「藤原氏の正体」2 藤原五摂家の近衛
今日は4月21日。再スタートして8日目。
前投稿のつづき。
「藤原氏の正体」(関裕二著/新潮文庫)より。
藤原氏は「平安時代の人たち」というイメージですが、
そうとは限らないようです。
引用します。
藤原氏は中臣鎌足以来、つねに日本の頂点に君臨しつづけた。
しかも、それは、一貫して、「天皇家のため」ではなく、
自家の繁栄のためだったように思えてならない。
それは、この一族の生まれつきの習性であったようにも思えるのだ。
その習性、伝統は、古代から近代、現代にいたっても、まったく変わっていないのである。
そして、藤原氏にとって、「天皇」とは、
自家の繁栄を継続するための道具にすぎなかったのではなかったか。
じっさい、現代にいたっても、藤原氏は「天皇にもっとも近い一族」という立場を利用して、
目に見えない閨閥(けいばつ)を作り上げてしまっているのである。
そこでこのあたりの事情を、現代史に焦点を移してすこし説明しよう。(56-57p)
現代も藤原氏の影響がある?興味津々で読み進めました。
続きはこうなっています。
太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座についた近衛文麿は、
昭和天皇に政務を上奏するとき、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。
もちろん周囲の顰蹙を買ったが、このような不謹慎が許されるのにはわけがある。
近衛氏が藤原五摂家(ごせつけ)の筆頭だったからにほかならない。(57p)
苗字は「近衛」でも、藤原氏と関係があった。
五摂家は七世紀の大物政治家・藤原不比等の4人の男子、
武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)のなかの、
房前の末裔、藤原北家(ほっけ)が5つの家に別れ(近衛、九条、二条、一条、鷹司)、
平安時代以来、明治にいたるまで、代々摂政と関白を輩出する一族として、
貴族社会の頂点に君臨してきたのである。(57p)
鎌倉時代以後、武士の活躍で表だって見えませんでしたが、
藤原氏の勢力は、天皇の周りでちゃんと残っていたのです。
いやいや、武士の中にも藤原氏の勢力は入ってきていました。(つづく)
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