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2019年12月 7日 (土)

2019年冬長野(5)9年前の記事「もうひとつの学童疎開」

  

今日は令和元年12月7日。

  

千曲市の上山田ホテルのロビーの一角で、私は光明学校の

疎開の資料を読みました。その資料の一つをここに載せます。

2010年8月10日の毎日新聞の

「もうひとつの学童疎開①光明学校の障害児たち」という記事です。

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記事の本文は、下に書きうつします。

  

空襲 校庭の壕でしのぎ

  

標高600メートルの城山(じょうやま)を登り切ると、

木々の間から緩やかな弧を描く行き千曲川が見えた。その

流れに沿うように温泉宿が連なる。

「どの子も不自由な足で、よくここまで登ってきた・・・」。

2年前の夏、長野県千曲市の上山田温泉を訪ねた並木君江

さん(58)は60年以上前の出来事に思いを巡らせた。

  

並木さんが勤める東京都立光明(こうめい)特別支援学校

(旧光明学校、東京都世田谷区)は全国初の肢体不自由児の

学校として設立され、太平洋戦争末期、この温泉地に疎開。

城山は歩行訓練の場となり、子どもたちは松葉づえをつき、

体をひきずりながら頂を目指した。傍らには励まし、支えた

引率教諭や保母がいた。

 

戦争が終わると学童疎開した健常児たちのほとんどが親元に

帰ったが、光明の学童はその後も4年間戻ることができなか

った。約60人の疎開の歴史は、地元や東京都の公的資料

にはほとんど残されていない。

 

戦後校内にも知る人はいなくなり、並木さんは「誰かが語り

継がねば」と同僚らと現地を訪れた。きっかけは一人の元教

諭がまとめた記録。そこには最も守られるべき子どもたちの

戦争があった。

  

▢ ▢ ▢ ▢ ▢

  

秋の日が傾き、あたりが薄暗くなっても、誰も戻ってこない。

国民学校1年生だった秋山孝さん(77)=東京都千代田区

=は教室の硬いいすに座り、一人泣いていた記憶がある。

 

生後6カ月でポリオになった秋山さんは、後遺症で両腕が

上がらず右足に力が入らない。この日はクラス全員で神社に

参拝する予定だったが、担任の男性教諭は「お前は歩けない

から教室で待っていろ」と言い残し、他の学童と教室を出た。

 

帰らぬ息子を心配した母が学校に行くと、担任は「いけね。

教室に忘れた」。「ここには置いておけない」と母が探し、

見つけたのが光明学校だった。

 

障害のある子が家の屋敷ろうに閉じこめられていることも

珍しくない時代だった。健常児と同じ学校に通い石を投げ

られた子もいた。「光明に入れた私はまだ恵まれていた」

と秋山さんは振り返る。

  

転校した秋山さんが4年生になるころ、本土空襲が始まっ

た。44年6月以降、政府は大都市の集団疎開を進んた。

戦力を確保しようとの狙いもあった。

  

行政当局は各校の疎開先を探し、学童らは次ぎ次ぎと地方

へ向ったが、「戦力外」と考えられた障害児は対象から外

された。

  

同年8月。空襲で通学が危険になり、光明学校はやむなく

校内で集団生活をする「現地疎開」を始める。校庭に防空

壕を掘り、畳を敷いた会議室に寝泊まりした。「お父さん、

お母さんおはようございます」。子どもたちは親元を離れ

た寂しさをこらえ、毎朝、家の方角に頭を下げた。

  

翌45年になると、学校のある世田谷区の上空にも米軍機

が飛来し、昼夜を問わず空襲が激しくなった。

 

ある夜のこと。警戒警報のサイレンが鳴り、秋山さんは防

空壕に入る身支度をしているうちに、校内で眠り込んでし

まった。防空壕の中で点呼をした教諭が叫んだ。「1人足

りない!秋山だ!」。叫びながら校舎に駆け込み、秋山さ

んを連れ出した。

  

ゴー、ゴーと低空で飛ぶ米軍機のごう音が絶え間なく響く

なか、命がけで助けに来た教諭の姿を見つけ、秋山さんは

思った。「大丈夫だ。先生といれば、守ってもらえる」

  

▢ ▢ ▢ ▢ ▢

  

秋山さんの手記を目にした並木さんは、当時の子どもたち

の姿とともに、過酷な日々の中でも一人一人の障害児に力

をはぐくもうとした、大人たちの信念を知った。

  

35年前に教員採用された並木さんは普通中学の体育教諭

を志していたが、思いもかけず養護学校への赴任を命じら

れた。「どう接すればいいんか」と悩み、一人の女子生徒

に尋ねてみた。「自分でできることはない?やってごらん

」。手が動かず車いす生活だった生徒が足の指でパンを食

べ始めた。子どもの持っている力を引き出すことが教育な

のだと知った。

  

戦後65年。疎開中に在籍していた子たちと同程度の障害

であれば普通科で教育を受けられる時代になった。光明は

もっと重度の子が通っている。でも一歩社会に出れば、作

業所新設などに地域の理解が得られないこともある。

  

秋山さんも登っていた城山に立ち、並木さんは思った。障

害児たちの学童疎開の足跡は、今に何を伝えているのだろ

うか。                 【木村葉子】

   

 

私は2014年のETV特集で、光明学校の学童疎開のこ

とを知りました。それ以前から並木先生のように、「誰か

が語り継がねば」と思って行動されている方がいました。

秋山さんが体験したことは、初めてこの記事で知りました。

冬の歩行訓練の写真は貴重です。城山から見下ろした上山

田温泉と千曲川の写真が、今一つ不鮮明なのが残念です。

この写真の提供者は、なんと今西美奈子さんです。どうに

か連絡をとって、元写真を見させていただきたい。そんな

ことを思いました。

  

   

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