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2012年4月

2012年4月29日 (日)

プロ野球の歴史の勉強の延長で見た映画

 

今日は4月29日。

   

戦前から戦後にかけてのプロ野球に関心あり。

いろいろ調べました。

   

その延長で?映画「瀬戸内野球少年団」(1984年)を見ました。

終戦直後の淡路島が映画の舞台。

夏目雅子演じる江坂(こうさか)国民学校教師が、子どもたちに呼びかけて野球をやることになります。

チーム名は、「江坂タイガース

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もうこれは、「大阪タイガース」から来たものでしょう。

阪神タイガースの前身が大阪タイガース。

1935年発足。

戦時中は、敵性語は使わない風潮から、「大阪タイガース」は「阪神」となりましたが、

1947年からは再び「大阪タイガース」にもどりました。

淡路島だし、人気の有名チームだったことでしょう。

1961年から今の「阪神タイガース」となりました。   

最近プロ野球の歴史の勉強をしていたので、このチーム名からすぐに連想できました。

  

28年前の映画なので、俳優さんが若い。

郷ひろみがなかなか格好いい役でした。

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渡辺謙の映画デビュー作。特に若さを感じました。

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夏目雅子の遺作となった映画。

もうこの人はいない。映画では永遠の命をもらって演じています。  

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大滝秀治、ちあきなおみ、島田紳助、伊丹十三、岩下志麻など

楽しい配役でした。

最も印象に残ったのは、バラケツこと正木三郎役の大森嘉之です。

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悪ガキを気持ちよく演じていました。

大森さんについては明日の投稿につづく。

 

 

 

 

 

 

巨怪伝・・・沢村栄治/死んでしまえば仇花

 

今日は4月29日。

   

前投稿のつづき。

巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」より。

   

沢村栄治の父親賢二が、正力松太郎から職業野球入りについてこう言われました。

その引用です。

  

「とにかく日本の野球も必ず職業野球の時代がやってくる。

だから栄治君のことは僕に任せてくれないか、

そのときだけの面倒をみるというのではなく、

先の先まで栄治君の面倒をみるから、正力を信用して万事お任せ下さい。」 (255p)   

  

でも、沢村栄治は巨人軍を首にされます。

正力松太郎は、約束を守りませんでした。

著者佐野眞一はこう書いています。

  

戦後まもなく、生まれ故郷の宇治山田で沢村の追悼試合が行なわれた。

正力からすれば、これが報恩と感謝の気持ちだったのかも知れない。

だが、一生の面倒を見る、と約束しておきながら、

馘首(かくしゅ)しておいて、プロ野球が復活したからといって追悼されても、

沢村の遺族たちが浮かばれようはずがなかった。 (286p)

   

父親の賢二はこう書き残しています。

   

「人間の世界は、生きていてこそ、全てが勝利であることを、

私は栄治の戦死によって知りました。

死んでしまえば、幾ら功労があっても、それは仇花(あだばな)です。

口や活字で、その偉大さが偲ばれても、それは空虚なものです。」 (286p)

  

   

そうだよ。死んじゃったらおしまいです。

   

以上、黒鉄ヒロシさんの言葉をきっかけに、沢村栄治のことを勉強してみました。

戦争や大人の都合で若くして死んでしまったことがよくわかりました。

いいきっかけを与えてもらいました。

   

プロ野球スタートのことを勉強していて、印象に残った人が1人います。

鈴木惣太郎

機会があったら、この人についてもっと調べてみたい。

巨怪伝・・・ルールを知らなかった「プロ野球の父」

   

今日は4月29日。

   

沢村栄治のことを調べていくと、正力松太郎のことを知りたくなりました。

「沢村栄治7.卒業証書が届いていたなら」html

そして読み始めたのが「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」です。

佐野眞一著。文芸春秋。

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分厚い本でした。660ページ。

半分くらい読んで、図書館に返す日が来てしまって、

完読ができませんでした。

文庫本でも発売されているようなので、いずれ完読したい本です。

関心のあった戦前と戦後の野球関連のところは読みました。

野球のルールさえあまり知らなかった正力松太郎が、

プロ野球の父」と呼ばれるようになった過程が見えてきました。

もし、正力が暴漢に襲われて命を失っていたなら、

プロ野球はスタートしなかった・・・今ではプロ野球があるのが当たり前ですが、

プロ野球が日本に根付いて当たり前になるまでに正力松太郎は重要な役割を果たしました。

プロ野球はそれほどあやうい存在でした。

プロ野球を始めたいと思っていた人たちに頼られ、

その事業に乗り出し、最後には自分の手柄にしてしまう。

そんな力(魅力?実力?行動力?)を正力松太郎は持っていました。

   

沢村栄一投手に関する記述については、次の投稿で。

   

  

一つ、本書の中で、千田是也(せんだこれや)さんについての記述がありました。

1904年生まれ、1994年に亡くなった演出家・俳優。

名前だけは聞いたことがあった人です。

関東大震災のときに、朝鮮人に間違えられて殺されかけました。

現場が千駄ヶ谷だったので、千駄ヶ谷のコリアンから、

千田是也という芸名が作られたそうです。

ものすごい量のエピソードのつまった本の小さなお話。印象に残りました。 (つづく)

   


   

 

 

回鍋肉/ネギ坊主の観察

  

今日は4月29日。

   

夕食シリーズ。今回は回鍋肉(ほいこうろう)に挑戦。

この回鍋肉の素を使いました。

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箱の裏面には、材料の切り方まで書いてあり、

初心者でも、失敗しないような説明がありました。

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ネギは、庭の畑にあるのを使うということで、抜いてきました。

ネギの頭にネギ坊主が付いていました。

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まだ花が開く前のネギ坊主。

薄い膜に覆われていました。

こうなっているんだ…と観察して、膜を破ってみました。

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花の塊。こんなにしっかり観察したのは初めてです。

   

しかし、ネギの構造ってどうなっているんだ。

変な植物です。こんな緑の筒状の先っぽに花ができる。不思議です。

   

調べてみました。

   

ネギは下から見ていくと、まずは根っこがあります。

そこから1センチほどが茎です。茎はわずか。

そこから上は葉っぱです。白くても青くても葉っぱ。

白い部分は土の中にあったところで、葉肉に厚みがあり、

他の葉と環状に重なっています。

実はこの部分が、私にとっては最も嫌いな部分です。

子どもから今に至るまで、苦手不動の食べ物です。

謎は花。葉っぱの先に花ができるのか?

  

どうやらネギ坊主が付く緑の部分は、葉っぱではなくて、

「花茎」のようです。

ネギが成長して、ある程度の低温にさらされると花芽ができ、

暖かくなると花茎が伸びだして、ネギ坊主ができるようです。

花茎が伸び始めた時の写真が、いろいろなサイトで見られます。

特にこのサイトがお薦めです。

※参考:「家庭菜園奮闘記 葉ネギの花」html   

   

苦手であったこともあって、きっと避けてきたのでしょう。

今回ネギのことが少しわかってきました。

      

回鍋肉、おいしかった!

白ネギも細かく刻んだし、キャベツや豚肉に紛れて難なく食べることができました。

めでたし、めでたし。

 

缶詰博士なる人がいた/ツナ缶の始まり

  

今日は4月29日。

  

ツナ缶について書いた投稿のつづき。

「ツナ缶概観」html

ツナ缶について調べていたら、「缶詰博士」なる人のブログに出会いました。

「缶詰blog」cans/

 

3冊ほど著作もあり。

缶詰も極めたら本ができてしまうのですね。

   

このブログで、ツナ缶の始まりを勉強しました。

ここです。

「缶詰blog 缶詰の現場から SSK清水食品」 html

ツナ缶が発明されたのは、1903年アメリカのことでした。

日本では1929年にツナ缶が作られ始めます。

その辺りの記述を、上のブログから引用します。

   

(SSK清水食品の)創業は1929年(昭和4年)のこと。

その2年前に、静岡水産試験場で技師を務めていた村上芳雄が、

米国向け輸出品としてツナの油漬缶詰を試作していた。

当時の日本は外貨獲得が急務だったから、各産業で輸出品の開発が進んでいたのだ。

ツナ缶は特に米国向けとして有望視されていた。

試作品が好評を得たので、村上芳雄はその事業化を鈴木商店の6代目鈴木与平に相談してみた。

(中略)

当時の日本は不景気に見舞われており、静岡も例外ではなかった。

ツナ缶の輸出業を始めることで失業者を救済し、

ひいては日本経済の発展にもつながると考えた鈴木与平は、

昭和4年12月に清水食品を設立した。

折しもこの年の10月には、世界恐慌の引き金となったブラック・サーズデーも起こっていたから、

鈴木与平は大決断をしたんでありますなァ。

翌年の昭和5年5月には米国にツナ缶を輸出開始。以後、清水港からの重要輸出品目となっていくのだ。   

  

はごろもフーズ株式会社」の創業は、2年後の1931年(昭和6年)のことでした。

はごろもフーズは、国内向けに多くを供給したため、

シーチキンの商品名が国内で有名になったようです。

     

いつも思いますが、何にでも歴史あり。

 

映画「ブラインドサイト」4・・・登頂か下山か

   

今日は4月29日。

   

前投稿のつづき。

映画「ブラインドサイト~小さな登山者たち~」(2006年)のことで4本目の投稿。ラスト。

   

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映画のクライマックスは、最終キャンプ地でのこと。

体調を崩して、これ以上登るのは無理という判断で、

3人の子どもが、下山します。

残ったメンバーで、ラクパリ頂上を目指すか、それとも止めるか。

私は登るべきだと思って映画を見ていました。

ここで意見が分かれます。

   

リックはこう考えていました。

   

僕は頂上を目指すのは無意味とは思わない。

盲目の子どもたちが頂上に立つのは、ある意味象徴的なことだと思う。

”ここまでやれる”と自分の心と体に刻み込むのは素晴らしい。

   

リックはこの考えで、最高峰の山々を次々に登ってきたのでしょう。

そして彼の仲間も、彼の考えに賛同し、命がけのサポートをしてきたと思います。

サブリエは、先にも書いたけど、こんな考え方。 

   

頂上はどうでもいいの。

力を合わせて楽しく登ることが大事よ。安全にね。

私たちは安全だし、とても楽しんでいる。

頂上登頂より、それが大事だわ。

頂上に登れたらいいし、登れなくてもいい。

   

そんなサブリエは、3人の子どもが下山した時に、全員が下山することを希望します。

  

私にとって、一番重要なのは、生徒が連帯を学ぶことです。

みんなが一つになって、最も弱い者に気を配り、彼らを最優先に考えねばなりません。

RIMG0664 ※サブリエ

だから私がひそかに願っていたのは、今日、全員で山を下りることでした。

チームとしてです。

生徒たちの目的は、登頂そのものではなくて、チームの一員となることです。

エリックを知り、新しい友人を得ることです。

この旅では、それを望んでいました。

彼らは”自分たちの山”に登りました。

盲人でも生きていけると証明したのです。

   

しかし、エリックの仲間からは、

想像していたより山が怖いところだったから、怖気づいたのではという意見も出ます。

きっと彼らは、ここまで登ってきたのだから、子どもたちに登頂を成し遂げさせたい、

僕らがサポートすれば、必ず登らせられると思っていたのでしょう。

お互いに子どもたちのことを思っているのに、ずれていきます。

エリックや彼の仲間には、すぐ近くに見えるラクパリの頂上は見えていますが、

サブリエには見えていませんでした。

今いるキャンプ地が頂上に見えたと思います。

   

エリックが理解します。

  

ラクパリ頂上までたった450m。

旅の99%を終えて、残りは1%だった。

頂上直前で登山は終わった。

僕は登山家だから、頂上に登りたい。

だから失敗といえる。

でも子どもたちは違う。だから僕は考えを変えた。

   

エリックは下山を決意します。

さらに、エリックはラストでこう語ります。

  

(山では)自分は人間なんだと感じます。

人間の弱さを感じます。

温かさ、食べ物、水、そして友人が必要だと思わせます。

最後の数日、サブリエの言葉が身に染みました。

みんなが一緒に苦しむ時こそ、最も強い絆が生まれる。

この旅は、考えていたのとは少し違いました。

主役は山よりも友情や連帯感だったのです。

   

ラストにふさわしく、穏やかにエリックは語っていました。

映画はエリックの語りで上手に収束したと思いました。

この登山はエリックの側からの提案でした。

サブリエも賛成しましたが、

エリック側とサブリエ側の考え方の違いが事前にすりよれていなかったことが、

映画中の大人たちの言い合いになりました。

映画を観終わった後は、私は登れば良かったのにという気持ちが強かったです。

でもあらためて、なぜサブリエがこう考えたのか考えました。

先にも書きましたが、やはり頂上が見えないというのは、頂上への意欲を高めないと思います。

でももっと深い理由。サブリエの「最も弱い者に気を配り」という発想。

この発想の辺りから生じてくる理由があると思います。

サブリエは、ドイツから一人でやって来て、チベットで盲学校を始めた人。

浅い理由ではないと思います。もう少しサブリエについて知りたいです。

(気になったのは、サブリエの頑固さ。あのように頑なになった理由も知りたい)

2001年に本も発行されています。この本を入手して読みたいですね。

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映画「ブラインドサイト」3・・・盲目の人の登山

   

今日は4月29日。

   

前投稿のつづき。

映画「ブラインドサイト~小さな登山者たち~」(2006年)のこと、3本目の投稿。

   

盲目の人が山に登っても景色は見えません。

面白いのかなと思います。

その答えが映画の中に出てきます。

   

盲目の少年の一人が語っています。

  

普通の人が山に登れば、どこまでも見渡せます。

でも見えない僕らは、広がる景色を想像して、心を豊かにするのです。

   

「心を豊かにする」と訳していましたが、本当にそう言ったのかな。

いいこと言います。

   

目が見えないと、想像力を使います。

絶え間ない想像力の世界です。

におい、触感、音からすべてを想像します。

時々立ち止まって、そういう感覚を使って楽しむのです。

 

これが盲目の人の登山の楽しみ方。

なるほどと思いますが、目の見える人との決定的な違いがあると思います。

頂上が見えるか見えないか。

この違いが、登山に臨む態度に違いを生じさせるのではと考えます。

(エリックは別格かな)

サブリエの不満が出てきます。次のように語っています。

   

子どもたちも言いました。

ただ歩いて登るだけでは面白くないと。

話をしたり、物語を考える時間もなく、嗅いだり、聞いたりする暇もない。

つららが落ちる音、それぞれ違う音がする(荷運びをする)ヤクのベル、素晴らしいのに。

これでいいのかと思います。

目標は「全員で頂上」でいいのか。

本当に子どもたちのための登山なのか。

何かを誇示するための登山になっていないかと。

    

難しい。

エリックと、盲目の少年少女の登山をサポートする人たちは、

全員を頂上に連れて行き、達成感を味わわせたいと思っていました。

少年たちの中にも、登ったということで、自分たちに自信を持ちたいと思っていた子もいます。

しかし、サブリエの考え方は微妙に違います。

本当はこの違いを、登山前に十分話し合って理解しておくべきだったのでしょう。

登山の最中に、何度か論争があり、カメラは映像としてとらえ映画に含まれます。

   

目が見える見えないという感覚の違いは、考え方の違いを生じさせます。

理解しあうためには、コミュニケーションが大事なんです。

映画はその様子を描いたとも言えます。

両者の中間に立つのが、エリックかなと思えました。  (つづく)

   

 

   

 

 

   

 

映画「ブラインドサイト」2・・・サブリエ・テンバーゲン

   

今日は4月29日。

   

前投稿のつづき。

映画「ブラインドサイト~小さな登山者たち~」(2006年)より。

   

盲目の人がさげすまれている国にやってきたのが、

自身も盲人のドイツ人サブリエ・テンバーゲン

サブリエがどんな人物か?

全盲で7大陸最高峰完全制覇を果たし、

今回の登山を提案したエリック・ヴァイエンマイヤーの言葉を引用します。

サブリエが、エリックの偉業に感動して手紙を書いたことが2人の出会いでした。

   

サブリエの手紙は本当に力強かった。

仕事ぶりや生徒たちの描写に心を打たれた。

彼女はドイツ出身の盲人で、平和維持部隊に参加しようとしたが、

盲目を理由に断られた。

そこで彼女は自費で中国を通り、チベットまで行った。

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杖をつき、馬に乗り、盲目の子どもたちのいる村に行き、

自分の施設に預けるように親に頼んだ。

最高峰に登った僕でも太刀打ちできない。

学校に行って僕も何かしたかった。

そこで登山を提案した。

目標はエベレストの隣の山頂だ。サブリエも賛成した。   

   

彼女がチベットに来て盲学校を開いた原動力は何だったのだろう。 

意志が固そう。言い方を変えると頑固そう。

そんな彼女の両面が、この映画でも顔を出します。

他の人は彼女の個性に圧倒されます。  (つづく)  

 

 

  

 

 

映画「ブラインドサイト」1.・・・チベットでの盲目の人

   

今日は4月29日。

   

3月27日放映の映画「ブラインドサイト~小さな登山者たち~」(2006年)を見ました。

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こんな人たちもいるのかと知ったり、

自分の常識とは違う考え方に触れたり、

どっちがよかったのだろうと悩んだりもした心動かされた映画でした。

   

舞台はチベット。

盲目の少年少女がエベレストの隣の標高7000mのラクパリ登頂を目指す話。

チベットでは盲目の人たちはどう思われているか。

それがわかるシーンが、映画で何度か出てきます。

その一つ。

  

ゲンゼンという盲目の男の子。17歳。

彼の母親が言います。

  

(ゲンゼンの母親)

「失明は蛇の呪いのせい。蛇の精を怒らせたからよ。

近所で一番頭がよかったのに、こうなるなんて。

賢かった子が、こんな役立たずに。

家族で苦しんだわ。

盲人は一人前とは見なされない。

家族もさげすまれ、人前にも出られなかった。

4年間、息子は家にこもりきりで泣いてばかりいた。

この子が学校に行って、本当に助かったわ。」

(ゲンゼン)

「頂上まで行けたら、本当にうれしい。

絶対に登ってやろうと思っています。

何でもできるところを見せたいです」

   

チベットでは、盲目の人に対して冷たい。

盲目の人も、盲目の人の家族もさげすまされます。

それだけに、ゲンゼンの頂上への意欲の強さを感じます。

   

 

ゲンゼンの母親が湯を沸かすところ。

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太陽光を使っての湯沸しです。

ガスや電気の配備が十分ではないことが考えられます。

  

母親が言っています。

「この子が学校に行って、本当に助かったわ」

その学校については、次の投稿で。

新玉とツナの餃子/ツナ缶概観

  

今日は4月29日。復帰まであと3日。

   

先週の月・水・金曜日はリハビリ?で午前中出勤。

土曜日は午後2時半まで勤めました。

さあ次に出勤するのは5月2日。いよいよ本格的にスタートです。

   

    

話変わって、夕食シリーズ。

今回の夕食は、ツナ缶を使った餃子とマカロニサラダ

参考にしたのはここ。

「COOKPAD 簡単★新玉とツナの揚げギョーザ」22

餃子は揚げないで、焼きました。

   

やっぱり疑問に思うのが、ツナ缶の「ツナ

ツナは英語「tuna」から来たもので、マグロ類を指す言葉でした。

ツナ缶はcannned tuna,ツナサラダはa tuna salad。

それでは「シーチキン」は?

Wikipediaによると、「シーチキン」は、

はごろもフーズが製造する『「マグロ」又は「カツオ」の「油漬け」又は「水煮」の缶詰』の商品名

とありました。あくまでも商品名です。味が鶏のささみに似ていることからついた名だそうです。

今回使ったのは「シーチキン フレーク」

缶のアップを載せます。

RIMG0572

この写真から・・・

「フレーク」

「フレーク」は英語のflakeで、「薄片、薄片状にした食品」のこと。

コーン”フレーク”でも使われる言葉です。

K415260hhttp://item.rakuten.co.jp/drinkshop/410-0415-260/

「シーチキンフレーク」は細かくほぐしたタイプと説明してあります。

その他、次の2種があるそうです。

ブロックタイプ(ソリッドタイプ)・・・ほぐさずに大きい形のまま詰めたタイプ。

かたまりタイプ(チャンクタイプ)・・・料理に使いやすく大きくほぐしたタイプ。

   

「WHITE meat」

WHITE meat は、ツナ缶の原材料であるビンナガマグロの肉のように白っぽい肉のこと。

兎や鶏肉もホワイトミート。

     

    

RIMG0575
  

この写真から・・・

「ビンナガマグロ」

「ビンナガマグロ」については「はごろもフーズ」のHPの説明がわかりやすいです。

http://www.hagoromofoods.co.jp/knowledge/seachicken/

(ビンナガマグロは)クロマグロを小さくしたような紡錘(ぼうすい)型で、

きわだった特徴は胸びれが長いことです。

ビンというのは人の頭の左右の髪をいいますが、

魚の胸びれをビンと見立て、ビンの長い魚だからビンナガといいます。

「ビン」は漢字で「」と書きます

髪の毛のどの部分かは、この絵がわかりやすいです。

Keppatu
「江戸の結髪」html   

    

   

「はごろもフーズ株式会社」

やっぱり「はごろも」は、清水にある「羽衣(はごろも)の松」から名付けられたのでしょうね。

調べたら、Wikipediaに書いてありました。

1931年(昭和6年)に後藤缶詰所として創業。

1948年(昭和25年)に後藤物産缶詰株式会社に社名変更。

1969年(昭和44年)にはごろも缶詰株式会社に社名変更。

やはり羽衣の松伝説から名づけられたそうです。

現社名は、1987年(昭和62年)に変更されました。

   

「くびれ」

写真下のくびれはなぜあるのか疑問です。

   

   

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この写真から・・・

「ふた:アルミ」

ふたは、軽くてやわらかいアルミを使い、缶本体はスチール。

   

「賞味期限・製造工場記号」

この缶は、2014年12月18日が賞味期限。

G2が製造工場記号。

はごろもフーズでは、どこの工場で製造された缶なのかすぐにわかるのでしょう。

   

凹凸

ふたの表面にある凹凸が気になります。特に丸い凸は?

   

    

以上、缶を眺めながらつらつら書きました。

 

 

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