「巨大カルデラの謎に迫る」その5/いつか歩きたい崖の上の道
今日は令和元年8月17日。
前投稿に引き続き、2018年5月30日放映の
「滝沢秀明の火山探検紀行 巨大カルデラの謎に迫る」より。
前投稿で紹介した100mの外輪山の崖は、
上を歩くことができそうです。
この動画の写真を並べます。
歩いたら気分いいだろうなあと思わせる道です。
橋がありました。
ここからの景色はよさそうです。
ストリートビューで降りてみます。
いつか歩く機会はあるのだろうか。
今日は令和元年8月17日。
前投稿に引き続き、2018年5月30日放映の
「滝沢秀明の火山探検紀行 巨大カルデラの謎に迫る」より。
前投稿で紹介した100mの外輪山の崖は、
上を歩くことができそうです。
この動画の写真を並べます。
歩いたら気分いいだろうなあと思わせる道です。
橋がありました。
ここからの景色はよさそうです。
ストリートビューで降りてみます。
いつか歩く機会はあるのだろうか。
今日は令和元年8月17日。
前投稿に引き続き、2018年5月30日放映の
「滝沢秀明の火山探検紀行 巨大カルデラの謎に迫る」より。
薩摩硫黄島は鬼界カルデラという大きなカルデラの一部です。
その証拠が、この地形。☟
鷹さ100mほどの崖。
異様な崖です。
この崖を含む黄色に塗られた場所が、
「外輪山」と呼ばれるカルデラの特徴ある地形なのです。☟
この黄色の部分を、真上から見ると下のようになります。☟
そして海底に沈んでいる外輪山を繋いでいくと、
カルデラ地形の全容が見えてきます。☟
これが鬼界カルデラです。☟
阿蘇山は、外輪山が見渡せるカルデラですが、
鬼界カルデラは、ほとんどが海底に沈んでいるのが
特徴であり、不気味です。
番組では、カルデラ噴火について、
一般の噴火との比較で説明していました。
一般の噴火と違って、マグマの量が膨大です。☟
マグマが噴き出ることによって、空間ができ、
その上の大地が陥没します。
陥没したことで、マグマに圧力がかかり、
さらに噴火が大きくなります。
☝ やがて噴火が終わり、周囲を外輪山が囲む
カルデラ地形ができるというわけです。
つづく
今日は令和元年8月16日。
前投稿に引き続き、2018年5月30日放映の
「滝沢秀明の火山探検紀行 巨大カルデラの謎に迫る」より。
薩摩硫黄島の周辺の海の色は、
湧き出てくる「熱水」によって変色します。
熱水の成分に鉄分が含まれると、海水と化学反応して
橙色になります。
☝ この港の景色は、滅多に見られない景色だなあと
思いました。
熱水の成分にアルミが含まれると、海水と化学反応して
白っぽい色になります。☟
熱水は、薩摩硫黄島周囲20km全域で湧いているそうです。
このように、熱水で海水が変色する景色は、
世界でも珍しいそうです。
グーグルアースで見ても、海の変色はわかりました。
さらにアップ。
今日は令和元年8月15日。
前投稿に引き続き、2018年5月30日放映の
「滝沢秀明の火山探検紀行 巨大カルデラの謎に迫る」より。
今も活発に火山ガスを噴き出している硫黄岳。
硫黄岳に登る登山道が立派なのに驚きました。☟
そもそも、硫黄岳が半分を占めるような薩摩硫黄島に
人が住んでいることが不思議でした。
これらの疑問に対して、番組が説明してくれました。
この登山道を、かつては多くの人たちが
行きかっていたそうです。
なぜなら、1964年まで、硫黄岳で、
硫黄の採掘が行われていたからです。
その歴史は、何と!平安時代までさかのぼるそうです。
1000年も昔から人は住んでいたのです。
この道を使って登り、硫黄を採掘していたのです。
ガスマスクなどあったのかなあ。
火山ガス、崩落の危険などあったと思います。
大変な仕事だったと想像します。
そして、硫黄岳も少なくとも平安時代から、
ずっと活火山であり続けているんだよなあ。
そのこともすごいと思います。
調べると、そうかと思うことがありました。
平家打倒を謀ったとして流刑になった俊寛が
流された島がこの硫黄島だという説が有力だそうです。
確かに平安時代だ。
つづく
今日は令和元年8月15日。
8月3日に放映された「潜れ!さかなクン~火の島
薩摩硫黄島の海へ~」を見ました。
そう言えば、以前にも薩摩硫黄島の番組を録画したぞと
思い出し、探しました。
ありました。
2018年5月30日放映の「滝沢秀明の火山探検紀行
巨大カルデラの謎に迫る」でした。
さっそく見ました。
2番組とも面白かったです。
すっかり、薩摩硫黄島、鬼界カルデラに興味津々です。
「巨大カルデラの謎に迫る」の一部を読み物化してみようと
思います。
では薩摩硫黄島がどこにあるか示します。
薩摩硫黄島には、硫黄岳という活火山があります。
硫黄岳が島の半分を占めているように思えました。
☝ 火山ガスがあちこちから吹き出ている頂上付近です。
この硫黄岳は、頂上から150m下までマグマが
上がってきているそうです。☟
こんな恐ろしい火山ですが、番組で登山道が映りました。☟
けっこう立派な道です。
なぜ?と思いました。
こんな恐ろしい火山に登る人がいるの?
そもそも、こんな恐ろしい火山がある狭い島に、
人が住んでいるのが不思議でした。
その疑問は、番組を見ていくうちにわかりました。
つづく
今日は令和元年8月15日。
2018年5月26日放映の「美の巨人たち ターナー作『難破船』」を
見ました。
ターナーについては、今までの4回記事にしてきました。
今回のラストにリンクを並べておきたいです。
〇ターナーは晩年次のような作品を書いた。☟
後年、この作品の影響を受けて、モネがあの有名な作品を
描いたと言われている。☟
ターナーは風景画に優れていました。
ターナーは「ノラム城 日の出」のような
省略された輪郭線のはっきりしない風景画を描いたが、
リアルな風景画も多く書いている。
今回取り上げる作品は、そんなリアルな風景画。
「難破船」☟
〇ターナーが「難破船」を描くことになったのはなぜか。
番組では、次のように迫っていた。
〇ターナーはイギリスの理髪店の子どもとして生まれた。
人とのコミュニケーションが苦手で、
ひたすら絵を描いて、それを店頭に飾っていた。
絵では誰にも負けたくない気持ちがあった。
〇ターナーは、一生家庭を持たず、絵のために生きた人だった。
〇1805年、 イギリス(大英帝国)とフランスの間で
トラファルガーの海戦が行われた。
イギリスは、ナポレオンの海軍を破る。
イギリスの人たちの海への関心が高まった。
〇1802年、ターナーはドーバー海峡で嵐に遭い、
転覆寸前の体験をする。
〇ターナーは、海の美しさを表現(静の海)してきたが、
この転覆寸前の体験から嵐の表現(動の海)をするようになった。
〇ターナーは、人とのコミュニケーションをとるのが苦手だったので、
ターナーの作品にはほとんど人物が描かれていなかった。
〇それなのに、なぜ、「難破船」では人物を描いたのか。
〇当時多くの人に読まれた「難破船」という詩の
影響を受けたと思われる。
聞き書きします。
ブラウンさん:「難破船」に人々の姿が描かれている理由の
一つとして、ターナーがこの本に影響を受けたということが
考えられます。
自然の力を描くには、人間のドラマを絵画に取り入れることが
有効な手段だということに気がついたのです。
ナレーター:そしてターナーが描いたのは、恐怖に震え、
みじめに叫びちらす女。あまりの状況に現実に目をそむける男。
今にも波に飲み込まれてしまいそうな船もあれば、
命運つきたのか、すでに無人となってしまった救命ボートも。
死への絶望と、生への渇望。
極限状態であらわになるさまざまな人間の弱さが、
見事に描き分けられています。
ブラウンさん:ターナーは、作品の中で弱者と強者といった
二項対立の技法をよく用いますが、
この「難破船」では「人間」対「海」という二つの対立を描くことで、
海の力の大きさを誇張したのです。
ナレーター:すべては、海の本当の姿を表現するため。
これまでほぼ描かなかった人間を、
恐ろしい風景と対比することで、
自然の圧倒的な力を浮かび上がらせたのです。
〇絵の右側に、難破した人たちを救助する漁船を描いた。
絶望の淵で輝きを放つ希望の象徴である。
〇漁船に、海洋国家イギリスを重ねたと、番組では推理していた。
いろいろ知ってから絵を鑑賞すると、
味わい深くなります。
今までのターナーに関する記事です。☟
ここでも道草 美の巨人「戦艦テメレール」(2013年9月18日投稿)
ここでも道草 「日曜美術館 ターナー」1.「坊ちゃん」の中のターナー(2013年12月23日投稿)
ここでも道草 「日曜美術館 ターナー」2.雨や霧も貴重な条件(2013年12月26日投稿)
ここでも道草 「日曜美術館 ターナー」3.機関車の前にうさぎ!(2013年12月27日投稿)
6年ぶりにターナーのことを書いたのをいい機会に、
これらを読んで、たぐっておきたいです。
今日は令和元年8月14日。
湯島聖堂を出て、お目当ての文房具店に向かいました。
※ここでも道草 この文房具店に行ってみたい/お茶の(2019年8月9日投稿)
開店は昼の12時。
「東進ビル」の地下1階という住所をたよりに探しました。
「東進ビル」はすぐに見つかりました。11時55分。
地下1階に下りていくコンクリートの階段がありましたが、
店名がどこにもなく躊躇しました。
そしたら、眼鏡をかけたお兄さんが、
小さな看板を持って階段を上がってきました。
その看板に店名がありました。
「今からですよね」
「はい、そうです」
「テレビ番組を見て、面白そうだと思って、
愛知からやってきました」
「ありがとうございます」
そんな会話をしました。
あの折れ線グラフのペンケースは、
やはり高価でした。
私が思っていた以上で6000円超えでした。
実際に触っただけで、買いませんでした。
小さなお店でしたが、どんなものがあるか
ワクワクして商品を見ました。
こういうのが、文房具店の魅力ですよね。
気に入った封筒とクリアファイルがあったので
買ってきました。
原稿用紙のデザインの封筒は、さっそく誰かに送りたいです。
地下1階のお店に下りていく階段です。☟
いただいた名刺です。☟
営業日は土・日曜日12:00~19:00です。
以上で、20190809~20190810報告完了。
テレビ番組を見ただけで終わらず、
テレビ番組をきっかけに動きました。
今日は令和元年8月14日。
全生庵を出て、電車移動。
お茶の水駅にたどりつきました。
目的地は、テレビ番組で紹介された文房具店です。
※ここでも道草 この文房具店に行ってみたい/お茶の水(2019年8月9日投稿)
でもそのお店の開店時間前だったので、
教科書でも有名な湯島聖堂に初めて行きました。
説明で置かれていた絵のなかで、
明治5年に開催された博覧会の絵に注目しました。
大成殿前の空間で、600件余りの物品が展示され、
中央には名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)が、
ガラスケース内に収められていて人気があったそうです。
たくさんの観覧者が訪れたそうです。
この時の博覧会は、当時の広告や入場券には
「文部省博物館」と明記されており、
これが日本の「博物館」の始まりとされています。
同じ年に東京国立博物館ができているが、
創設は湯島聖堂で行われた時だとされています。
今日、大成殿前は閑散としていましたが、
博覧会の絵を見て、そのにぎやかだった時の状況を
想像していました。
☝ ここにも、谷中と同じ様式の築地塀がありました。
☝ 大きな孔子の銅像
この木に注目。☟
孔子の銅像の前にある大きな木です。
名前は「楷(カイ)」
興味深いことが書かれていました。
一部引用します。
楷は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、
初め子貢が(孔子の墓所に)植えたと伝えられ、
今日まで植えつがれてきている。
枝や葉が整然としているので、
書道でいう楷書の語源ともなったといわれている。
そうか、楷書の「楷」は、この樹木が起源の可能性があるんだ、
と思いながら、眺めていました。
いいものに出合えました。
今日は令和元年8月13日。
谷中の全生庵です。☟
住職がおられるということは、
ここはお寺・・・・ですよね。
なぜ「全生庵」という寺名なのか?
この疑問については、HPに説明がありました。☟
勉強になりました。
☝ 左は山岡鉄舟、右が三遊亭円朝の碑。
☝ この階段を上がって、左手に行くと幽霊画展の
会場がありました。
「英雄たちの選択」で知った全生庵での幽霊画展に、
実際に行って、見ることができました。
※ここでも道草 「英雄たちの選択 名人円朝」その1/8月いっぱい幽霊画展あり(2019年8月8日投稿)
※ここでも道草 「英雄たちの選択 名人円朝」その2/初の「円朝作品」(2019年8月8日投稿)
暑い中、街を散策した後だったので、
しっかり汗をかいていました。
しかし、幽霊画展の会場は、
大きなエアコンが必死に動いていてくれて、
とても快適でした。
一つ一つの絵画には、丁寧な説明が添えられていました。
説明が多いために、字が小さくなっていて、
老眼鏡が必要なものもありました。
それでも全部読みました。
幽霊画にも多種多様でした。
一番印象に残った幽霊は、胸より下は現生の空間にあって
霞んでいますが、胸より上は霊界にあって、くっきり描かれ、
こちらを恨めしそうに見ているのです。
う~ん、表現力が足りなくてすみません。
とにかくこの幽霊画が印象に残りました。
幽霊画のクリアファイルがあったので、
さっそく買いました。記念品です。
ぜひ、住職さんにお会いしたいと思いましたが、
ちょうど出かける時だったようで、
後姿はしっかり見ました。
すっかり汗がひいていました。
外が暑かったことを忘れるぐらいの時間、
過ごしました。
つづく
今日は令和元年8月13日。
谷中ぎんざ商店街は、細い路地なので、
路地に入ってきたトラックは、搬出後は
向きを変えることなくひたすらバックでした。☟
ご苦労様です。
行列に並んでかき氷を食べるよりも、
私にとって興味があったのは、
「谷中マップ」中にある「築地塀(ついじべい)」です。
築地塀についてはかつて調べたことがあり、
少しずつ地道に固めていく作り方に魅せられました。
※ここでも道草 国分寺・国分尼寺下見8/築地塀は「ついじべい」と読む(2010年5月18日)
※ここでも道草 日帰りで奈良へ・・・築地塀!(2010年8月8日投稿)
ただ ☝ この記事で見たりした奈良の築地屏とは少し違いました。
2010年に平城宮跡で見た築地塀です。☟
今回の谷中の築地塀です。☟
平城宮跡の築地塀は、すべて土で固められています。
谷中の築地塀中には、瓦が埋め込まれているようです。
調べていくと、谷中の築地塀の持ち主と思われる
観音寺のHPに行きつきました。
引用します。
築つい地塀とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言います。
主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、
柱を中心に木枠を組み、
そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて
棒で突き固める版築工法で作られたものを呼びます。
塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。
古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、
雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、
瓦を間に入れて作られるものも登場しました。
その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に
漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を
漆喰で仕上げるものなど、様々です。
築地は、もとは築泥と呼ばれていたとされます。
字のごとく泥を積み上げて作ることからそう呼ばれており、
のちに築地と転じたため、
築地塀ではなく築地塀と発音するのですね。
築地塀の基本的なことから、瓦を入れるようになってきた
築地塀の歴史までを説明してくれた、とてもいい文章です。
観音寺の築地塀は、幕末につくられたそうです。
過去(2010年)の勉強と、簡単に関連付けできるのが、
ブログのいいところです。
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