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2022年12月

2022年12月13日 (火)

「ミャンマー現代史」⑩ 地名「インドシナ」の意味

    

今日は令和4年12月13日。

  

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

もう時間がないです。

この記事で最後ですね。

    

ロヒンギャ問題がミャンマーにはあります。

それは宗教紛争のようです。

ロヒンギャと呼ばれる人々は、ムスリムです。

イスラム教徒です。

しかし、ロヒンギャと呼ばれる人たちが住んでいる州は、

仏教徒が多数を占めています。

この宗教の違いも紛争の大きな理由のようです。

  

  

 以上みてきたように、ミャンマーはテインセイン政権下で大きく

変わった。変化をもたらした最大の理由は、テインセインの指導力

である。柔軟で行動力のある大統領が生まれたことは、ミャンマー

にとって幸運だったといえる。軍事政権時代の首相だというのは拭

いがたい過去ではあるものの、むしろ軍人であるがゆえに政治の安

定が生まれた。

 彼の改革姿勢にスーチーや、米国、日本など多くの関係者と関係

国が賭けた結果、民主化、自由化、経済発展、和平交渉、外交関係

改善が同時に進んでいく好循環が生まれた。むろん多くの課題は残

り、宗教紛争のように悪化した問題もある。とはいえ、国が良い方

向に向かっているという期待感を生んだことは間違いない。

 この好循環と期待の到達点が、2016年のスーチー政権発足だ

った。改革の次の段階が始まる。世界はそう受けとめた。

(129~130p)

   

2011年から2016年までのテインセイン政権を、

著者は評価しています。

その後に、スーチー政権の誕生。

もう後戻りはしないと誰もが思っていたと思います。

  

  

う~ん、ラストの引用。

引用したら、図書館に走ります。

(13日 17:20記/図書館は18:00まで)

  

 ミャンマーはいつも、大国のはざまにあった。

 この国の最北端にあるカカボラジ山は、東南アジア最高峰の山で

ある。急峻な山々が連なるヒマラヤ山脈の東端に位置し、標高は

5881メートル。ながらく立ち入りが許されなかったことから、

「アジア最後の秘境」とも呼ばれた。

 ここから南東は標高がなだらかになり、ヒトやモノの往来がしや

すくなるため、陸路の場合、ヒマラヤ山脈に阻まれる中国文明とイ

ンド文明は、迂回してミャンマーを含む現在の東南アジア大陸部で

交わった。19世紀初頭、デンマーク生まれの地理学者マルテ=ブ

ルンと、スコットランド人の言語学者ジョン・ライデンが、この地

域を、それまでの「外インド」(exterior India)ではなく、多分

に地政学的なニュアンスを込めながら、インドと中国(支那)を合

わせて「インドシナ」(Indo-China)と呼んだのも、そのためであ

る。

(210p)

   

「インドシナ」という地名は、こんな意味でつけられていたのかと、

ちょっと驚きでした。勉強になったです。

  

東南アジア最高峰のカカボラジ山については、

うっすら自分には記憶がありました。

この山についての番組を録画したような気がしました。

さっそく私が持っている映像一覧で検索してみました。

ピッポン!

  

7年前の番組でした。

2015年4月18日放映の番組。

「NHKスペシャル 幻の山 カカボラジ アジア最後の秘境を行く」

 

私の記憶は正しかった。

録画した当時の自分を褒めたいです。

録画してまだ見ていません。

今晩は時間がないので、明日の午後見ます。

楽しみです。

4

NHK放送史

動画は配信していないとのこと。

この番組を見ることができるのは、貴重ですよ。

  

  

以上、「ミャンマー現代史」からの引用を終えます。

この本、無事に図書館に返しました。

1回読んで、すぐにまた再読した本です。

付箋を貼ったページはたくさん。

ブログに引用したのは、その半分にも至らなかったと思います。

勉強になる本でした。

今なら、ミャンマーで起こっていることを、

中学生に話をすることはできるかな。

もう東南アジアの授業は終わってしまったけどね。

  

「ミャンマー現代史」⑨ 軍には民主主義への抜きがたい不信がある

    

今日は令和4年12月13日。

  

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

 軍には民主主義への抜きがたい不信がある。民主主義は自己利益

を求める集団の争いで、ミャンマーという分断を抱えた国家の利益

には適合しないといった考えが根強い。この不信の裏返しとして、

軍こそがそうあした党派性を超越して国家全体の利益を護る存在で

あるという特権的な自己認識がある。これはガーディアンシップと

呼ばれる。

(62~63p)

  

民主主義が第一であると考えない人たちがいることをつきつけられました。

こんなミャンマー軍を変えることは難しいのです。

   

 新憲法の国民投票(2008年5月10日)は、直前に到来した

サイクロン・ナルギスで人口が最も稠密(ちゅうみつ)な地域であ

るエーヤワディ・デルタ地帯中心に甚大な被害(死者・行方不明者

13万人以上、被災者240万人以上)が及んでいるなかでも断行

された。

(78p)

   

被害が尋常ではないサイクロンです。

調べました。

Wikipedia サイクロン・ナルギス

普通は西に進んでバングラデシュに向かうサイクロンが、

ミャンマー側に来て、準備が十分でなかったので、

大きな被害になったそうです。

  

 1988年に始まった軍事政権は、タンシュエを頂点として直接、

軍が政権を担い、社会経済の統制を基本とする統治と、収奪的で低

位安定型の経済が持続した23年間だった。その結果、民主化や経

済成長が進んだ東南アジア諸国を尻目にミャンマーは停滞した。

 だがしかし、停滞といっても、決して崩壊の瀬戸際にあったわけ

ではない。強固な独裁のもと、天然ガス輸出で政府財政は改善し、

民主化勢力は弾圧により弱体化していった。軍事政権が発表した「

民主化」へのロードマップには、タイムテーブルはない。期限を延

ばそうと思えばいつまでも延ばせたはずだ。しかし、タンシュエは

引退を決めた。そして、ほとんど期待がないなか、ミャンマーは民

主化と経済発展の時代に入っていった。なぜそんなことが起きたの

か、次章でみていこう。

(85p)

  

1988年に起こった民主化の活動は停止させられ、

その後にタンシュエを頂点にした軍事政権が長く続くことになりました。

現在のクーデターも、同じことになるのでしょうか。

短期で終わると思った軍事政権は続き、

ミャンマーが民主化勢力の政権が誕生するのは、

ずっと先のことなのでしょうか。

前例があるだけに、心配になります。

ただ、2011年から、軍事政権だったけど民主化が進んだろいう

前例もあります。どうなるか?

  

 テインセイン政権が発足した当初、期待は高くなかった。独裁が

終わったとはいえ、軍事政権時代の幹部たちが政権に居座っている

のだから自然な推測だろう。ところが、その後、予想を超えて急速

に改革が進む。

 ただ、世界の民主化事例を観察すると、こうしたことはそれほど

珍しくない。民衆の革命で起きる民主化よりも、権威的な体制が自

ら自由化や民主化を進めることの方が数としては多い。(中略)

こうした改革を引っ張るのは、往々にして旧体制内にいた改革派で、

テインセインと彼を支えた幹部たちは、まさにそうしたひとびとで

あった。

(95p)  

   

私たちは、民主化が誕生するまでの苦しい展開を、

ミャンマーという国を舞台にして実況中継で

見ているのかもしれません。

これでは他人事のようですが、何か私に出来ることなら

やってみたいと思っています。

そのささやかな行為も、

今回の民主化誕生には必要なことかもしれません。

これだけ情報が世界を飛びかう現代。

他国に住む人だって、力になれると思うのです。

  

「ミャンマー現代史」⑧ 1988年に偶然ヤンゴンにいたスーチー氏

     

今日は令和4年12月13日。

  

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

アウンサン・スーチー氏に関する記述を引用します。

  

 民主化勢力、なかでもスーチーが軍にとって脅威だったのは、こう

した危機管理型の統治に真正面から挑戦する指導者だったからである。

 カリスマといわれるように、スーチーの演説の才と人気は際立って

いて、遊説のたびに老若男女、実に多様で大勢のひとびとが、彼女の

話を聞きに集まる。これは社会を統制したい軍にとっては、脅威にほ

かならない。また、ノーベル平和賞をはじめ、人権と民主主義の象徴

として、彼女がしばしば欧米の国々や団体から受けた賞賛は、軍の目

には内政干渉と映る。

 軍は、この「脅威」であるスーチーを、断続して合計約15年もの

間、ヤンゴンのインヤー湖南岸にある自宅に軟禁した。スーチーには、

英国人の夫とふたりの息子がロンドンにいて、出国を望めばいつでも

できただろう。しかし、一度国外に出たら再入国は許されそうにない

なか、ミャンマーに残って非暴力闘争を続け、1999年には夫と死

別している。

 1988年以降、軍の統治に対するスーチーの挑戦がこの国のダイ

ナミズムを生んでいく。民主化勢力の成功物語ではないが、軍による

一方的な強権的支配の歴史でもない。国際社会も巻き込んだ複雑な力

学がある。

(25p)

  

「ダイナミズム」とうい表現が重要です。

意味は力強さ、迫力の意味。

スーチー氏の登場で、ミャンマーは注目され、

多くの国が関係を持とうとしたのです。

1988年は大きな変革の年でした。

  

 1988年にミャンマーは大きく変わった。政治体制が変わり、経

済体制も変わった。なかでも重要なのは、アウンサンスーチーが指導

者として登場し、国民民主同盟(NLD)が軍の統治に抵抗する主流

派を形成したことである。

(30p)

  

1988年に、スーチーがミャンマーにいたのは偶然でした。

母親がインド大使就任したことで海外の生活が始まったのは

1960年。それ以後彼女の生活の基盤はイギリスでした。

1972年に英国人マイケル・アリスと結婚。2人の息子をもうける。

ミャンマーのヤンゴンで暮らす母親が体調を崩したことで、

約30年ぶりにミャンマーに帰国したスーチー氏。

  

 当初、現地社会からはやや浮いた存在だったようだ。ヤンゴン大学

の敷地は、スーチーの家から1キロ程度と目と鼻の先なのだが、彼女

の帰国は知らされていなかった。彼女がヤンゴンにいることを多くの

ひとが知ったのは、殉教者の日(7月19日、アウンサンら1947

年に暗殺された指導者たちを追悼する祝日)の式典に出席する様子を

国営テレビや翌日の国営紙が伝えたためである。ネーウィンの辞任で

勢いづく学生たちは、自分たちの声を大衆の声に変えられる指導者を

必要としており、彼女が運動に参加することを望んだのはまったく不

思議ではなかった。スーチーは学生たちの要請に応える。

(38p)  

   

人の人生はどう転ぶかわかりませんね。

約30年ぶりにミャンマーに戻ったタイミングで、

反政府の学生活動に出くわしたのです。

学生の要請に応えて、はや34年。

難しいミャンマーの政治を、どうにかしようと挑戦した

アウンサン・スーチー氏。

この本を読んで、興味は高まりました。

  

  

「ミャンマー現代史」⑦ ミャンマーに対する今までの日本の援助とこれから

   

今日は令和4年12月13日。

  

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

 「バスに乗り遅れるな」という言葉が当時よく使われていたこと

を思い出す。ミャンマー進出を急ぐ雰囲気が世界にも日本にも醸成

された。

 日本政府にとっても、ベトナムの次の支援先としてミャンマーは

望ましかったからである。というのも、日本企業の新たな進出先た

りうる経済的潜在力があった。中国の発展と政情で、東南アジアに

拠点を移す企業が増えるなか、ミャンマーはまさにフロンティアだ

った。東アジアに広がる製造業を中心とした生産年とワークにこの

国を組み込み、また、1990年代から続く東南アジア大陸部の連

結性を高める経済回廊建設にとって、ミャンマーは長く失われてい

たピースだった。

(248p)

  

日本のミャンマーへの援助は2013年から加速していきます。

  

 民政移管後に大幅に増えた援助にさらに弾みがついたのは、スー

チー政権の発足だ。2016年11月に東京で安倍首相とスーチー

国家顧問が会談し、経済発展・国民和解と都市部と地方の均衡ある

発展実現に向けた努力を支援することが表明された。官民合わせて

5年間で8000億円の支援という大規模なものだ。2019年に

は援助総額が15億ドルを超える。その規模は同年の円借款の供与

相手国では4番目の大きさである。

 クーデターの支援はさらなる拡大を見越した矢先に起きた。10

年間の日本の支援に対する裏切りだといってよい。憤る関係者も多

い。だが、日本は欧米と協調して軍に制裁を課すようなアプローチ

を選択しなかった。ODAについても、既存の事業は一部を除いて

継続している。ミャンマー軍に対する三つの要請のハードルは高く、

軍の政権掌握を認めたわけではないものの「独自の役割」を果たす

と言いながら、日本の動きは依然として鈍い。

(248p)

  

2016年の安倍首相とスーチー国家顧問の会談時の

ニュースと写真です。

産経新聞 安倍晋三首相とアウン・サン・スー・チー氏が会談 8千億円規模の支援表明

3

当時、全く注目していなかったニュースですが、

ミャンマーがとても順風満帆に進んでいると思えるニュースです。

まさか、クーデターでひっくり返るとは。

  

日本政府が、ミャンマー軍に示した三つの要請とは。

クーデターの直後に出されます。

  

 2月10日、茂木敏充外務大臣がブリンケン米国国務大臣と電話

で協議し、日本の基本方針となる三つの要請が固まる。すなわち、

①民間人に対する暴力的な対応の停止、②拘束された関係者の解放、

③民主的な政治体制の早期回復、である。

 この要求水準は決して低いものではない。クーデターの目的がス

ーチーの排除であることを考えれば、拘束された関係者の解放は、

軍が簡単に受け入れられるものではない。だが、国内からは批判の

声があがった。ODAを即刻中止すべきだ、あるいは、欧米と歩調

を合わせて制裁を課すべきだといった声は、軍による市民への弾圧

が激しくなるにつれて強まった。なかでも、軍系企業が絡む事業へ

の投融資、防衛大学校などでの将校の訓練をはじめとする防衛協力

や、民生と軍事の「デュアルユース)(軍民両用)品の供与が批判

の的になった。人権団体からは民政移管後の日本政府による支援拡

大自体が問題だったという批判も出る。

 それでも日本政府は、新規のODA案件は停止したものの、既存

の案件は中止せず、日本独自の役割を果たすという方針を変えなか

った。

(241~242p)

   

クーデター以後、日本政府がどう動いたのかが見えてきました。

  

ここで「デュアルユース」という言葉が出てきました。

平和及び軍事、両方の目的に使用できるテクノロジーだそうです。

防衛協力については、こんなニュースが9月に発信されていました。

日本政府がミャンマー国軍の軍事訓練を停止へ

   

日本政府が、ミャンマー軍に対して

どんな行動にでるのか、これからは注目していきたい。

2022年12月12日 (月)

「ミャンマー現代史」⑥ 日本のパイプ 渡邊秀央氏 丸山市郎氏

     

今日は令和4年12月12日。

  

12月6日までに5本書いた記事の続きです。

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

この本、明日、図書館に返さなくてはなりません。

手元に残しておきたい文章は、

ブログにできるだけ書き留めておこうと思っています。

   

日本には、軍との「パイプ」があると報道されていました。

そのパイプは、具体的には3人です。

1人は、先に書いた笹川陽平氏です。

あと2人とは。

元衆議院議員で日本ミャンマー協会の会長の渡邊秀央氏。

駐ミャンマー大使である丸山市郎氏。

  

2人に関する記述を引用します。

  

 渡邊は衆議院議員、参議院議員として長く日本・ミャンマー友好

議連の一員を務め、1987年、官房副長官時代に、かつて秘書と

して仕えていた中曽根康弘からミャンマー支援を任された。軍事政

権時代のミャンマーを訪問した際、当時、北東部にあるシャン州で

軍管区司令官だったテインセインと知り合う。外国人議員がミャン

マーの地方に赴くことなどまずない時代のことだ。歓待を受けたと

いう。そのテインセインが大統領に就任したことで、渡邊は政権と

親密な関係を築いていく。ミンアウンフラインとも最高司令官就任

直後から交流を深めた。(中略)

 民政移管時の野田政権、その後の安倍政権と、対ミャンマー政策

の転換に際して影響力を発揮した。日本が主導してヤンゴン郊外で

進めたティラワ経済特区の開発では、ミャンマー政府との交渉、日

本政府内の調整で、渡邊の力がいかんなく発揮されたという。

(243p)  

    

渡邊氏は88歳。

元気な88歳です。

渡邊氏は、確かに軍とのパイプは持っているようです。

ただ、それがどう働いているのか。

  

 この「パイプ」が軍の行動を変えられるという期待、あるいは逆

に、この「パイプ」がミャンマー軍を支えているかのような話も広

がった。

(242p)

  

これはどういう意味だろうかと思いました。

そんな時に、次の記事を読みました。

東京新聞 在日ミャンマー人の間で評判悪い日本の元国会議員は何をしたのか

8月の記事です。

この記事では、渡邊氏の行動は、ミャンマー軍のやったことに

お墨付きを与えるようなことをしていると指摘しています。

そして笹川陽平氏も仲間であるとしています。

 

東京新聞の記事の引用です。

  

「渡辺氏や笹川氏は自分たちの利益や事業を守るため、国軍の意向

に沿って動いているようだ。日本政府も国軍とつながりたい本心が

ある」。ソーバラティンNUG駐日代表は、権益確保を目論もくろむ日本側

の思惑を指摘し、負の側面を懸念する。「関係維持を図る渡辺氏ら

と国軍は面会し、『日本が統治を認めた』とプロパガンダに利用し

ている」

  

NUGとは、民主派が国軍に対抗して樹立した挙国一致政府のことです。

民主派にとって、渡邊氏と笹川氏は嫌われています。

2人の本意はどこにあるのでしょうか。

   

  

もう一人の丸山氏。

  

渡邊と笹川がミャンマー軍との近さ、同時にアジア主義的な志向を感

じさせる一方で、丸山は、スーチーとも親しいことで知られた職業外

交官である。ビルマ語専門の外交官として現地での長い駐在経験があ

り、その間にミャンマー政財界に広く人脈を築いた。軍事政権とも民

主化勢力とも付き合う日本のミャンマー外交を体現する人物だろう。

その能力を買われて2018年にミャンマー大使に就任している。

(245p)

    

この丸山市郎氏はどうなのだろう。

おそらく67歳。

笹川氏と渡邊氏に比べて若い。

先月の日本人ジャーナリスト解放にも尽力されたようです。

この人は期待できるのか。

2022年12月11日 (日)

アメリカバイソンをバッファローと言っていたケビン・コスナー

    

今日は令和4年12月11日。

  

映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」を授業で見せたことで、

疑問が湧きました。

私が見せたのは、先住民が狩りをするところ。

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この動物を私はバッファローだと言いました。

なぜなら、このシーンの前に、

主人公のケビン・コスナーが「バッファロー!」と叫んで、

先住民にバッファローの群れを見つけたことを

報告するシーンがあるからです。

Rimg1537

でも4クラスの学級に順番に見せていく中で、

これはバッファローではなくて、

アメリカバイソンだと気がつきました。

  

バッファローは、アフリカの勉強で、

ンゴロンゴロ自然保護区の映像で見せました。

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https://america-info.site/america-bison-buffalo

  

これがバッファローです。

私はちゃんと見せているのです。

映画の動物は明らかに違います。

でも間違いなく、映画の中で「バッファロー」と言っています。

  

なぜ、アメリカバイソンをバッファローと呼ぶのか?

こんな疑問に答えてくれるサイトがありました。

とてもうれしかったです。

アメリカバイソンと水牛、バッファローの違いは?

 

このサイトによると、バッファローというのは

水牛のことだそうです。

したがって、ベトナムの授業で見せた水牛も

バッファローでした。

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ここでも道草(2022年10月10日投稿)

   

そしてアメリカ人が、アメリカバイソンをバッファローと呼ぶ理由。

引用します。

 

アメリカバイソン(学名:Bison bison)は、

北アメリカに分布する野牛です。

バッファローとも呼ばれますが、これは通称

  

アメリカには水牛がいないので、野牛のバイソンを

バッファローと呼ぶようになったから。

だから正確に言うと間違いですが、アメリカではバイソンを

「バッファロー」と呼んでいます。

   

なんと、間違いなのですが、通称で、

アメリカバイソンをバッファローと呼んでいるのです。

アメリカ人は。

そしてアカデミー賞をいくつも獲得した

映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」でも、

通称でバッファローと呼んだようです。

実にまぎらわしい。

でも、アメリカ人の実際のところが知れてよかったです。

  

映画を見せながら、バッファローだと教えたことは、

修正しなくてはなりません。

アメリカ人さん、困りますよ。

   

映画の中で、先住民がバッファローのことを

「タタンカ」と言っていました。

それについて調べました。

Wikipedia タタンカ

そこには次のように書いてありました。

  

北米インディアンのラコタ族の言語で、

アメリカバイソンを意味する言葉。

  

おう!インディアンは間違えていなかったです。

正確でした。

通算8400本目の投稿/東京エレクトロンのCM

    

今日は令和4年12月10日。

  

明日は久々に山仲間との登山。

おなじみの鳳来寺山。

朝早いのに、まだ寝ていない。

もう1本記事を書いて踏んでおきたいことがあります。

この記事で、通算8400本目を踏みたいと思っていました。

  

その内容は・・・

土曜日の晩は、午後10時から、

「情報7days  ニュースキャスター」を見ています。

総合司会の三谷幸喜さんのおしゃべりを楽しみにしています。

この番組を見ていると、必ずこのCMに出合います。

いつもは30秒編ですが、ネットには60秒編がありました。


YouTube: LOVEクロニクル(60秒)

  

先日のオンデーズのCMとおなじ種類の疑問です。

このCMに出てくる男性女性は同一人物か?

どうも私には、人を見る目がないようです。

オンデーズは同一人物だと判明しましたが、

このCMはどうなんでしょう?

だれか知ってたら教えてください。

  

このCMは黒電話から始まり、プッシュ式の電話になり、

ファックスになり、ポケベルになり、

パソコンでのメールになり、ガラケーの携帯になり、

スマホになっていきます。

そして未来。

私は全てを体験しています。

でも黒電話は懐かしいなあ。

誰がでるか。

父親が出たら困るなあと思う気持ちは忘れられませんね。

最初の黒電話で「お付き合いしていただけないでしょうか」と

プッシュ電話の「あら、よろしくお願いします」はいい会話です。

2

1

誰が出るか?

今のスマホ全盛時代では、ありえない心配ですよね。

もう出る人は決まっているのだから。

これはつまらないね。

それともっとつまらないのは、未来の世界。

こんなスマートな未来は、これまたつまらない。

そう思ってしまう私は、古いのでしょうね。

  

おやすみなさい。

2022年12月10日 (土)

今日公開の映画「ラーゲリより愛を込めて」/もう風化する心配はいらない

      

今日は令和4年12月10日。

  

今日から公開が始まった映画「ラーゲリより愛を込めて」

絶対に映画館で観たいと思っています。


YouTube: 映画『ラーゲリより愛を込めて』予告【12月9日(金)公開】

  

この映画の原作を読んでいます。

ここでも道草 「収容所から来た遺書」1/山本幡男(はたお)(2019年6月20日投稿)

3年前に、この原作のことで10本記事を書いています。

  

原作本は「収容所(ラーゲリ)から来た遺書

(辺見じゅん著/文藝春秋)です。

  

今回、3年前に書いた記事を読み直してみました。

シベリアの収容所で、生きる望みを失わず、

周りを鼓舞していた山本幡男さん。

しかし、病魔が山本幡男さんを襲います。

死を覚悟した山本幡男さんは、

家族に宛てて遺書を書きます。

そして山本幡男さんは亡くなります。

残された遺書。

日本に帰還する時には、

日本語で書かれたものは持ち帰れない規則。

同僚たちは、遺書を暗記します。

そして、何年かして帰還した時には、

山本幡男さんの家族にそれを伝えるのでした。

ラストの10本目の記事の最後には

次のように書いていました。

  

本当にたくさん引用しました。

山本幡男さんのことを書き留めておきたいという気持ちで、

けっこう集中して文章をうちました。

 

本も映像も20年ほど前に入手したものばかりでした。

でも20年も経って、少し風化し始めた今頃に、

こうやってブログで大騒ぎ?するのは価値があるかもしれません。

断続的に誰かが大騒ぎして、それで出来事をつないでいく。

将来誰かが興味を持って、ここに来てくれたらいいなと思います。

   

  

風化を心配していました。

でもその心配はなくなりました。

映画になったのですから、もう大丈夫。

山本幡男さんのことは、多くの人たちの記憶に残ることでしょう。

私も、映画館に行くという行為によって、

この映画が特別なものになって、

一生忘れないでしょう。

   

1998年の「驚きもものき20世紀」は

あらためて名作だったと思います。

山本幡男さんの書いた遺書を暗記したメンバーが、

奥さんのもとへ現れるシーンは忘れられません。

涙なしでは見られませんでした。

そのシーンが映画でどう描かれるか。

泣くだろうな。

2022年12月 9日 (金)

追悼/志垣太郎さん 江原真二郎さん

       

今日は令和4年12月9日。

  

昨日の新聞で志垣太郎さんが亡くなったことを知りました。

何と3月に亡くなられていました。

享年70歳。心不全とのこと。

凛とした顔と声が印象的でした。

  

そして今日、ヤフーニュースで、

江原真二郎さんが亡くなったことを知りました。

享年85歳。

パーキンソン病を患い、晩年はたいへんだったようです。

覚えているのは歯磨きのCM。

【なつかCM】ホワイト&ホワイト(中原ひとみ 江原真二郎)③ライオン 1973

4

もう50年前のCMなんですね。

でも覚えています。

こんな家庭はいいなと思いました。

一緒に歯磨きする家庭なんて、滅多にないです。

  

私のブログは、これからきっと追悼の内容が増えていくんだろうな。

同じ時代を過ごした人たちが、少しずつ亡くなっていきます。

こうやって一人一人見送ることで、新しい時代が来るのかな。

北アメリカの農業の教材研究をネットで

        

今日は令和4年12月9日。

   

地理の授業で北アメリカの農業を教えました。

ここでは、アメリカ合衆国の適地適作の様子を

教えなくてはなりません。

これがなかなか難しい。

  

高校地理の動画ですが、これを見て勉強しました。

166 アメリカ合衆国の農業 地理の羅針盤第18話

これくらい知識を得ておいて、授業づくりです。

  

どうしてもアメリカ合衆国の地図が必要です。

なにかいいものはないかとネット上で探しました。

あるものですね。

無料で使える中学学習プリント 北アメリカ州

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高校地理はもっと詳細でしたが、中学地理ならこの程度で十分。

カリフォルニアの地中海式農業を加えることにしました。

このプリントのサイトは、北アメリカの工業でも使えそうです。

いいサイトに出合うことができました。

   

センターピボット式のかんがい設備を説明しなくてはなりません。

畑の中央部で地下水を汲み上げて、

長い腕でスプリンクラーによって散水します。

畑は円形状になります。

教科書に写真があるので、その写真を使って説明ができます。

規模が大きく、高校地理の動画が言うには、

アメリカの中央部には南北に無数あると言っていました。

そうなると、グーグルアースでも見つけることができると判断。

探してみました。

見つけました。容易でした。

検索には「アメリカ ネブラスカ レキシントン」とうちます。

そうするとグーグルアースはこの画面に導いてくれます。

2

この画面で、生徒たちは騒然としました。

センターピボットだらけです。

さらにこの画面から、右下に移動すると(南東に動く)、

この画面に出合います。

3

収穫前の青々としたセンターピボットです。

これでアメリカでは、センターピボットが大々的に行われていることが

伝わったと思います。

     

教科書にはフィードロットという聞き慣れない

牛舎の名前が書いてありました。

教科書にはほとんど説明がありません。

困ったものです。

写真は載っていました。

Epson240

「新しい社会 地理」(東京書籍)105p

   

こういう時には、英語の意味で迫ります。

フィードロットは英語で書くとfeedlotでした。

feedは「餌をやる」「餌」の意味でした。

lotは「囲い込む」の意味でした。

牛を囲い込んで、餌を与えることでしょうか。

Wikipedia 肥育場(ひいくじょう)

日本語では「肥育場」と言うようです。

ここの説明を引用します。

  

食肉用として出荷する直前の家畜を囲い込んで運動量を減らした上で、

飼料を与えて太らせる(肥育する)ための施設である。

  

これでおおよそどんなものかわかりました。


YouTube: 農場から食卓までを体験するバーチャルツアー第3弾 カナダビーフフィードロット事業

  

この動画を見て、教材研究は終了しました。

  

ネットのおかげで、教材研究ができました。

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