「ミャンマー現代史」⑨ 軍には民主主義への抜きがたい不信がある
今日は令和4年12月13日。
前記事に引き続き、
「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)
より引用します。
軍には民主主義への抜きがたい不信がある。民主主義は自己利益
を求める集団の争いで、ミャンマーという分断を抱えた国家の利益
には適合しないといった考えが根強い。この不信の裏返しとして、
軍こそがそうあした党派性を超越して国家全体の利益を護る存在で
あるという特権的な自己認識がある。これはガーディアンシップと
呼ばれる。
(62~63p)
民主主義が第一であると考えない人たちがいることをつきつけられました。
こんなミャンマー軍を変えることは難しいのです。
新憲法の国民投票(2008年5月10日)は、直前に到来した
サイクロン・ナルギスで人口が最も稠密(ちゅうみつ)な地域であ
るエーヤワディ・デルタ地帯中心に甚大な被害(死者・行方不明者
13万人以上、被災者240万人以上)が及んでいるなかでも断行
された。
(78p)
被害が尋常ではないサイクロンです。
調べました。
普通は西に進んでバングラデシュに向かうサイクロンが、
ミャンマー側に来て、準備が十分でなかったので、
大きな被害になったそうです。
1988年に始まった軍事政権は、タンシュエを頂点として直接、
軍が政権を担い、社会経済の統制を基本とする統治と、収奪的で低
位安定型の経済が持続した23年間だった。その結果、民主化や経
済成長が進んだ東南アジア諸国を尻目にミャンマーは停滞した。
だがしかし、停滞といっても、決して崩壊の瀬戸際にあったわけ
ではない。強固な独裁のもと、天然ガス輸出で政府財政は改善し、
民主化勢力は弾圧により弱体化していった。軍事政権が発表した「
民主化」へのロードマップには、タイムテーブルはない。期限を延
ばそうと思えばいつまでも延ばせたはずだ。しかし、タンシュエは
引退を決めた。そして、ほとんど期待がないなか、ミャンマーは民
主化と経済発展の時代に入っていった。なぜそんなことが起きたの
か、次章でみていこう。
(85p)
1988年に起こった民主化の活動は停止させられ、
その後にタンシュエを頂点にした軍事政権が長く続くことになりました。
現在のクーデターも、同じことになるのでしょうか。
短期で終わると思った軍事政権は続き、
ミャンマーが民主化勢力の政権が誕生するのは、
ずっと先のことなのでしょうか。
前例があるだけに、心配になります。
ただ、2011年から、軍事政権だったけど民主化が進んだろいう
前例もあります。どうなるか?
テインセイン政権が発足した当初、期待は高くなかった。独裁が
終わったとはいえ、軍事政権時代の幹部たちが政権に居座っている
のだから自然な推測だろう。ところが、その後、予想を超えて急速
に改革が進む。
ただ、世界の民主化事例を観察すると、こうしたことはそれほど
珍しくない。民衆の革命で起きる民主化よりも、権威的な体制が自
ら自由化や民主化を進めることの方が数としては多い。(中略)
こうした改革を引っ張るのは、往々にして旧体制内にいた改革派で、
テインセインと彼を支えた幹部たちは、まさにそうしたひとびとで
あった。
(95p)
私たちは、民主化が誕生するまでの苦しい展開を、
ミャンマーという国を舞台にして実況中継で
見ているのかもしれません。
これでは他人事のようですが、何か私に出来ることなら
やってみたいと思っています。
そのささやかな行為も、
今回の民主化誕生には必要なことかもしれません。
これだけ情報が世界を飛びかう現代。
他国に住む人だって、力になれると思うのです。
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