「孤塁」②「あとがき」から著者の取材方法を知る
今日は令和2年12月5日。
前記事に引き続き、
「孤塁」(吉田千亜著/岩波書店)より引用します。
今回はあ「あとがき」から引用します。
2018年10月から双葉消防本部に通い、原発事故当時の活動をし、
現在も活動を続けている66人から話を伺った。当時活動していた1
25名のうち約半数は、原発批難にともなう家族との兼ね合いや、定
年などの理由で退職されている。
双葉消防本部(楢葉町)、浪江消防書(浪江町)、富岡消防署(富岡
町)、楢葉分署(楢葉町)、川内出張所(川内村)、葛尾出張所(葛
尾村)の会議室や食堂、事務所内で、一人1時間半から長い人では4
時間以上、各人1回~3回ほど、当時の聞き続けてきた。その証言を
時系列に並べ、背景を添えた。多くのことを話していただいたのに、
ここに書ききれなかったことはたくさんある。
なかには、当時を思い出したくない人もいただろう。実際に、取材は
どうしても受けられない、という方も数人いて、当時活動していた職
員全員というわけではない。もう9年と思う人もいるだろう。しかし、
「まだ」9年である。一人一人がさまざまな思いや苦悩を抱えるなか
でそれを聞かせてもらい、文字にすることは、常に「伝えたい」「残
さなくてはならない」という思いと、「申し訳ない」「恐れ多い」と
いう思いの繰り返しだった。事実と証言だからこそ、取捨し、まとめ
るということに対し、自責の念に苛(さいな)まれる。一人一人にそ
れぞれの思いがあることは、強調しておきたい。また、私は、事故を
起こした原発から供給される電気を使い続けてきた関東の人間であり、
そして「原発」を知らず知らずのうちに容認したこの時代の人間であ
る。そして、癒えていない傷をこじあけてしまう取材者である。
(203~204p)
この本のできた過程を知ることができた「あとがき」です。
この「あとがき」は9ページあるのですが、
9ページすべてに、著者の思いのこもったものでした。
「あとがき」の文章から、この本の作られたいきさつが見えたとこ
ろで、再び前の方に戻って引用していきます。
3月12日のこと。
浪江消防署の畠山清一は、自らもタイベックを着て半径10キロ圏
内から逃げ遅れた住民がいないかを確認するため、昼すぎに双葉中
学校の体育館へと向かう。
そこにいた住民はさらに遠くへと非難し、誰もいなかった。
ほっとした矢先、突如、1時間に1回程度の「ピッ」だったポケッ
ト線量計が、1~3秒に1回、今までとは違うスピードで鳴り始め
た。明らかに原発で何かが起き、ここまで放射線が飛んできている
ことを知らせている。
「まだ死になくない・・・」
畑山は率直にそう思った。景色は何も変わらないのに、音だけが、
身の危険を知らせていた。
(45p)
「景色は何も変わらない」
目に見えない危険は、怖い。
つづく
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