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2011年10月

2011年10月20日 (木)

浮世絵はチームで作った

 

今日は10月20日。

社会の時間。

昔の番組を見せています。

1995年5月25日放映の

「コメディーお江戸でござる はやらぬ宿には福来たる」です。

江戸時代を勉強するにあたって、杉浦日向子(ひなこ)さんに出会わせたいと思いました。

「コメディーお江戸でござる」では、

毎週江戸時代の劇が演じられ、その後に杉浦日向子さんが登場。

江戸時代の劇として、「ここが間違い」というのをどんどん話していきます。

それがとても楽しい。へ~そうなんだと思うことがいくつもあります。

杉浦日向子さんは、江戸時代に生きていた人ではないかと疑うほど、

まるで見たかのように、まるで体験したかのように話をしていました。

   

前時で劇を見せました。

明日の次時で、杉浦日向子さんが、「ここが間違い」という話をするところを見せます。

子どもたちに、どこが間違っているとか考えておいてと話しましたが、

ちょっと難しい。

   

ここで答えを書いておきます。

〇劇では、浮世絵の元絵を描く絵師は「先生」と呼ばれ、評判のいい絵師は重宝がられたとしていました。

ところがこれが間違い。

次の本から引用します。

「お江戸でござる」(新潮文庫)

「脱線 コメディーお江戸でござる」html

  

浮世絵は、ひとつのプロジェクトチームで作られていきます。

絵師はその一員として、「版下絵」を担当します。

「絵師」というより、しばしば「画工(がこう)」と呼ばれました。

「版元」(出版社)があって、プロデュースをする「案じ役(あんじやく)」がいて、

画工がいて、「彫り師」がいて、「刷り師」がいて、

みんなが集まってできていくのが、浮世絵です。

モデルは誰にしようとか、色はどうしようかということも、

皆で頭を寄せ合って決めます。(21~22p)

   

「北斎(ほくさい)」とか「写楽(しゃらく)」「歌麿(うたまろ)」というのも、

プロジェクトチームを指すものであって、ひとりの名前とは限りません。

絵師のことは、本名で呼ぶことが多く、

北斎であれば「鉄蔵(てつぞう)さんやい」と呼び「北斎先生」と呼ぶ人はほとんどいません。

浮世絵師は、画家というよりは、テレビや映画の制作スタッフに近い存在です。(22p)

   

    

Hokusai062※北斎作品

これは意外でした。

「葛飾北斎」「東洲斎写楽」「喜多川歌麿」という絵師はいたのですが、

これはプロジェクトチーム名であって、絵師もチームの一人にすぎなかったようです。

番組の中で杉浦さんが、絵師が絵に色を塗ることは滅多になかったと言っています。

あの浮世絵は、チームみんなで作ったものだったのです。

   

   

〇間違いはもう一つ。

絵師役の矢崎滋さんが、自前のメガネをはめていましたが、これが間違い。

江戸時代のメガネは、耳にかけるところはひもだったとのこと。

   

メガネの歴史も面白そう。

   

 

 

2011年10月18日 (火)

方広寺に行ってきました

  

今日は10月18日。

番組「ザ・今夜はヒストリー」で、大坂冬の陣が扱われる前夜。

    

【大坂冬の陣】

慶長19年(1614)冬、京都の方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。

豊臣秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議を結んだ。

和議の条件として、大阪城の堀が埋められる。

これによって大阪城の守りは大幅に減少。その状態で夏の陣を迎えることになる。

     

はたして明日の番組ではどの辺りに焦点が絞られるかな。

   

徳川家康が大坂冬の陣の口実にした方広寺鐘銘事件とは。

 

【方広寺鐘銘事件】

方広寺は、豊臣秀吉が、1586年に作ったお寺。

大仏が大仏殿の中に置かれ、その大きさは19mあったそうです。

東大寺の大仏が18m(台座を含む)ですから、それ以上あったわけです。

しかし大仏は、1596年の大地震によって壊れてしまい、

大仏殿もいたみます。

徳川家康のすすめによって、秀頼が方広寺大仏殿を修復することになりました。

何年もかけて大仏と大仏殿が修復された1614年に、大梵鐘(ぼんしょう)も鋳造されます。

しかし、その鐘に記された銘文に家康がいちゃもんをつけます。

「国家安康」は家康の名前が切られていること、

「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈願して、

徳川家に対するのろいが込められていると断定しました。

これが方広寺鐘銘事件。これによって家康は大坂城に軍を進めました。

     

この鐘は今も残っています。

その鐘を見るために、修学旅行の1日目(9月25日)に方広寺に行ってきました。

その時の写真。

   

RIMG0060

鐘楼

    

RIMG0103

大梵鐘。

高さ4.2m 外径2.8m 厚さ27㎝ 重さ82.7トン

(方広寺拝観の栞より)

    

鐘に白く縁取られたところあり。

これが問題になった銘文です。

アップで写してみました。

   

RIMG0096

1614年の歴史的な事件のきっかけになった銘文が、

400年近く経った今も、こうやって見ることができるのはすごいこと。

秀頼も家康も見たのでしょうか。

写真では何度も見た銘文を、しっかり見てきました。

    

方広寺入口には、巨石が並びます。

RIMG0114

「大仏殿石垣」と書かれた石塔が立っていました。

ここに高さ50mの大仏殿が建っていたのでしょうか。

大坂城もすっぽり入る大きな建物でした。

※参考「幻の方広寺大仏2」html・・・大仏殿と大坂城の大きさ比較がわかりやすいです。

   

大仏の10分の1のサイズの仏像が、本堂にありました。

RIMG0071

※参考「幻の方広寺大仏1」html・・・方広寺の見どころがコンパクトにまとめられています。

    

今は大仏殿も大仏もありません。

しかし、名残りは残ります。

RIMG0119

方広寺付近で見つけた郵便局。

名前は「京都大仏前郵便局」

大仏は失われましたが、地名は残りました。

  

以上で方広寺報告終わり。

   



 

 

 

なぜ「大坂」が「大阪」になったか?

    

今日は10月18日。

今晩放映の「教科書にのせたい」は、愛知県のことが扱われます。

半田市の新美南吉記念館近くの矢勝川。

秋になるとヒガンバナがたくさん咲く場所です。

昨年は見に行ってきました。

「ヒガンバナを見てきました/矢勝川のヒガンバナ」(2010年10月3日)html

  

そのヒガンバナを植え始めた人の話が放映されるそうです。

上記の投稿で紹介した「中日新聞お出かけニュース」によると、

幼少時に南吉と遊んだこともあるという小栗大造さんが

「童話の舞台の堤をキャンバスに、ヒガンバナで真っ赤な風景を描く」という思いで

平成2年から球根を植え始めたとのこと。

この小栗さんが紹介されるのでしょう。

    

明日の晩は、「ザ・今夜はヒストリー」がいい。

次回の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」が、大坂冬の陣をやるにあたって、

偶然にも「ザ・今夜はヒストリー」も内容が大坂冬の陣です。

Main_29大坂城

http://www.doco-ico.net/staff/osaka/vol_29.html  

     

大坂冬の陣にゆかりのある京都の「方広寺」に行ってきたので、

そのことを書こうと思いましたが、

その前に、「大坂」「大阪」について。

なぜ「大坂」が「大阪」になったか、このブログにも書いておこうと思います。

   

「大坂」の「坂」は、「土に返る」ということで縁起が悪いということで、

「阪」い変わったと覚えています。

他にも説がありました。

次のところから引用します。

「Yahoo知恵袋/大坂→大阪」85

   

漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、

大坂の「坂」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい

縁起が悪いということから、江戸時代ころから「大阪」とも書くようになり、

明治時代には逆に大阪の字が定着する。

一説に「坂」から「阪」への変更は、

明治新政府が「坂」が「士が反する」、

すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、

単に、役人の書き間違えの言い訳から定着したともいう。

     

「士が反する」説は面白い。

とにかく、大阪冬の陣の頃は、「大坂」です。

次の投稿で「方広寺」のことを書きます。

2011年10月17日 (月)

何で「関の山」?

  

今日は10月17日。

今回も子どもの提出する自主勉強より。

    

関の山(せきのやま)。

   

意味は、「一生懸命やってできる可能な限度。精いっぱい」

たとえば、「一日に一冊読むのが関の山だ」と使います。

  

自主勉強のノートで、「関の山」を久々に見かけて思いました。

なぜ「関の山」なんだろう?

   

調べました。

語源由来辞典にこう書いてありました。

    

「関」は三重県の関町(2005年1月11日に市町合併し、現在は亀山市)、

「山」は関東で言う「山車」のことである。

関町から八坂神社の祇園際に出される山は大変立派なものだったため、

それ以上贅沢な山は作れないだろうと思われ、

精一杯の限度を「関の山」というようになった。

    

ほら、また面白いことを知りました。明日子どもに話をしよう。

   

※参考「亀山市観光協会 関宿夏祭り」html

    「斉藤ギャラリー 関のまつり」htm

2011年10月16日 (日)

脱原発の映画・トークその4・・・今こそ、エネルギーシフト

  

今日は10月16日。

昨日の投稿に引き続き、「脱原発の映画・トーク」シリーズその4。

   

10月9日の上映会会場で買ってきた本「今こそ、エネルギーシフト」を読みました。

         

415Q8rPKxGL__AA300_
飯田哲也/鎌仲ひとみ著 岩波ブックレット

    

興味をもった文を引用します。

   

文科省(旧化学技術庁含む)の管轄である高速増殖炉「もんじゅ」の事故の時は、

経産省の管轄下の事故ではありませんでしたから、  

こんな事故を起こすようでは文科省に任せられないとばかりに

経産省はプルサーマル計画に突っ走っていく。

まさに昔の帝国陸軍と海軍の関係とまったく同じ構図だと言っていいのではないでしょうか。

戦艦大和の建造と原発や再処理工場は、

世界の現実や自らの状況を見ようとせず、

過去の成功体験に浸って巨大技術に走るという点でも同じです。

参謀本部が、現実の状況を理解せず無謀な作戦を立てていった、

その思考回路も同じで、国民を平気で犠牲にする思考までそっくりです。

( 飯田哲也 20~21p)

   

NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向ったのか ①~⑤ 戦中編」を見た時に、

上記のような気持ちを持ちました。 

「なぜ戦争へと向かったのか」html

原子力発電が日本でどんどん進んでいったのは、

2つの省のライバル心が理由の一つだったということでしょうか。

3月11日以後の事故対応についても、

2つの省の協力は、充分ではないようです。未曾有の事故だったのに。

    

そもそも、日本の教育の中で、「被曝」や「放射線」の基本を教えるということがされてこなかった、

ということも指摘すべきでしょう。(中略)

反対に、教育に取り込まれてきたのは「わくわく原子力ランド」という副読本で、

原子力発電の優秀さと安全性ばかりを強調したものです。

そして、原子力の日(10月26日)に子どもたちにポスターを描かせて表彰したりして、

まさしく国家ぐるみでプロパガンダを教育の中で行ってきたのです。

( 鎌仲ひとみ 22p)

   

これは教師として耳が痛い話です。

原子力発電に対する漠然とした不安はありましたが、

本当に安全かといった追究はしていませんでした。

ただ教えていました。今さら放射線の怖さを知らせています。

原爆での怖さは教えていましたが、原発の放射線は別モノ扱いでした。反省。

    

日本にとっては、明治維新とアジア・太平洋戦争の敗戦につぐ、

第三のリセット時期に相当するくらいの、

大きな変革期になっていくのではないかと思います。( 飯田哲也 28p)

   

私もそう思います。

常識を疑い、本当に正しいのは何かを見極める時。

そしていい方向に変えていく。

明治維新の激動期をうらやましく思ったことがあります。

停滞していなかった。志を高く持って頑張っていた。

今その気になれば、時代を変えられる、時代を変える子どもたちを育てる、

そんな時期だと思います。・・・大げさかな?

でも身近で当たり前が当たり前でなくなってきたと思います。

   

まず勉強しなさいといったことが書いてありました。

エネルギーについて論じるにあたって、日本人は前提となる知識が足りないそうです。

他の国は1979年のスリーマイル事故をきっかけに、

原発推進から転換して、他のエネルギーについて研究してきました。

日本はこれからです。30年遅れ。

   

4月からエネルギーについて勉強してきましたが、

確かに知らないことが多かったです。

半年前の自分が恥ずかしい。

この本で、また勉強ができました。

 

「地べた」はどこの方言?

  

今日は10月16日。

前投稿にひきつづき、子どもの自主勉で勉強になったこと。

地元の方言。ここは三河弁と言われます。

    

「わからん」(わからない)

「ぶっちゃける」(一気にあける)

「おいでん」(いらっしゃい)

「やぐい」(もろい)

「たるい」(ものたりない)

「しょんべ」(小便)

「じべた」(地面)

「いじくる」(触る)

「さばくる」(さばく)

   

こういった言葉が書きならべてありました。

あらためて、これって三河弁だったんだと思うのがあります。

 

「わからん」は、三河弁と言っていいのかな。

もっと広い地域で使われていそう。

   

「じべた」が意外でした。

漢字で書くと「地べた」

「べた」には漢字がないかな。

調べたら、「べた」は、「ほっぺた」「しりっぺた」の「ぺた」と同じで、

「その辺り」の意味があるのではと書いてありました。なるほど。

たとえばこのサイト。「ぺた・べた」html

しかし、「地べた」にしても、わりと広く使われていて、

三河弁と言いきっていいかどうか。

どこを発祥とする言葉なのかが大事。

以前「~じゃん」にこだわったことを思い出します。

ここでも道草 「~じゃん」発祥の地はどこ?/番組ではこう言っていた(2010年7月15日投稿)

(全3本投稿)

   

「いじくる」も同様。

本当に三河弁かどうか。

    

でも、あちこちで使われている言葉でも、標準語とは言えない言葉は方言であり、

三河で使われているなら三河弁と言ってもいいとは思いますよ。

「地べた」が三河弁でもあり、山口弁でもあり、静岡弁であっても構わないとも思います。

   

これは三河弁!とわりと強く言っていいのが、「おいでん」かな。

地元では毎年5月に「おいでん祭(さい)」があります。

    

言葉は難しい。でも面白い。

   

 

2011年10月15日 (土)

信玄砲/野田城址

   

今日は10月15日。

子どもたちが毎日出してくる自主勉強で、

私が勉強になることがあります。

   

信玄砲(しんげんほう)について調べてきた子がいました。

新城市の設楽原歴史資料館に行ってきて、

そこに信玄砲があったそうです。

元亀元年(1573年)、野田城で信玄を狙撃したとされる銃です。

「夜になると野田城から聞こえる名人村松芳休の奏でる笛の音に誘われ、武田信玄が撃たれた」

自主勉強のノートにはこう書かれていました。

    

本当でしょうか?

武田信玄は、1572年に将軍足利義昭からの信長討伐の命を受けて甲府を出発。

徳川家康を三方ケ原の戦いで破り、翌年1573年に三河に侵攻。

今の新城市にある野田城の戦い後、信玄は体調を崩して、甲府に引き返し始める。

その途中、信玄は亡くなる。  

    

このような歴史から、信玄が野田城付近で撃たれ、

その傷が原因で亡くなったという説があります。

そして、その信玄を撃ったのが、信玄砲というわけです。

    

    

野田城址。

その傍らにある国道を何度も走っているのに、

今まで一度も訪れていない史跡です。

遠くに住む信玄ファンから怒られそうです。

我が家から40分ほどで自動車で行けます。

なぜか行きそびれている史跡です。

    

次のブログを見たら行きたくなりました。

「愛知戦国史跡ナビゲーター みかわのひで/信玄が鉄砲で撃たれた場所はココだ!」html

     

信玄が撃たれたと言われているのは、

正確には野田城近くの、今は法性寺の境内。

「伝説 信玄が撃たれた場所」という看板があり。

見てみたいです。

実際に行ったら、このブログで報告します。

   

野田城の位置を地図で示します。

 

 

    

 

脱原発の映画・トークその3・・・劣化ウラン弾によるヒバクシャ

  

今日は10月15日。

このシリーズの3回目。前回は10月10日。

   

映画「六ケ所村ラプソディー」の監督鎌仲ひとみさんが、

放射能被曝について関心を持ったのは、1998年にイラクに行った時からだそうです。

当時のイラクは、湾岸戦争後~イラク戦争前の状況。

湾岸戦争でアメリカ軍が使った劣化ウラン弾からの放射線によって、

子どもたちが小児ガンで苦しんでいました。

なのに、イラクには抗がん剤がありませんでした。

正確に言うと、ありました。少量。

それはブラックマーケットで販売されていました。とても高額で。

しかし、イラクの親たちは子煩悩で、100万~200万円する薬を買って、

子どもたちに与えました。しかし、救われなかったことが多かったようです。

悲しい話です。

なぜ、抗がん剤を輸入しなかったか?

  

イラクに抗がん剤を送っても、兵器になると言ったへんな説があったそうです。

鎌仲さんは、子どもたちの悲惨な様子を撮影して、それを世界に示し、

世界の誤解を解いて、子どもたちを救いたいと親たちに言いました。

しかし、親たちは拒否。

「世界中からメディアが来て、撮影をしていったが、何も起こらない」

という答え。

鎌仲さんはそれでもお願いし、撮影して、日本に帰国。

NHKから依頼された番組だったのですが、番組作りは難航。

アメリカ軍が安全だと言っている劣化ウラン弾を批判する内容がチェックされたようです。

    

その時作られた番組が、「戦禍にみまわれた子供たち~湾岸戦争8年後のイラク」

見てみたい番組です。

 

2011年10月14日 (金)

久々に「さらばミシシッピー」

  

今日は10月14日。

今朝のテレビニュースで、柳ジョージさんが10日に腎不全で亡くなったことが報じられました。

63歳。

どんな人でも最後は死んじゃうんだとあらためて思います。

でも早いです。

    

「さらばミシシッピー」「酔って候」「雨に泣いている」などよく聞いたな~。

最近は聴いていなかったので、聴いてみました。

やっぱり最高なのは「さらばミシシッピー」です。

youtubeのコメント欄にいくつかの追悼の言葉がありました。

今晩はこの歌を聴いている人が多いだろううなぁ。

 

    

司馬遼太郎の「酔って候」から生まれた曲「酔って候」

気分よく酔っている山内容堂がイメージされます。

 

和風な歌詞?に、英語の歌詞が入っているのが、不思議な感じ。 

    

しんみりと入ってくる歌・歌。

癒されているなあ、自分。

2011年10月13日 (木)

操舵舵輪面舵取舵

   

今日は10月13日。

12日は社会見学でした。

伊勢湾フェリーに乗りました。

ふだんは入れない操舵室の見学もできました。

ちょっと言葉にこだわりました。

   

【操舵(そうだ)】=船を思う方向に進めるために舵(かじ)を操作すること。

【舵(かじ)】=船の進行方向を定める装置。板状で、多くは船尾に取り付けられる。

Tarukaisen26
http://homepage3.nifty.com/modelshipbuilder/tarukaisen.htm

    

伊勢湾フェリーで、舵(かじ)を操るハンドルです。

RIMG0066操舵
  

このハンドルを、「舵(かじ)」と言いがちですが、

「舵(かじ)」はあくまでも、船底についているものであって、

このハンドルのことを「舵(かじ)」と呼ぶのはおかしい。

ならば、何と言うか?

    

調べました。

ありました。正解はこれです。

【舵輪(だりん)】=舵をあやつる輪形の把手(とつて)。

ちゃんと名前がありました。

    

「おもかじいっぱい」とか言います。

職員室で、「おもかじ」の反対は何か?ということが話題になりました。

「とりかじ」でした。

  

どんな漢字を書くのか疑問に思いました。

    

調べました

「面舵」「取舵」でした。

  

なぜこの漢字か?

さらに調べました。

   

面白いことがわかりました。

これだから調べるのは楽しい。

   

【面舵】=船舶の航行において、進行方向右に舵を転ずること。

卯(東)の方向に舵をとることから、ウが徐々に転じてオモと呼ばれるようになったとされる。

    

と言うことは、「取舵」の「とり」は方角を示す「酉」?

調べたらその通り。

   

【取舵】=船舶の航行において、進行方向左に舵を転ずること。

酉(西)の方向に舵をとることから。

      

       

明日、いろいろな人に教えたくなりました。

おやすみなさい。

 

 

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