリバリと家のこわれる音がしたの

で、瞬間的にふりむいてみた。すると、熊谷家の前に建つ二階家の

屋根の上方に、白い水しぶきをあげた黒々とした波が、ノッと突き

出ていたという。

 ハルさんは、必死になって山ぎわにとりつき這い上がりかけた時、

波が押し寄せてきてさらわれそうになった。彼女は、京子を首にか

じりつかせて灌木の幹にしがみついていたが、その足にすがりつい

た子供がいた。それは、早野治平という6歳の男の子で、波のひい

た後、ハルさんは京子と治平をつれて杉の繁る山の上にたどりつく

ことができたという。

(118~119p)

  

生きのびてよかったなあと思います。

ハルさんにも、京子さんにも、そして治平さんにも、

この後長い人生が過ごせたことと思います。

2020年5月 1日 (金)

「安倍官邸VSNHK」④ 国有地格安販売「誰も責任をとっていない」

  

今日は令和2年5月1日。

  

前記事に引き続いて

「安倍官邸VSNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」

(相澤冬樹著/文芸春秋)より引用します。

  

最後にもう一つ引用します。

299p丸ごと引用します。

  

 森友事件は私の人生を変えた

 なぜ国有地が格安販売されたのか?その謎は解明されていないし、

誰も責任をとっていない。さらに言えば、国有地を売ったのは森友

学園に小学校を作らせるためで、小学校を無理やり認可しようとし

ていたのは大阪府だ。大阪府はなぜ、そこまでして小学校を認可し

ようとしたのか?国と大阪府は、なぜそこまでして、この小学校を

設立させたかったのか?

 森友事件とは、実は森友学園の事件ではない。国と大阪府の事件

だ。責任があるのは、国と大阪府なのだ。国の最高責任者は安倍晋

三総理大臣。大阪府の最高責任者は松井一郎大阪府知事である。お

二人には説明責任があるが、それが果たされたと思わない人は大勢

いるだろう。お二人が説明しないなら、記者が真相の取材をするし

かない。

 この謎を解明しないと、森友事件は終わったことにはならない。

私がNHKを辞めた最大の目的は、この謎を解明することだ。

 森友事件は私の人生を変えた。でも、それはいい方向に変えてく

れたと思う。何のしがらみもないというこの大阪日日新聞で、私は

森友事件の取材を続ける。謎が解明されるまで。

(299p)

 

「誰も責任をとっていない」

この言葉が印象に残ります。

昨今の国政では「責任」がすごく軽んじられていると思います。

「私が責任を取る」という覚悟で

政策に取り組んでいないように感じます。

「私が悪かった。責任を取って辞めます」

そんなセリフが聞きたいと思っています。

誰だってミスはあり、うまくいかないこともあります。

その時はその時。

辞して、再起をうかがう。

その繰り返しではないでしょうか。

  

  

この本を読む前に、朝日新聞で「大阪維新の会」「日本維新の会」に

ついて、1面分説明されたのを読みました。

今さら自民党寄りの政党なのだと知りました。

そして今回の本を読んで、

「維新の会」へのイメージが悪くなりました。

桜を見る会の問題が噴出して以後、

私の政治不信はどんどん広がります。

  

  

以上で、「安倍官邸VSNHK 

森友事件をスクープした私が辞めた理由」からの引用を終えます。

「安倍官邸VSNHK」③ 近畿財務局管財部上席国有財産管理官のA氏

  

今日は令和2年5月1日。

  

前記事に引き続いて

「安倍官邸VSNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」

(相澤冬樹著/文芸春秋)より引用します。

  

 森友事件の発覚から1年あまりすぎた2018年(平成30年)

3月2日朝。朝日新聞が決定的な特ダネを出した。

「財務省が森友の国有地取引関連の公文書を改ざんした疑いがある」

 破壊力満点の大特ダネだ。財務省は大揺れだろうが、我々も大騒

動だ。これだけの特ダネ、後追いはマストだが、どうやって後追い

する?

(194p)

 

「マスト」?

そうか英語のmustからきていて、

「しなければいけないこと」という意味ですね。

  

 そのころ再び、衝撃の事実が発覚した。「近畿財務局職員が自殺」

亡くなったのは(2018年)3月7日。改ざん発覚の5日後。そ

してこの事実が明らかになったのは、その2日後の3月9日だった。

(196~197p)

  

自殺したのが赤木俊夫さんです。

この本ではA氏として語られています。

  

 亡くなったのは、近畿財務局管財部上席国有財産管理官のA氏。

まさに森友学園の国有地売買交渉にあたっていた担当者の一人だ。

神戸市内の自宅で命を絶ち、兵庫県警が捜査の結果、自殺と断定し

た。

 いったいどういう人なのか?彼の死と国有地売買、公文書改ざん

は何か関連があるのか?A上席の死について取材を進めるため、地

元神戸や大阪、関西各局、さらに東京社会部も加わって、取材チー

ムが作られた。その取材により、我々はA上席について次のような

ことを知った。

・2015年7月の異動で管財部の上席国有財産管理官となり、国

有地の購入に関する様々な申し入れや陳情、クレームを処理してい

た。ときに掟破りの申し入れがあるが、「いちいち耳を貸す訳には

いかない」と公平さを大切にしていた。2016年(平成28年)

から森友学園の土地払い下げの案件を担当していた。経験豊富で手

堅く、周囲から信頼されていた。

・上席というポジションは、本省からの指示と現場の摺り合わせを

行うことが求められる役職。本省の指示が現場の実情にあわなかっ

たり法律解釈が少し間違っていたりしても、そのまま飲む人が多い

中、A上席は「それはおかしい」「自分はこう思う」と意見する、

役所では珍しい人だった。上司も煙たがりつつも、仕事はしっかり

こなすので一目置いていた。それでも、一旦組織が決定したことは

受け入れてしっかり守る、至極まっとうな行政マンだった。

・声が大きく明朗な性格で、疑問に答えてもらおうと笑顔でお礼を

言う、気持ちのいい人。いわゆる開けっぴろげなキャラクターで、

自殺と聞いても全く想像できない。

・半年前から”心身耗弱(こうじゃく)”とのことで休職していた。

森友事件が発覚して以降、東京との板挟みで相当苦労しており、追

い込まれていた。

  

 そして、さらに取材を進める中で、我々は次のような重要情報を

得た。

  

・3月2日の朝日新聞の「改ざん」報道を受け、3月6日に、休職

中のA上席が近畿財務局に呼び出された。実際に庁舎内で彼の姿を

見かけた人がいる。そして翌7日、A氏は自ら命を絶った。

 

 精神的な問題で休職しているのに、A上席はなぜ呼び出されたの

か?役所では誰とどういう話をしたのか?何か指示されたのか?責

任感が強かったというA上席。改ざんのしわ寄せで精神的に追い込

まれて休職し、さらには死に追い込まれたのではないのか?これは

必ず解明して、彼の無念を晴らさねばならない。

(197~198p) 

  

  

赤木さんの奥さんは、この本を読んで、

相澤さんに赤木さんの手記を手渡したと聞いています。

納得です。  

「安倍官邸VSNHK」② 2017年7月26日「ニュース7」を見てたかな?

  

今日は令和2年5月1日。

   

さあ5月です。いい月にしたいです。

 

前記事に引き続き、

「安倍官邸VSNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」

(相澤冬樹著/文芸春秋)より引用します。

   

森友事件にとって重要な安倍首相の発言があります。

2017年2月17日のことです。

衆議院予算委員会で、安倍首相は私学設置認可や国有地払い下げに

「私や妻が関係していたということになれば、

首相も国会議員も辞める」と発言しました。

この発言で、「忖度」が始まったと可能性があります。

その発言を動画で見ることができました。


YouTube: 【私や妻が関係してたら総理も議員も辞める】福島議員vs安倍総理 2017年2月17日 衆議院 予算委員会

  

森友事件が国や大阪府の事件から、

森友学園の事件になっていった頃の記述を引用します。

  

 事件の本質は、なぜ学校は認可されるところだったか、なぜ国有

地は格安で売られたか、に尽きる。国有地の格安売却は、財務省、

近畿財務局の背任行為の疑いがある。その捜査が最重点であるべき

だ。

 ところがこの頃(※2017年5月頃からか?)から、大阪府が

しきりに、森友学園の補助金不正をめぐる情報を報道各社に流し始

めた。大阪府が森友学園の幼稚園に交付していた2つの補助金、教

員を確保するための補助金と、障害のある子どもを受け入れた場合

の補助金に、教員や障害児の水増しなどの不正の疑いがあるという

話だ。大阪市も同様に、市の補助金も不正に受け取っていた疑いが

あると言い始めた。

 なるほど、補助金不正はあったかもしれない。しかし、それは国

有地の格安売却とはまったく関係のない話だ。そもそも森友学園が

多額の補助金を受けていることは大阪府も大阪市もとっくにわかっ

ていたことで、その申請内容がおかしいとすれば、これまでまった

く気づかなかったという方が不自然だ。その申請内容がおかしいと

すれば、これまでまったく気づかなかったという方が不自然だ。な

ぜ今になって、このタイミングで、急に騒ぎ始めたのか?

 私から言わせると、新たな詐欺事件に注目を集め、本筋の背任事

件から世間の目をそらす狙いとしか思えなかった。大阪府も大阪市

もトップは大阪維新の会。維新と安倍官邸近いのは周知のこと。つ

まり、これは維新が国のためにナイスアシストをしている陽動作戦

としか、私には思えなかった。

(122~123p)

  

思い出します。

当時、テレビのニュースでも森友学園にいつガサ入れするのか、

籠池前理事長は逮捕するのかどうかが報じられていたと思います。

籠池前理事長と奥さんの2人の強烈な個性も

くりかえし紹介されていたと思います。、

すっかり「森友学園の事件」になっていたと思います。

  

  

そして実際にガサ入れがありました。

2017年6月19日でした。

 

 ガサが終わると、次の最大の焦点は「籠池前理事長はいつ逮捕さ

れるのか」だ。そもそも逮捕されるのか。在宅での任意捜査なのか、

ということもある。さらには、逮捕されるとしてそれは籠池前理事

長だけが、諄子(じゅんこ)夫人もか?そして逮捕容疑は何か?捜

索は補助金適正化法違反と詐欺で行われた。これでいいのか、それ

ともどちらか一方に切り替わるのか、だ。

 これらはもちろん重要な取材項目だ。だが忘れてはいけない。詐

欺は森友事件の本筋ではない。本筋はあくまで固有値の値引き販売

だ。近畿財務局と財務省官僚らの背任だ。

(129p)

    

相澤さんの視点はブレていませんでした。

  

  

 

そんな中、すごい情報が手に入ります。

 

 疑問の一つについて、ようやく具体的な情報が得られた。

 「国有地の売却前に、近畿財務局は森友学園側との売却交渉の過

程で、学園がめいっぱい出していくらまでなら出せるのか聞き出し

ている。そして実際にその金額以下で売っている」

 耳を疑った。そんなことが本当にあるのか?Lデスクが書き出し

た取材項目にあるように、私たちは、森友学園側が近畿財務局に買

い取り希望額や支払い可能額を伝えて、その意向通りになるよう求

めたということはありうると考えていた。そのために政治家や安倍

明恵名誉校長の名前を使ったり、巨額の損害賠償請求の可能性をに

おわせたりして、近畿財務局を自分たちの意向に従わせようとした

可能性はあるだろうと。ところが、実際に森友側ではなく、近畿財

務局の方から支払い可能額を聞き出していたというのか!そんなこ

とを役所が率先してするなんて。しかも実際にその上限額に収まる

範囲で売ったなんて、まさに背任行為そのものだ。信じられないと、

と言いたいが、情報源は堅い。

(136~137p)

  

 

2017年7月26日にこのことが

NHK「ニュース7」で流されます。

要旨はつぎのこと。

・2016年3月 土地の売却価格をめぐって近畿財務局と

 森友学園で交渉が行われる。その際に、上記の引用文のようなことが

 行われた。

・2016年6月 近畿財務局は大阪・豊中市の国有地について、

 およそ9億5500万円だった鑑定価格から地中のゴミの撤去費用

 などとしておよそ8億2000万円を値引きして森友学園に

 売却した。

・大阪地検特捜部は、近畿財務局が大幅な値引きによって

 国に損害を与えたとする市民グループからの背任容疑での告発を受理。

 調べを進めている。

  

  

このニュースを私は見ていたのだろうか。

大騒ぎすべき内容だと今なら思えますが、

覚えがありません。

水曜日でした。夏休み期間中だなあ。

何に夢中になっていた?

7月26日直後のブログを見てみました。

ここでも道草 ドラマ「遺留捜査」の中の「京都将棋」(2017年7月27日投稿)

ここでも道草 20170721報告5.映像を熟知する/ただ番組を見るだけでなく(2017年7月27日投稿)

「京都将棋」と「NHK for school」に夢中でした。

2020年4月30日 (木)

「安倍官邸VSNHK」① 森友事件は森友学園の事件でした

  

今日は令和2年4月30日。

  

この本を読みました。

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「安倍官邸VSNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」

(相澤冬樹著/文芸春秋)

  

私は録画マニアで、毎日何かかあか番組を録画しています。

そしていい番組は、授業で子どもたちに見せてきました。

その番組はNHKが多いです。

NHKファンでもあります。

だからNHKには期待しています。

 

この本を読んで、NHKの報道番組が

使命感のある記者が取材したおかげでできているのだと

わかりました。

相澤さんは辞めてしまいましたが、

相澤さんが認める記者がNHKに残っているわけで、

これからも期待しようと思いました。

  

きっとどの番組も、複数の人たちの努力で

できあがっているはずです。

見るか側も真剣に受け止めないといけないと

気合が入ります。

  

  

さて、いつものように引用していきます。

  

 森友事件は森友学園の事件ではない。国と大阪府の事件である。

こう言うと違和感を持つ方が多いかもしれないが、おかしなことを

したのは森友学園ではなく、むしろ国や大阪府の方だ。なぜそう言

えるのか?それを読者・視聴者に説明するのが私たち記者の務めだ。

そのために根拠を示すことが欠かせない。(中略)

 森友事件の報道の背後で何が起きていたのか、森友事件の真の問

題点は何かを明らかにしたいと思う。

(10p)

  

読み終わって、なるほど国と大阪府の事件であって、

意図的に森友学園の事件になっているなと思いました。

とにかく、桜を見る会の件で不信感をもち、

赤木俊夫さんの手記が発表されて森友事件の詳細を知るまで、

私の中では森友事件は森友学園の事件でした。

社会科教師としてはアンテナが低すぎかな。

自省。

  

  

つづく

 

 

 

2020年4月29日 (水)

沖縄「戦争マラリア」② 「かつてあった山下軍曹の行為は許しはしようが決して忘れはしない」

  

今日は令和2年4月29日。

  

「昭和の日」

その昭和の時代にあった忘れてはならないことです。

 

前記事に引き続いて、

「沖縄『戦争マラリア』強制疎開死3600人の真相に迫る」

(大矢英代著/あけび書房)より引用します。

  

 波照間には戦争マラリアで亡くなった子どもたち66人のための

慰霊碑がある。西表島と波照間島の海峡が見渡せる小高い丘の上に

建てられたその慰霊碑は、かつての移住地・西表島の南風見田(は

えみだ)と向き合うかたちで建てられている。

 その碑文に、その男の名前が刻まれていた。

  

「かつてあった山下軍曹(偽名)の行為は許しはしようが決して忘

れはしない」

   

「山下」とは何者か。

(105p) 

  

なぜ、波照間島の住民は、マラリア有病地の西表島に

移住させられたのか。その鍵を握る人物が山下虎雄(偽名でした)。

  

  

 青年学校指導員・山下虎雄先生の正体。それは大本営から派遣さ

れた「スパイ」だった。「陸軍中野学校」の卒業生だった。

 陸軍中野学校とは、ゲリラ戦(遊撃戦)や情報戦を専門とするス

パイ教育をおこなっていた、日本陸軍の極秘教育機関だった。日本

全国から優秀な若者が集められ、卒業生は日本全国、世界各地に派

遣された。

 戦時中、八重山諸島には正規の陸海軍のほかに、特別な任務をお

びた大本営直属の「スパイ」が4人派遣されていた。山下はその一

人だった。 

 「離島残置諜者」と呼ばれていた彼らの任務と活動内容について

は、『陸軍中野学校と沖縄戦』(川満彰著・吉川弘文館・2018

年)に詳しく書かれている。

 「離島残置諜者の任務は、身分を秘匿して民間人の立場で情報を

収集し、万が一、米国が上陸してきた場合、それまで訓練していた

住民を戦闘員と仕立て上げ、遊撃戦を行うことだった。第32軍は、

そのために県知事島田叡(あきら)と交渉し、彼らに正式な国民学

校指導員と青年学校指導員の辞令所を出させ、偽名を使い、各島々

へ潜伏させたのである」

山下虎雄という名は、作戦遂行上の偽名だったのだ。

(109p)

  

 

山下虎雄の本名は酒井清でした。

 

戦後、滋賀県で家庭を築き、工場の経営者として生きてきたという。

波照間の住民たちがマラリアで次々絶命していくなか、本人は島を

抜け出し、本土へ帰郷していた。

(113p)

 

  

山下虎雄が直接、波照間島の住民を西表島への移住を

強制しましたが、それも大きな軍部の動きの一部でした。

いったい何が行われたのか。

最終章にまとめて書いてありました。

  

 1945年の戦争マラリアで、日本軍は八重山地域の子どもから

大人まで根こそぎ動員して基地建設を進め、軍隊のための食糧生産

から住居に至るまで、文字どおり「島民の協力等あらゆる手段を活

用」した。だが、戦況が緊迫すると、住民の命よりも軍事作戦を優

先し、住民が「戦闘の妨害」になると懸念した。戦闘地域に住民が

いれば、邪魔である。何よりも敵の捕虜になり、軍の情報を漏らさ

れることは絶対に防止しなければならなかった。だから、綿密な移

住計画をつくり、住民をいつでもコントロールできるように掌中に

おいた。そして、住民を強制的に山に押し込め、八重山諸島全体で

3600人以上をマラリアで死亡させた。

(206p)

  

  

戦争になれば、住民は利用され、

その挙句は情報をもらすことを疑われて

マラリア有病地に押し込められてしまった。

この本を読む前に、どんな内容だと予想していました。

何か事故的なことが起こって

マラリアが流行したのかと考えましたが、

違いました。

それは軍部によって長期的に組織的になされた

民は捨てられ国を守る行動でした。

  

  

「おわりに」で著者は山下虎雄について書いています。

  

 しかし、取材を終えた今も疑問は残る。波照間の強制移住を指揮

した山下虎雄こと、酒井清氏。彼について、波照間の体験者たちは、

「涙が出るほど憎たらしい」「あの人のせいで波照間みんな死んだ

のに・・・。殺せばよかった」などと憎しみの思いを吐露した。浩

おじいは、戦後も繰り返し来島した酒井氏に「二度と来るな」と抗

議文を突きつけた。これだけの被害を与えた人物への怒りは、遺族

ならば当然のことだろう。

 この男の正体を取材するなかで、私は自分自身を問うた。「もし、

私が当時、彼の立場にいたら、どんな行動を取っていただろうか」

と。

 戦時中、酒井氏は、私と同じ年頃の25歳の若者だった。戦後の

インタビューで強制移住は「天皇陛下の命令だから」と平然と語っ

ていたように、軍命を忠実に遂行した彼は、当時の軍の価値観でみ

れば、非常に優秀な軍人だった。軍国主義の元で教育され、陸軍中

野学校でゲリラ・スパイの特殊訓練を徹底され、南海の孤島に特務

員として送られ、そしてたった一人で住民利用作戦という日本軍の

重要な作戦を遂行する任務を与えられたら、私は、どうするだろう

か。

 「私も、もしかしたら彼と同じ行動を取っていたかもしれない」

 そう感じた瞬間、ぞっとした。「山下」という男と向き合うほど

に炙り出されたのは、私自身の中にもある、おぞましい人間の弱さ

だった。

 私たちの日常生活を見れば、様々な場面で私たちは「従属」して

いる。職場ではやりたくない仕事も、「上司の指示だから」とやら

ざるを得なかったり、理不尽だと思っていても「社会のルールだか

ら」と従ったりする。意識の有無を問わず、私たちの自己決定は必

ず外的要因に左右されている。75年前の日本軍からの「命令」で

あれ、現国会が次々に生み出す「法律」であれ、今後起こり得る自

衛隊からの「協力」であれ、絶対的な権力を振りかざされた時、私

たちはーあなたは、私はー果たして、どこまで抗うことができるの

か。

 「山下」は大本営の駒にすぎなかった。そして私たちも、いつで

も次の「山下」になり得る。無意識のうちに、あるいは「正義」の

名の下に率先して、残虐行為の片棒を担ぎかねない。

 だからこそ、私たちの中にある普遍的な弱さを、今、一人ひとり

が問わねばならない。

(215~216p)

  

誰でも「山下」になり得ると思います。

「まてよ」と思える気持ちをもちたい。

  

この文章を書き記していて気がつきました。

「山下虎雄」こと酒井清氏は、戦後繰り返し波照間島に

来島していたのですね。

どんな気持ちで来島していたのだろう。

世界中で最も行き辛い場所だったと思うのだが。

  

  

以上で

「沖縄『戦争マラリア』強制疎開死3600人の真相に迫る」からの

引用を終了。

沖縄「戦争マラリア」① 8カ月一緒に生活して話を聞く

  

今日は令和2年4月29日。

  

次の本を読みました。

81knifrxpulamazon

「沖縄『戦争マラリア』強制疎開死3600人の真相に迫る」

(大矢英代著/あけび書房)です。

   

引用します。

  

 2010(平成22)年春、ジャーナリストを目指して東京の大

学院で学んでいた私は、初めて波照間(はてるま)島を取材で訪れ

た。ある事件の真相を追うためだ。

 1945(昭和20)年、沖縄戦の最中、当時の全人口の3分の

1にあたる522人が死亡した。原因は戦闘ではなかった。熱病・

マラリアだ。蚊が媒介する恐ろしい感染症である。

 戦時中、米軍が上陸せず、地上戦もなかった波照間島では、空襲

など直接的戦闘による犠牲者はゼロだった。それなのになぜ大勢の

住民たちがマラリアで病死したのか。調べてみると、それは、住民

たちがマラリアの蔓延する西表(いりおもて)島のジャングル地帯

へと移住させられたことが原因だった。しかも、日本軍の命令によ

って、強制的に。

(4p)

  

冒頭で書かれたこの文章。

すでにこの出来事の結果が書かれているわけですが、

何が起こったのかわかりません。

なぜ波照間島の住民は強制的に西表島に強制的に移住させられて、

多くの人がマラリアで命を落としたのか?

想像はしましたが、結果想像は覆させられました。

  

   

 マラリアは熱帯、亜熱帯から温帯地方に広く分布する感染病だ。

主に、川や池、たまり水などに生息する「ハマダラ蚊」と呼ばれる

蚊が、肉眼では見えない微生物、マラリア原虫を媒介する。刺され

ると、マラリア原虫が血液を通じて人体へ侵入し、赤血球内に寄生

する。そして、マラリア原虫が赤血球内で増殖する時、高熱、震え、

悪寒などの症状を引き起こす。悪性の場合は、脾臓や肝臓の肥大な

どの合併症を発し、死に至る病である。

(30p)

  

具体的な説明である。この病気の怖さが伝わってきます。

  

  

Epson306 (39p)

西表島全体、そして石垣島の移住地はマラリア有病地であった。

  

  

 国家が戦争に向かう時、国や社会、民衆はどのように間違ってい

くのか。極限の状態に置かれた時、軍隊はどんな暴力性を持つのか。

私は、戦争マラリアの体験者の言葉からそれを見つけたいと思った。

そこには今、私が活きる社会にも通ずる、普遍的な教訓があるはず

だ、と。私を戦争マラリアの取材へと駆り立てるのは、結局のとこ

ろ、「今、戦争マラリアを撮らなければ」という危機感だと気づい

た。 

 2010(平成22)年12月、戦争マラリアの取材開始から9

か月が過ぎた頃、私は大学院に休学届を出し、東京を去った。向か

ったのは、八重山諸島の南の果てにある波照間島だった。日本最南

端の有人島であり、戦争マラリアで最も深刻な被害を受けた島だっ

た。そしてこの島で、私はある「おじい おばあ」と家族同然、一

つ屋根の下で8か月を過ごすことになる。

 波照間島に渡った私が最初に始めたのは、ビデオカメラを置いて、

サトウキビ農家になることだった。

(61~62p)

戦争体験者は、戦争の辛い体験を語るのを嫌がります。

いやがうえにも当時の辛酸な体験を思い出すことになります。

東京からぶらっと来た大学院生になんて話してくれません。

そこで大矢さんは、住み込むことにしたのです。

腰をすえて、一緒に生活して、ゆっくり聞くことにしたのです。

素晴らしい。  

  

  

 波照間島は、戦争マラリアで当時の波照間全住民の99,8%に

あたる1587人がマラリアにかかり、このうち30%相当の47

7人が死亡した(1947年資料による 資料名略)。1995年

に武富町が実施した再調査で死者数は552人に引き上げられた。

島民の3人に1人がマラリアで死亡し、八重山諸島の中で最も深刻

な被害を受けた島だ。

(66~67p)

  

浦仲孝子さんは、1945年に西表島に

強制移住させられた時に14歳となります。

家族は11人でしたが、戦争マラリアによって、

両親、兄弟、祖父母、合わせて9人を失い、

戦後は唯一生き残った4歳年下の妹と2人で生きてきました。

大矢さんは、そんな体験をした孝子さんの家に

住み込みました。

  

つづく

 

2020年4月28日 (火)

今日の朝刊も収穫あり/雑談も業務・進学塾と手を組む

 

今日は令和2年4月28日。

  

今日の朝日新聞朝刊も収穫がありました。

  

Epson305  

「雑談も業務」

これって学校の先生と生徒の関係でもあると思います。

先生は生徒に教えるだけでなく、

「どうだい?調子は?」「何やっているの?」みたいな問いかけを発し、

生徒と交流するべきだと思います。

こんな時だからこそ、雑談が大事だと思います。

注目すべきだとおもいます。

そのために今思い浮かぶのはメール利用です。

ダメもとで、勤務校に提案したいです。

(復職プログラム中の身で言える立場ではないかもしれませんが)

  

  

Epson303  

地元愛知県でこのような実践が行われています。

進学塾と手を組むなんて、思いつかなかった。

こういう記事を読むと、頭が活性化されます。

ここでも道草 「コロナ休校の春①」/文部科学省4月23日の事務連絡(2020年4月26日投稿)

文部科学省の「平常時のルールにとらわれることなく」を

思い出します。

 

昨日連絡があって、5月6日までだった休校が

5月31日まで伸びました。

何か実践したい、いやいや実践しないといけない

令和2年度5月です。

「本音で生きろ」⑤ 世の中で最も貴重な資源は、時間だ

  

今日は令和2年4月28日。

  

前記事の続きで、

「本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方」

(堀江貴文著/SB新書)より引用します。

  

  

 自分の意見をうまくアウトプットできないと悩む人もいるが、そ

れはたんにインプットしている情報量が足りていないだけだ。イン

プットの量とスピードを増やせば、自然とアウトプットの量やスピ

ードも増え、自分なりの考察が自然と湧き出てくるようになる。頭

を使うべきは、自分の考察をどうひねり出すかではなく、インプッ

トの量とスピードをいかにして向上させるかなのだ。

 そして、日々の習慣として「考えること」を繰り返すこと。スマ

ホが使えなくても、数秒しか時間がなくても、考えることはできる。

考えることはなんだっていい。(中略)

 情報をインプットし、アウトプットし、「考えること」を繰り返

す。ボーッとするのではなく、自分の時間を思考で埋めていくと、

ある瞬間に解決策やアイデアがふっと浮かぶようになる。自分の脳

を情報と思考で埋めれば、どうでもいいことで悩んでいる暇などな

くなってしまうはずだ。

(159~160p)

  

自分の脳を情報と思考で埋めることで、

アイデアが出てくるというのは、わかるような気がします。

考えるクセは大事ですね。

  

「インプットしている情報量が足りない」

この記事を思い出しました。

ここでも道草 「本を読む人だけ」④ 300冊を超えたあたりで、何か語りたくなる(2020年1月9日投稿)

  

 

 僕は人間関係についても新陳代謝を強く心がけている。

 毎月新しい知り合いを一人作ろうとか、年齢や性別もバックグラ

ウンドも違う人と仲良くしようとか。

 僕もそうだが、たいていの人は、ついつい同じ人とつるんでしま

う。安定した人間関係を築いて、その関係をずっと続けていこうと

する。同じ友人、同じ職場の同僚、同じ趣味のサークル・・・。

 同じ人間関係からは、新しいワクワクすることはなかなか起きな

い。その一方で、変なしがらみができてしまい、自分の行動や考え

がしばられてしまうことになる。

 それなら、今までとはまったく違うタイプの知り合いを毎月一人

でも作るようにすればいい。今まで会ったことのない人と知り合い

になれば、そこにまた新しい何かが生まれる。

(160~161p)   

   

私は教師になる前から「教師」という職業を

出会いのツールにしていました。

就職浪人中に、北海道オホーツク岸を歩いた時には、

「来年は教師になります。何か教えてください」

「何か体験させてください」と言いまくっていました。

「教師」ということで、一肌脱いでくれる人は世の中に多いのです。

もちろん、脱いでもらったからには、

頑張って報いるようにしてきました。

「教師」でおれる時間も、2年切りました。

この堀江さんの文章を読んで、「教師」という立場を利用して

新しい出会いを作りたいと思いました。

  

  

 今はやればなんでもできるような夢のような時代だということだ。

確かに、世界には悲惨な状況に置かれた国は多いが、少なくとも日

本はそうではない。

 社会が安定していて、あらゆる面で高度なインフラが整備されて

いる。誰もがネットにアクセスできる。今の日本に生まれたという

だけで、最初から大当たりを引いたようなものだ。

(170p)

  

 

新型コロナウイルスによって、

社会は一挙に不安定になったと思います。

でもやれることの幅の広い国ではある。

そのことをもったいないと思わなくては。

  

 

 これほどまでになんでも得られる恵まれた社会で、一つだけ心が

けておくべきことがある。

 それは、”Give,Give,Give"。つまり、

惜しみなく人に与えるということだ。

 僕は昔から、与えられた以上の価値を必ず相手に与えるようにし

ている。仕事でいえば、無茶に思える依頼であっても、知恵を絞っ

て取り組み、相手の期待以上のものを仕上げてきた。

(174~175p)

  

偉い!

 

最後の引用。☟

「おわりに」に書いてあったことです。

  

 繰り返すが、この世の中で最も貴重な資源は、時間だ。時間さえ

有効に使うことができれば、自分のやりたいことはどんなことでも

叶えられる。

 一方、時間を浪費することは簡単だ。言い訳したり、誰かの言い

訳を聞いているうちに、貴重な時間はあっという間に失われてしま

う。その時間で新しいチャレンジがいくつかできたであろうに。

 矢沢栄吉ではないが、結局世の中には「やる奴」と「やらない奴」

しかいない。

(189p)

  

「やる奴」であり続けたいですね。

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