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2020年12月

2020年12月10日 (木)

玄米酢2本買う/「他山の石」「知音」

   

今日は令和2年12月10日。

  

毎朝飲んでいる玄米酢が残り少なくなってきたので、

学校の帰りにスーパーに寄って、2本買ってきました。

最近、2本買いが多いなと思います。

洗剤やボディーソープ、シャンプーの詰め替えを買う時など、

2本買うんです。

残り少ないから買いに行くわけで、1本だけ買った場合、

すぐに使うことになるから、

早くも「在庫なし」状態になってしまいます。

それをおそれての2本買い。

あまりいい精神状態ではないのかもしれません。

とりあえず、今年は玄米酢、大丈夫です。

  

  

教室にあった国語のプリント。

なかなか難しかった。

正しいほうに〇をうてという故事成語の問題。

  

他山の石

( )他人のよくない言動でも、自分の行いをよくするため

   参考にすること。

( )他人のよい言動を見習って、自分の行いをよくすること。

  

こんなの簡単だと思いましたが、

どっちだったか迷ってしまいました。

  

   

確かめました。

 

(〇)他人のよくない言動でも、自分の行いをよくするため

   参考にすること。

  

でした。類語として「反面教師」があります。

「反面教師」とセットで覚えれば、間違いは少ないでしょう。

  

  

次の問題もあ然としました。

  

知音(ちいん)

( )おたがいのことをよく理解している親友

( )友人から届いた手紙

  

「知音」という熟語に出合ったのが、

もしかして初めてではないでしょうか。

こんな言葉があるの?

  

これも確かめました。

  

(〇)おたがいのことをよく理解している親友

  

でした。

  

こんな動画がありました。


YouTube: 【漢文】1分間で学ぶ高校漢文「知音」

  

1分間で分かりました。

いい話がベースでできた言葉なのですね。

  

賢くなった。

 

2020年12月 9日 (水)

「フィッシャーズ」ファン/見るだけでなく動画を編集してみたい

   

今日は令和2年12月9日。

  

最近やってみたいなと思っていること。

動画を編集することです。

30年ほど前にやったことがありますが、

その頃は編集用の機器を使って、

四苦八苦して画面をつなげ、

画面の上に文字を写し出したりしていました。

 

今はどうなんだろう。

私は縁あって、フィッシャーズの動画を頻繁に見るようになりました。

今晩はこれを見ました。


YouTube: 【神業】ダイス・スタッキング10個立てるまで終われま10で凄技連発する!?

この1本の動画を見ただけでも、

見る人を飽きさせないように、

見る人がわけわからなくならないように、

様々な編集がしてあると思います。

画面のいろいろなところに出没するテロップ、

リプレイのスロー再生、時間短縮のための早送りなどなど。

次のような場面がありました。

ダイス・スタッキング10個に挑戦して、初めて成功したシーンです。

1

2

3

4

5

6

7

8  

こんな編集、30年前にはできませんでした。

フィッシャーズはもう編集をやり込んでいるから、

こんな動画ができるのでしょう。

そんなレベルではなくてもいいから、

今どきの動画編集に挑戦してみたいです。

  

私の武器は2年前に買ったiPad pro。

これでどうにかならないか。

編集用のアプリはあるようですが、

どれにするかを決めるのが迷うんですよね。

   

こういうことは詳しい人に聞かないとね。

   

小さな作品を作って、

このブログに埋めることができると楽しいだろうなあ。

2020年12月 8日 (火)

通算7400本目の投稿/「未来少年コナン デジタルリマスター版」全26話録画/原作も読んだ

   

今日は令和2年12月8日。

  

NHKで「未来少年コナン デジタルリマスター版」

毎週放映されていました。全26話。

11月2日の放映が最終話でした。

その時の写真。

Rimg1847 

1978年の放映だったのですね。

42年前。

見ていたと思います。

17歳。

高校生です。

超人的なコナンの活躍を楽しんだ覚えがあります。

そんな思い出があったから、今回のデジタルリマスター版は、

録画しました。

 

ふと目にとまった原作。☟

Rimg1848   

読んでみたいと思い、実行しました。

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読み切るのが辛かった。

なかなか面白くならなくて、いつか面白くなるかと読んでいましたが、

ついに最後まで、面白くなかったと思った本でした。

よくぞ、この本を原作として「未来少年コナン」が誕生したなあと

驚きです。

1970年に発表され、1974年に訳本が出版されています。

文章に古臭さを感じました。

「復活の日」(小松左京著)を読んだ時にも感じました。

同じSFのジャンル。

50年の生活環境の大きな変化が、

古臭さを感じてしまう理由のひとつだと思います。

 

そして文章は色褪せることはないけれど、

言葉は変化しているので、

50年もすると古臭くなってきてしまうのでしょうか。

今自分が書いている文章も、いつのまにか今風になっていて、

50年もすると古臭さが出てくるのでしょう、きっと。

思えば新任時代に書いた学級通信は、もう35年前です。

自分の文章で50年後の古臭さを体験できるかな。

  

  

私より少し年下の人が、「天声人語」を書いていました。

2020年11月29日の「天声人語」です。☟

  

毎年この時期に、その年の商品や出来事を振り返る「ヒット商品番

付」なるものが発表される。今年、SMBCコンサルティングが東

西の横綱に選んだのは「オンライン生活」「感染予防グッズ」と、

順当なところだ。へえと思ったのは西前頭2枚目の「再放送・再上

映」である▼コロナ下の撮影自粛により、往年のドラマがテレビで

よく流れていた。映画館でもリバイバル上映がなされた。若い世代

の心を動かし、予想以上の人気となった作品もあったようだ▼いわ

んや昔のファンをや。25年前のドラマ「愛していると言ってくれ」

の再放送を楽しんだ人の声が紙面にあった。「ドラマの中に入って

いく私はおばさんではなく、紘子さんになっていました」。紘子さ

んとは常盤貴子さん演じる俳優の卵。聴覚障害者の画家と恋に落ち

る▼かくいう私も中学時代に熱中したアニメ「未来少年コナン」に、

約40年ぶりに心を奪われた。最終戦争により文明が破壊された後

の世界で、少年が冒険を続ける。昔ほど主人公に自分を重ねられな

かったが▼むしろコナンの育ての親の「おじい」に感情移入してい

る自分に気づく。悪役で、科学都市の政治指導者レプカの気持ちも

少し考えてみた。政治を担う身としては、人々を飢えさせないわけ

にはいかない。そんな責任感が暴走した面もあるのか・・・・見て

いない人、ごめんなさい▼ドラマやアニメ、あるいは小説であって

も再会には再発見の楽しみが伴う。コロナが、いやコナンが教えて

くれた。

  

  

今回録画した「未来少年コナン デジタルリマスター版」全26話は、

引退したら、ゆっくり見たいです。

その時には、この「天声人語」を読み返し、

レプカの気持ちについても考えてみたいです。

  

原作のレプカは、指導者ではなく、

「市民レプコ!」と長官に呼ばれて登場する手下でした。

  

目がどんよりしてしまりのない、ほとんどひげのない、ぶくぶくふと

った大男が入口にあらわれた。

(51p)

  

このように表現されていました。

参考までにここに書き残しておきます。

奈良県が企画した動画「行基」「藤原不比等」

    

今日は令和2年12月8日。

  

奈良県が企画して、次のような2本の動画が作られました。

2017年5月にアップされています。


YouTube: 行基(日本語字幕)

もう1本は藤原不比等の話でした。

YouTube:藤原不比等(日本語字幕)

  

藤原不比等が取り上げられていることに驚きました。

藤原不比等と聞くと、ダークなイメージがあります。

でもこの動画によると、大宝律令制定の中心的な役割を果たし、

平城京遷都も成し遂げた人物、

さらには藤原家という華麗な一族の確立した人物として

描かれています。

  

藤原不比等の名は、この記事で書いていました。☟

ここでも道草 「藤原氏の正体」2 藤原五摂家の近衛(2012年4月21日投稿)

ひさかたぶりの登場です。

この動画を知ったのを機会に、

藤原不比等の本を読んでみたいです。

実行しよう。

   

2020年12月 6日 (日)

「孤塁」⑤約半数がうつによる休職を経験

  

今日は令和2年12月6日。

  

前記事に引き続き、

「孤塁」(吉田千亜著/岩波書店)より引用します。

   

津波による行方不明者捜索活動の時のことです。

  

捜索中には、カラスがたくさんいた。カラスがいると、遺体がある。

カラスには嗅覚がなく、視力がよいことを上司に教えてもらった。

ゴミ袋が半透明でも、中身が見えるのだという。カラスには、上空

から遺体が見えていたのかもしれない。不思議と捜索の手助けにな

っていた。

(174p)

  

体験者だからわかることです。

  

災害現場で二次災害を受けるのは消防だ、と富樫正明は話す。国・

県・東京電力の被害想定やマニュアルは、「安全」の上にあるただ

のシナリオでしかない。惨事ストレスやPTSDなどの職員へのメ

ンタルヘルス対策も事故前は準備されていなかった。原発事故から

2~3年の間に、係長以上の職員のうち、約半数がうつによる休職

を経験した。

(179p)

  

放射線被ばくの恐怖、捜索による遺体の発見は、

消防士の心を蝕んだと思います。

  

 

この本で涙を流したのは、「エピローグ」でした。

そこの話は引用しません。

またこの本と再会した時に読みたいです。

  

  

ふたたび「あとがき」からの引用をします。

  

初めて双葉消防本部に行った時に話をしてくれたのは、今は退職さ

れた渡邉敏行さんだった。その渡邊さんが、「全員から話を聞いて

もいいよ」と言ってくださったのを真に受け、「本当に全員の方か

らお話を伺いたい」とお願いした。郡山市から浜通りに何度も通っ

たが、双葉消防本部のみなさんが、川内村からどういうルートで郡

山市に搬送したのか、あるいは川内村からどういうルートで大熊町

の現場に向かったのかを、その往復によって私自身が理解する手助

けにもなった。中通りから浜通りに抜けるには、山を越える。「郡

山市への搬送

」や「浜通りへの出勤」は、一言で言えば簡単に聞こえるが、つま

り、1~2時間ほどかけて毎回、山越えをしているのだ。

(205~206p)

  

郡山から浜通りへの往復は、2月の旅行で体験しています。

私にもわかります。山越えでした。

予想以上に時間がかかりました。

  

  

あるシンポジウムで宇都宮大学の清水奈名子さんが、「原発事故に

おいても、男性はかくあれ、というものを押し付けられてしまった」

とジェンダーの視点から示唆してくださった。自らの命や家族を思

い、内心では恐怖を感じ、「逃げたい」と思っていた消防士もいた

ことも改めて考えさせられた。

(207p)

  

そうか、こういう視点もあるのだと思いました。

  

  

以上、最近にはない量の文章を引用しました。

時間はかかりましたが、これぞ道草。

私の時間の使い方だと思います。

 

東日本大震災についていい勉強ができました。

「孤塁」④非日常である双葉郡

   

今日は令和2年12月6日。

  

前記事に引き続き、

「孤塁」(吉田千亜著/岩波書店)より引用します。

  

  

2011年3月16日のことです。

   

20キロ圏内の救助・救急活動を続けた消防の活動について、また、

爆発後の原発構内に入った活動について、「国や県の記録に残ってい

るのだろうか」と木村匡志(ただし?)は懸念する。「忘れたくて、

話題にしない人もいる。それぞれの思いはあるけれど、それでも、残

さなければ風化してなくなる。記録に残すことは大事だと思う」と木

村は言った。記録に残らなければ、歴史から消えてしまう。

わずか125名の職員と、限られた資器材で対応した大震災発生後の

数日間。繰り返される要請に、署に戻ることもままならず、通常なら

帰署後に書く救急活動記録すら残せなかった。木村はしばらくして、

「記録に残す」ことを意識し始めた。

(141~142p)

  

この本は貴重な記録本となりました。

  

3月16日のことです。

  

16日の午後から、ようやく、これまでの勤務体制と同じように二交

代制をとることが決まった。4号機の火災現場に赴いていた職員らが

川内出張所へ戻ってきてからのことだ。双葉消防本部では、震災以前、

24時間勤務と非番を3回繰り返したあとに2日休むという8日サイ

クルを二部体制で回していた。しかし、3月11日から16日までは、

すべての職員が1日も休まず、24時間勤務を続けていた。

(149p)

  

11日から16日まで24時間勤務。

そのような状態だったのですね。

  

  

3月19日のことです。

  

鈴木直人も、ようやく家族に会えたのは19日頃だった。妻や子ども

たちの避難先では、「こっちは『普通』なんだな」と思った。災害の

真っ只中にあり非日常である双葉郡と、避難先に存在する日常との乖

離を、肌で感じた。そして、こうも思った。これまで、他の地域で災

害があった時、自分も日常の側で過ごしていたんだ、と。

(154~155p)

  

私はこの本を読んで、

双葉郡の非日常を疑似体験できたと思っています。

ずっと日常で過ごしていますが、

本はそんな体験をさせてくれました。

  

  

東京消防庁のハイパーレスキュー隊や自衛隊の活動は大々的に報道され

ていたが、双葉消防本部が事故発生以降続けてきた数々の活動について

まったく報道がなく、誰にも知られていなかった。実際に避難所で住民

から、「双葉消防は何やってんの?」と咎めるように言われた職員もい

た。

「マスコミに我々の活動を訴えたらどうか」と提案した職員もいたが、

「我々がヒーローになる必要はない」という意見もあった。避難指示に

よって住民が大変な状況に置かれていることへの配慮だった。

(157p)

  

  

辛いね~双葉消防。

でもこの本が出たことで、真実が伝わると思います。

  

  

つづく

「孤塁」③特攻隊のようなことをしなくてはならないのか

   

今日は令和2年12月6日。

  

前記事に引き続き、

「孤塁」(吉田千亜著/岩波書店)より引用します。

  

2011年3月12日のことです。

  

「22時23分、富岡消防署を閉鎖します」

上司が無線で告げるのを横で聞いていた渡部は、「今後、こんな経

験をすることはないだろう」と思った。消防署は365日開いてい

て、119番通報も24時間受け付けているものだ。それを、閉じ

る。「助けてください」とひとが駆け込む場所が、閉まる。

(62p)

  

福島第一原発からの放射性物質放出のため、

消防署のある場所は避難地区になったのです。

  

  

3月13日のことです。

  

当時、避難所では、職員たちのタイベック(防護服)姿が不評だっ

た。原発事故によって、突然避難を余儀なくされた人々には苛立ち

も広がっていた。この先どうなるかという不安だけではなく、当然、

放射能汚染への不安もあった。「自分らばっかり防護して」「不安

を煽(あお)るからやめろ」「そんな格好でくるんじゃねぇ!」な

どと言われ、職員の中には避難所に入る際にはタイベックを脱いで

活動する者もいた。

(80p)

  

最前線で活動していた消防士たちには、タイベックが必要でした。

でもこのように見られていたのですね。

  

  

3月15日のことです。

少々長い引用ですが、大事な場面であるので、引用します。

  

極限状態での「さよなら会議」

川内出張所に職員が集まると、消防長が切り出した。

「イチエフ(福島第一原発)の原子炉の冷却要請が東電から来てい

る。地域を守りたいし、俺達しかいない。放射線に対する知識もあ

り、資器材もある。どう思うか」

消防の指揮命令系統は、消防長の指示、現場であれば上司の指示に

従うのが通例だった。部下に意見を聞くのは稀なことだ。

岡本博之は、「今までの消防生活の中でこの時以上に緊張した場面

はない」と思い返している。消防長の問いかけのあと、室内には怒

号が飛び交った。

「殺す気なのか!」

「反対だ!」

「何を考えているんだ!」

1号機と3号機が爆発し、給水作業中の自衛隊も東電社員も怪我を

した。オフサイトセンターも撤退するほど、原発の状況は危険だ。

しかも正確な情報が伝わってこない。

冷却水として海水を取るというが、ポンプで汲み上げられるものな

のか。現場の放射線量は。海水を入れれば原子炉の状況は改善され

るのか。自分たちが触ったことのないポンプ車を動かせるのか。多

くの職員が、チェルノブイリの消防士たちの運命やJCOの臨界事

故を思い浮かべた。

「行けと言われたら辞表を出す」と言った職員や、「業務命令なら

行くしかない。その代わり家族を一生面倒みてください」と言った

職員もいる。双葉消防に入って1年目の若い職員は吐き気をもよお

し、その場で倒れた。

渡邉敏行は、「無事な保証は何もない。情報が足りなさすぎる」と

思っていた。岡本は「これでは、特攻隊と同じではないか」と思い、

志賀隆充は、「トカゲの尻尾切りではないか」と思った。野村浩之

は「日本はもう終わりなのかな」と考え、坂本広喜は「情報がない

と行けないです」と言った。全住民が避難した今、一企業のために、

消防がここまでする必要があるのか。国は、県は、出てこないのか。

消防は、特攻隊のようなことをしなくてはならないのか。全国から

緊急消防援助隊が来ないと知ってから、孤独感でいっぱいななか、

活動を続けている。その最中のこの話だ。

「行きたくありません。家族が大事です」と言った職員もいる。そ

れを聞いていた畠山清一はほっとし、心の中で感謝していた。まだ

22歳の自分のような下っ端には、一番、言いたくても言えない一

言だった。3号機爆発を目の当たりにしていた遠藤朗生は正直怖い

と思っていたが、これで東日本がダメになるというなら、「捨て石」

になっても行かざるを得ないのだろう、と考えていた。木村匡志は、

作業員を助けるために構内に行くならいいが、捨て駒のように「冷

却しろ」「突入しろ」というのは違うだろう、と思った。

「状況が把握できていなくて、リスクが高すぎる。いつもの消防長

の判断と違う」と違和感をおぼえた鈴木達也は、つまり、死ぬこと

が前提なのだと感じていた。自分が選ばれるかどうかはわからない

が、家族にひと目会っておきたかった、と思った。鈴木は、家族と

は連絡がとれていなかった。「情報を引っ張ってきてくれるなら、

俺が明日行く」と言った職員もいたが、ほとんどの職員が反対して

いた。

工藤昌幸は、「この状態で我々が葛藤していることを、国は知って

いるのだうか・・・・」と考えていた。人のいなくなった町で、今

なお活動を続け、さらに原発の冷却要請に葛藤している我々の存在

を、誰が知っているのか。多くの職員が泣いていた。

最終的には、東電から現場にいる社員を川内出張所に呼び、詳細な

情報を教えてもらってから再度検討する、という結論になった。

(中略)

宮林晋は、被ばくも当然怖かったが、原発に至近距離で爆発される

ことのほうが怖かった。携帯メールに妻にあてて遺書を打ち込み、

いざとなったら送ろうと考えていた。堀川達也は、高校で唯一の友

人に遺書を送った。妻には心配をかけたくなかったため、「頑張っ

てな」とだけ送った。草野重信も、いつも持ち歩いている小さなメ

モに、遺書を書いた。

家族あっての仕事、と思い続けてきた松本孝一も、妻と子どもあて

に遺書を書いた。電話が通じたときに、「遠くへ避難しろ」と家族

には伝えてあったが、妻は「一緒に避難して」と松本を案じて泣い

た。心細いだろう、一緒にいてあげたい、と思ったが、仕事を離れ

ることはできなかった。娘は県外の大学に進学が決まり、息子は、

野球がしたくて双葉高校に入学し、頑張っていたところだった。地

震があった日も、一人暮らしを始める娘の家具を買いに出かけてい

た。二人とも「これからだね」と思っていた矢先の被災、そして避

難だった。松本は、楽しかった日々のこと、感謝の思いを綴り、も

し自分に何かあったら子どもたちのことを頼む、と妻にあてた。

(119~122p)  

  

このような葛藤が、3月15日にあったことに驚きです。

以前、「死の淵を見た男 吉田昌郎と

福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)

を読みました。

ここでも道草 昨日、また本を読破しました(2019年10月23日投稿)

「死の淵を見た男」とは別角度から、

東日本大震災とそれに伴う原発事故を描いた本でした。

ここにも死を覚悟した人たちがいました。

2020年12月 5日 (土)

「孤塁」②「あとがき」から著者の取材方法を知る

   

今日は令和2年12月5日。

  

前記事に引き続き、

「孤塁」(吉田千亜著/岩波書店)より引用します。

  

今回はあ「あとがき」から引用します。

  

2018年10月から双葉消防本部に通い、原発事故当時の活動をし、

現在も活動を続けている66人から話を伺った。当時活動していた1

25名のうち約半数は、原発批難にともなう家族との兼ね合いや、定

年などの理由で退職されている。

双葉消防本部(楢葉町)、浪江消防書(浪江町)、富岡消防署(富岡

町)、楢葉分署(楢葉町)、川内出張所(川内村)、葛尾出張所(葛

尾村)の会議室や食堂、事務所内で、一人1時間半から長い人では4

時間以上、各人1回~3回ほど、当時の聞き続けてきた。その証言を

時系列に並べ、背景を添えた。多くのことを話していただいたのに、

ここに書ききれなかったことはたくさんある。

なかには、当時を思い出したくない人もいただろう。実際に、取材は

どうしても受けられない、という方も数人いて、当時活動していた職

員全員というわけではない。もう9年と思う人もいるだろう。しかし、

「まだ」9年である。一人一人がさまざまな思いや苦悩を抱えるなか

でそれを聞かせてもらい、文字にすることは、常に「伝えたい」「残

さなくてはならない」という思いと、「申し訳ない」「恐れ多い」と

いう思いの繰り返しだった。事実と証言だからこそ、取捨し、まとめ

るということに対し、自責の念に苛(さいな)まれる。一人一人にそ

れぞれの思いがあることは、強調しておきたい。また、私は、事故を

起こした原発から供給される電気を使い続けてきた関東の人間であり、

そして「原発」を知らず知らずのうちに容認したこの時代の人間であ

る。そして、癒えていない傷をこじあけてしまう取材者である。

(203~204p)

   

この本のできた過程を知ることができた「あとがき」です。

この「あとがき」は9ページあるのですが、

9ページすべてに、著者の思いのこもったものでした。

  

  

「あとがき」の文章から、この本の作られたいきさつが見えたとこ

ろで、再び前の方に戻って引用していきます。

  

3月12日のこと。

  

浪江消防署の畠山清一は、自らもタイベックを着て半径10キロ圏

内から逃げ遅れた住民がいないかを確認するため、昼すぎに双葉中

学校の体育館へと向かう。

そこにいた住民はさらに遠くへと非難し、誰もいなかった。

ほっとした矢先、突如、1時間に1回程度の「ピッ」だったポケッ

ト線量計が、1~3秒に1回、今までとは違うスピードで鳴り始め

た。明らかに原発で何かが起き、ここまで放射線が飛んできている

ことを知らせている。

「まだ死になくない・・・」

畑山は率直にそう思った。景色は何も変わらないのに、音だけが、

身の危険を知らせていた。

(45p)

「景色は何も変わらない」

目に見えない危険は、怖い。

  

つづく

                            

「孤塁」①2月に福島県に行ったことが理解の助けになった

   

今日は令和2年12月5日。

  

この本を読みました。

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「孤塁」(吉田千亜著/岩波書店)

 

読むきっかけになったのは、新聞記事でした。☟

ここでも道草 吉岡逸夫さんの本等3冊、図書館に予約しました(2020年11月15日投稿)

  

今年2月に福島県に行きました。

ここでも道草 2020福島報告(1)国道288号線を東進/田村市(2020年2月24日投稿)

その時に出向いた大熊町、富岡町、郡山市、田村市が

この本の中に出てきました。

行かなかったけど、双葉町、川内村の町村名は目にしました。

この旅行の体験が、この本の理解の助けになりました。

それとともに、私は知識不足であの場所に行ったんだなと思いました。

知識不足なのに、地元の人たちに話を聞いていました。

赤面です。

2011年3月11日に始まる大変さをあらためて知りました。

  

  

この本は図書館で借りた本。

明日には返す本です。

できるだけ引用したい。

この本を読み返すのではなく、

このブログを読み返すことで、この本のことを思い出せるように。

忘れたくない本です。

  

3月11日のことです。

  

富岡駅周辺も津波で無残な光景が広がっていた。志賀隆充は、四人の

職員のうち一人を津波が見える地点に配置し、「津波が見えたら笛を

吹け」と指示した。消防士一年目の秋元康志(25・富岡町消防署警

防第一係)もこの捜索に加わった。

大津波警報はまだ解除されていなかった。瓦礫は数メートルの高さに

なるところもあった。駅から直線距離で四〇〇メートルほど手前の宮

嶋歯科医院までしか車では行けず、そこから徒歩で捜索に入った。

「声をあげてください!」

「音を鳴らしてください!」

と声をかけ、「みんな、静まれ」とサイレントタイムを作る。慎重に

歩を進めた。「助かる命をなんとか助けたい」という思いがあった。

志賀は、これまでの消防生活も常に「自分の家族を助けに行くのと同

じ」という思いで活動してきたのだ。

津波を知らせる笛が何度も鳴る。そのたびに三人はいったん捜索を中

断し、高い場所へと逃げた。

富岡駅の前までたどり着き、「誰かいますか!」と呼びかけると、風

か地響きか、音が聞こえた。唸り声?人の声っぽいな、と思い、胸の

高さほどあるプラットホームにのぼると、目の前の瓦礫の中に、灰色

の人形(ひとがた)が見えた。腕に電線がからまっている。「うぅ」

という声の主は、その人だった。

志賀は電線を外し、もう一人の職員とホームへ持ち上げようとしたそ

の時だった。「ピーッ」と笛が鳴った。津波が来る。咄嗟に、二人は

その灰色の身体の首根っこをつかみ、ホームの渡り廊下を目指して全

力で走り、階段を駆け上がった。その直後、渡り廊下の下を、どーっ

という音とともに、津波が通り過ぎていった。「うそだろう」。志賀

は、この時もそう思った。すべてが悪夢のような時間だった。

「おんちゃん、泥飲んで、苦しいね」

と声をかけながら泥を落とすと、胸から警察バッチと手帳が出てきた。

瓦礫の中から大きな板を見つけ、それを担架代わりにした。無線で車

が入れる宮崎歯科医院前まで救急車を要請し、瓦礫の山の中を慎重に

運んだ。

(23~24p)

  

サイレントタイムは大事な時間です。

それで発見された警察官。

きっと警察官の責務を一生懸命にやられた方だと想像します。

助かってよかった。

  

  

次の投稿につづく

   

日めくりより/電話は右の耳で聞いたほうがいい

   

今日は令和2年12月5日。

  

勤務校での検診で、右耳の聴覚を調べてもらった時に、

高音が聴き取れないことがわかりました。

何となく感じていましたが、

やっぱり耳に衰えがきたかと思いました。

 

職員室に生徒がやってきて、

入り口で「〇〇先生、おられますか」と言うのですが、

「え、何先生?」と聴き取れないことがありましたが、

他の先生は聴き取れていたのです。

高音が聴き取れていないために、

このようなことがあったのかと合点がいきました。

  

 

ふと自分が電話で話している時に気がついたのは、

左手で受話器を持って、左耳に受話器を当てているなと。

右耳が衰えてきたのなら、

これでいいんだなとその時に思いました。

 

  

 

ところが・・・・

  

つい先日、病院で聴覚検査をしました。

あらかじめ「右耳が悪いですよ」と検査の人に申告しました。

悪いことに自信がありました。

しかし、検査の結果、

「ちゃんと聴こえていましたよ」と言われました。

え、そうなんだ。

  

さらに日めくりで、次のようなのがありました。

  

日めくり「雑学王」(TRY-X)より。

  

電話は右の耳で聞いたほうがよい理由は?

Epson557   

右耳はまだ大丈夫だと思うこと。

衰えたと思えば、さらに衰えは進む。

電話はできるだけ受話器を右耳にあてること。

(習慣になっているから難しいかな)

 

そんなことを思いました。

   

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