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2022年12月

2022年12月 7日 (水)

今昔物語/映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」

     

今日は令和4年12月7日。

  

地理の授業で、北アメリカを教えています。

ちょっと違和感を感じたことがありました。

「先住民」という言葉です。

北アメリカの先住民と言えば、

「インディアン」ですが、教科書には全く出てきません。

先住民を教えるために、

映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(1990年)がいいと思って、

2019年10月24日に

テレビ放映されたものを見せました。

その時に、映画の中では、

「インディアン!」と叫んでいるのに、

字幕には「先住民だ!」となっていました。

Rimg1530

何とも間が抜けたセリフになっていました。

  

ここまできて、さては「インディアン」は差別用語とされ、

使われなくなったのかと思いました。

 

31年前に2万2千円かけて買ったビデオテープを出してきて、

同じ場面を再生してみました。

Rimg1531

やっぱり「インディアンだ!」になっていました。

  

この30年で、変わってしまいました。

いやすでにだいぶ前から変わってきているのでしょう。

  

今日の生徒の反応です。

「インディアン」という言葉に反応が薄いのです。

すでに中学生の世代では、

「インディアン」は死語になっているようです。

  

奥さんに言われました。

「やっぱり古い人が教えとっちゃいかんだに」

  

先日は「アルプスの少女ハイジ」を生徒がほとんど

知らなかったことで、ギャップを感じました。

そして今回の「インディアン」です。

え~、「インディアン」が消えていってしまうのか。

映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」では、

「インディアン」と俳優たちは言っていますが、

この映画も古くなって、観る人が減ってくれば、

「インディアン」は本当に消えていくんだなと思います。

  

逆らいたい。

映画「ダンス・ウィズ・ウルブズ」を抱えたまま、

人生の最後までジタバタしたいです。

決して私はインディアンを馬鹿にしていません。

差別もしていません。

この映画に出てくるインディアンは尊いです。

2022年12月 6日 (火)

アフリカの奇跡と呼ばれるルワンダ

    

今日は令和4年12月6日。

  

今日はミャンマーのことばかり書いてきましたが、

今回はアフリカのルワンダ。

  

ルワンダと言えば、1994年のルワンダ大虐殺です。

恐ろしい国のイメージがあります。

ところが!今はぜんぜん違っているそうです。

それを伝えようとして、生徒に見せたのが、

この2本の映像です。

  


YouTube: 【ルワンダ虐殺】分かりやすく解説

ルワンダ大虐殺について、中学生に紹介するなら、

この映像がいいなと思いました。

3カ月で、100万人が、残虐な殺され方をした大事件。

  

それから30年。

現在のルワンダはどうなっていると思う?

と、生徒に聞くと、内戦が起こっているのではという声。

  

ところが違うんだな。

「アフリカの奇跡」と呼ばれる発展をしていることを

次の映像で紹介しました。

JICAの映像です。  


YouTube: アフリカ開発教育用教材「みんなが知らないルワンダのこと」

  

ネットでは、「アフリカの奇跡」ルワンダについて、

くわしくレポートをしてくれている人がいました。

授業がすんでしまった後ですが、読んでみました。

鮫島弘子のアフリカビジネス入門2017

5年前の記事ですが、読まなきゃ損です。

  

大虐殺をどう乗り越えたのか?

ヒントが書いてありました。

引用します。

  

社会面では、虐殺の原因となった「2つの民族」という考え方を否定

し、国民全体の和解を図ることで、2度と同じような悲劇が起きない

ことを目指しています。ジェノサイドが起きたときはフツ系政権で、

多数派のフツ系が少数派のツチ系を一方的に虐殺しました。カガメ大

統領はツチ系で、3歳のときに迫害を受けてウガンダに難民として逃

れて育ちました。彼は、国内で復讐の連鎖が起こる構造を断ち切るた

めに「フツ」「ツチ」という区別を否定し、すべての国民が「ルワン

ダ人」であるというアイデンティティを持つよう導いています。結果、

ルワンダ国外には依然として反対勢力はいるものの、ルワンダ国内は、

2000年以降、平和であり続けています。

カガメ大統領は、半ば独裁ともとれるほど強烈なリーダーシップを発

揮し、国の目標を明確に掲げ、改革を進めてきました。

ジェノサイドと国内紛争で徹底的に傷ついた首都キガリを中心に、街

をきれいにする政策をとりました。さきほどお話ししたプラスチック

バッグ廃止と掃除の奨励はその一環です。街並みがきれいなので、キ

ガリを訪ねる外国人に対して、新しいルワンダのポジティブなイメー

ジを伝えることができるようになりました。

    

なるほどです。

カガメ大統領は、2000年に就任したそうです。

調べると、現在も大統領在任中。

1957年10月生まれの65歳。

Wikipedia ポール・カガメ

☝ 反対派を弾圧する面もあるようです。

政治家は評価が難しい。

  

残念ながら、アフリカの勉強は終わってしまいました。

そもそも、中学校の時間数では、

ルワンダのことを詳しく教えるのは難しいかな。

でも、次の機会・・・・あるかな?

またアフリカを教える時には、

この記事に戻ってきて教材研究をして、

特にルワンダのことをメインにアフリカを教えたいな。

「ミャンマー現代史」⑤ 停戦合意を仲介した笹川陽平氏

     

今日は令和4年12月6日。

  

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

12月2日の朝日新聞朝刊に、

ミャンマーのことが記事になっていました。

(紙面をクリックして拡大して読んでみてください)

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2021年2月にクーデターによって政権を奪取した

ミャンマー軍の最高司令官ミンアウンフラインと、

少数民族のアラカン軍の両方から頼まれて、

日本財団の笹川陽平氏が停戦合意を仲介したという記事です。

 

本「ミャンマー現代史」の中に何度も登場するミンアウンフライン。

記事に登場しました。

現在も、ミンアウンフラインが、実質ミャンマーのトップに

君臨しているというわけです。新聞記事で確認です。

  

笹川陽平氏も「ミャンマー現代史」に登場します。

日本とミャンマーのパイプになる人物が3人挙げられていた、

その一人です。

  

 「パイプ」である笹川が会長を務める日本財団とミャンマーの関

りは、1970年代にさかのぼる。日本財団が力を入れるハンセン

病対策が最初だった。笹川本人はシャン州での学校建設がきっかけ

でミャンマーと関わり、この国の困難に個人的な思い入れを持つよ

うになった。個人的な熱意なため、笹川の活動は人道支援を超えて、

軍事政権指導者との接触にも発展する。軍事政権の指導者タンシュ

エとの会合は二度。一度目は橋本龍太郎、二度目は森喜朗という首

相経験者とともにヤンゴンで会合を持った。会合前に米国から中止

の要請もあったというが、民間人の交流だと押し切った。(中略)

 少数民族武装勢力との全国停戦合意(NCA)交渉にも笹川は関

与する。交渉を支えた国民和平センター(NPC)の施設建設や交

渉上の旅費の支援といったかたちで側面から支援した。日本政府も

、長年の人道支援と軍との関係、さらに日本の政界にも広くネット

ワークのある笹川を頼った。2013年2月には「ミャンマー国民

和解に関し、関係国政府等と交渉するための日本政府代表」に就任。

ミンアウンフラインからも信頼を寄せられ、最高司令官が会談中に

メモをとる数少ない人物として、その名はミャンマーでも知られる。

(244~245p)

  

アメリカが会合を中止要請したのは、

スーチーを監禁している軍事政権への制裁中だったからだと思います。

本の中に出てきた笹川陽平氏が、記事に登場しました。

  

お父さんの笹川良一さんはCMで有名でした。


YouTube: 1980年代CM 日本防火協会 一日一善 「すいすい水曜日」篇  笹川良一 高見山

その息子さんの笹川陽平さんも活動的な方のようです。

1939年1月生まれの83歳。

他国の停戦合意をしてしまうなんてすごい人です。

  

ただ、ミンアウンフラインと民主勢力との仲介は頼まれていないとのこと。

引用した文章にあったように、

ミンアウンフラインから見たら、民主勢力は、

欧米にそそのかされた連中に見えてしまうのでしょう。

この新聞記事からも、ミャンマーの軍事政権はまだ続くと感じました。

「ミャンマー現代史」④ スーチーの父親アウンサン

      

今日は令和4年12月6日。

   

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

 スーチー政権には、多数派の意思を政治に反映させる意味での民

主化を進める意思はあっても、それと少数派の包摂を両立させるバ

ランス感覚には欠けていたといえる。スーチーの民主主義とカリス

マに依存した民主化運動が抱える限界だったのかもしれない。

(162p)

  

スーチー政権下で、少数民族との武力衝突が増えた理由です。

「包摂」とは?

調べていたら「社会的包摂」という言葉に出合いました。

weblio辞書 社会的包摂

意味は次のように書いてありました。

「社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や

摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り

込み、支え合う考え方のこと。」

つまり、スーチーは、少数派を取り込むという高度な民主主義では

なかったということです。

そりゃあ、難しいよ。

  

 クーデターに反対する市民の姿を目の当たりにして、大義は民主

化勢力にあると多くのひとは感じただろう。クーデターは失敗した

と思っているひともいるはずだ。ところが事態は、期待した成り行

きとは乖離したまま、現在にいたる。

 市民に暴力を振るってまで、軍はミャンマーの何をどうしたいの

か。スーチーはなぜクーデターを防げなかったのか。民主化勢力に

勝機はあるのか。国際社会は事態をなぜ収束させられないのか。こ

れからこの国はいったいどこに向かうのか。

 こうした疑問が浮かんでも、答えがなかなか見つからない。そん

な困惑する事態が、もう一年半以上も続いているのである。本書は

これらの疑問に答えたい。

(ⅲ はじめに) 

   

引用の順番がめちゃくちゃですが、

「はじめに」に書かれた文章です。

中学校の授業で、東南アジアを教えている時に、

「ミャンマーでは、軍がクーデターを起こして、

軍事政権が民主主義の政権を倒しました」

程度は話しましたが、

それ以上のことを知らない自分がいました。

そんな時に見かけたこの本。飛びつきました。

クーデターなんて、今の時代、成功するわけがないとも

思っていましたが、ミャンマーの状態は一向に変わりません。

どうなっているんだと思っていました。

この本では、軍事政権は5年以上、10年とか続くと予想しています。

この本を読むと、そうなのかなと思えます。

日本とは事情が違うのです。

その事情が見えてきました。

  

時代はイギリスの植民地だったころのミャンマーの話です。☟

  

 英領インド全体で進んでいた自治制度の拡大にともなって、ミャ

ンマーでも自治や独立を求める機運が高まった。しかし英国は、自

治についてはある程度認めても、独立を付与する気はなかった。独

立を求めるひとびとは不満を溜めていく。その結果、1930年代

に入って、若い政治活動家たちの運動が急進化、左傾化していった

のも不思議なことではなかった。彼らは暴力革命を通じてでも既存

の支配構造を変えることを目指した。その代表的な政治勢力がタキ

ン党(正式な組織名は「我らビルマ人協会」)である。タキン党の

若きリーダーがアウンサン。スーチーの父親だ。

(17p)  

  

独立の機運が高まったミャンマーでしたが、

問題がありました。

ビルマ人が多数を占めていましたが、他の民族が厳然といました。

さらにはインドや中国からの移民も多かったのです。

同じ国民だという国民意識が、広がらなかったのです。

  

 1942年に日本軍がミャンマーに侵攻した。日本軍は、英国の

統治下では抑え込まれていたナショナリズムの発露を許容し、とき

に煽って、自身の統治に利用しようとした。日本軍政下とその後の

対日抗争で高揚したナショナリズムは、日本の敗戦後に復帰した英

国が抑えきれるものではなく、また、大戦で疲弊した英国に、アジ

アの広大な植民地を維持する国力は残っていなかった。独立運動を

主導したアウンサンは、このチャンスを逃さず、一気呵成に英国政

府との交渉を進めた。そして、1948年1月4日、ミャンマーは

独立する。

 独立はナショナリストたちの長年の夢の実現ではあったが、まっ

たくの見切り発車だった。しかも、肝心のアウンサンが独立直前に

政敵によって暗殺されてしまう(1947年7月19日)。独立交

渉の牽引役で統合のシンボルになりえた指導者を、この新興独立国

は失ってしまった。

(19p)

   

スーチーが、民主化の先頭に立たされたのは、

父親のアウンサンの影響です。

そのアウンサンが、どんな人物で、どんな死に方をしたのかがわかりました。

「ミャンマー現代史」③ 軍は民意を愚民観と陰謀論で見る

   

今日は令和4年12月6日。

  

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

適当に開いたページから引用します。

どこからでも勉強が始まる本です。

  

 スーチー政権の評価はさまざまあるが、そもそもスーチーに対す

る周囲の期待が高すぎた。スーチー自身、自らへの期待も高すぎた

のだろう。民主化のユーフォリア(多幸感)である。国際援助の世

界では、どの国でも政治経済体制が自由民主主義と市場経済に近づ

く(べき)という前提を「移行パラダイム」と呼ぶことがあるが、

ミャンマーの改革に対する世界の反応は、そうした冷戦後のパラダ

イムがいまも健在であることを感じさせた。

 冷静に考えれば、約50年間軍事政権が続いた国が、そう簡単に

変わるはずはない。変化は多くの場合は緩やかで、進歩と後退を繰

り返す。

(148p)

  

そうなんだ。そう思ってしまいます。

どの国も、自由民主主義と市場経済の国になるのがいいんだと。

中国でも、先日、「民主主義!」と叫んだデモがありました。

民主主義が理想の国家だと思い、そこに移行するのを期待します。

でもそこに行きたくても、簡単に行けない国があるのです。

ミャンマーがそうでした。

最近は、そもそも民主主義が本当に理想なのかと疑う記事もあります。

揺らぎます。

   

  

 前任のタンシュエは寡黙だった。20年以上最高権力者の地位にあ

りながら、話すのは軍人に向けた訓示ばかりで、国民に向けた言葉は

ほとんど発することなく、自身の神格化にも興味を示さなかった。世

界で最も目立たない独裁者のひとりだったかもしれない。

 一方で、ミンアウンフラインはよくしゃべる。2017年8月にロ

ヒンギャ危機が発生するまでは、外国メディアのインタビューにも答

えていたし、訪問する外国要人とも頻繁に会い、外遊にも積極的だっ

た。

(153~154p)

  

タンシュエは、1988年から2011年までの

軍事政権のトップだった人です。

肩書は軍最高司令官。

そしてその後を継いで、軍最高司令官になったのが

ミンアウンフラインです。

2011年からの軍事政権のトップに君臨する人です。

  

 最高司令官に就任して以来、軍改革を進めて自信を深めていたミン

アウンフラインに、スーチーは挑戦を続けた。といっても、スーチー

を支える国民の支持は、それだけでは軍の実力行使を抑え込むには十

分ではない。軍は民意をだいたい二通りの見方で理解する。感情的な

振る舞いか、欧米の介入かだ。愚民観と陰謀論と言い換えてもよいが、

こうした見方が続く限り、いかに選挙で勝っても軍が政治に関与しな

くなることは期待できない。

 そんな軍と、非暴力闘争を信念とする勢力との権力争いなのだから、

軍が実力を行使すればいつでも勝つことができる。もちろんそんなこ

とは民主化勢力が一番知っている。スーチーは合計で15年にわたっ

て軟禁され、議員の多くには投獄歴がある。つまり、軍による実力行

使の被害者にほかならないのだ。この非対称的な力関係のなかで、軍

の最終手段の行使を抑止しながら軍中心の体制を変えるという難しい

課題にスーチーは挑んでいた。

(155~156p) 

  

軍の民意の見方は衝撃ですね。

民意を信頼していません。

現在も、軍は、民意をそうやって見ているのでしょう。

  

  

 軍はスーチー政権に不信を強めていった。その最も大きな理由のひ

とつは、軍と少数民族武装勢力との衝突の増加である。

 まず、ロヒンギャ危機があった。2017年8月25日、ラカイン

州北部で紛争が勃発する。

(158p)

  

当時、ニュースで報じられていたと思います。

長く迫害されてきた民族ロヒンギャが、

武装勢力をつくって、軍や警察を攻撃したのです。

軍は即座に掃討作戦を行い、

民間人にも多数の犠牲者が出て、

60万人~70万人の難民が、隣国バングラデシュに流出しました。

その他にも、ラカイン州と呼ばれる場所は不安定でした。

武力衝突が急増していました。

  

 急増の原因はアラカン軍(AA)との戦闘の増加だ。ちなみに「

アラカン」とは現在のラカイン州の西岸の英語呼称で、ポルトガル語

の「アラカオ」から変化したものだと言われている。このラカイン州

の北部にある町ムラウーを中心に、かつて王朝が海上交通で栄えた。

その王朝がビルマ人の王朝であったコンバウン朝に滅ぼされたのが

18世紀後半のことである。ムラウー朝の滅亡と征服の歴史、そして、

ビルマ人中心の国家の周辺で最貧地域のひとつとなった屈辱があって、

ラカイン人はビルマ人への強い対抗意識を持つことで知られる。

(166p)  

   

ミャンマーは、多民族国家であることが、

国として不安定な大きな原因になっています。

 

  

「ミャンマー現代史」② 国家顧問になったスーチー

      

今日は令和4年12月6日。

  

前記事に引き続き、

「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

より引用します。

   

適当に開いたページから引用します。

どこからでも勉強が始まる本です。

  

 一方で、官僚、実業家、ジャーナリストといったエリートたちの口

からは、スーチーに失望する声が多く聞かれた。国際社会も同様に、

彼女に対する批判が強くなり、政権発足時の熱狂はあっという間に冷

めてしまった。

(134p)

 

2015年に発足したアウンサン・スーチーに対する声です。

確かに、ニュースで見ていて、スーチーさんはどうしちゃったんだろうと

心配することがありました。

この本を読んで、スーチーさんは、だましだましの民主主義をやっていて、

綱渡り状態だったことが見えてきました。

  

  

 勝利の翌日、スーチーは党本部の上階から支持者に演説した。「敗

れたものは勇気をもって道をゆずるべきだし、他方で勝者はおごるこ

となくその勝利を祝うべきでしょう。それこそが真の民主主義です」。

説法めいた、いつものスーチー節だったが、そのあと、敗者に敬意を

払うように呼びかけていた。NLDは1990年に総選挙での勝利を

軍によって反故にされた経験を持つ。何かと理由をつけて、また軍が

政権移譲を妨害するかもしれない。スーチーはじめ、NLD関係者の

多くに政権移譲が実現するのかどうか不安があったのも無理のないこ

とだろう。

(137p)

  

勝利とは、2015年11月の総選挙のことです。

この選挙で、スーチー政権は発足しました。

でもいつ軍に反故にされるかわからない状況だったのです。

  

  

 スーチーは慎重にことを進めた。選挙の翌月である12月にはタン

シュエと21年ぶりに会談し、ミンアウンフラインとは、同じ12月

と、翌年の1月、2月と3度にわたって会談している。会談の詳しい

内容はわかっていないものの、スーチーは憲法第59条(f)の改正に

ついて理解を求めたといわれる。

 第59条(f)は大統領資格を定めた条項である。配偶者や子供が外

国籍である者に大統領資格を認めないことが定められている。スーチ

ーは同条項の改正を過去にテインセインにも求め、拒絶されていた。

選挙で民意を味方につけて、ミンアウンフラインにも同様のことを求

めたのだろう。しかし、実現することはなかった。一方でミンアウン

フラインは、自身の退役年齢を5年間、すなわち議会一期分延長し、

NLD政権と直接対峙する準備を整えた。

(137~138p)

  

軍政権が作った憲法。スーチーに大統領にならせないために

条項が作られていました。

スーチーの旦那は、イギリス人です。

そしてミンアウンフラインが、2021年2月の軍のクーデターの

首謀者です。

この本の後半で、何度も名前が出てくる実力者です。

  

 

 選挙前の記者会見でスーチーは、「大統領資格がないが政権を獲

得したらどうするのか」という質問に「大統領の上になるわ」と答

えている。

(138p)

  

スーチーは、この言葉通り、国家顧問というポストをつくって就任。

大統領の上の立場になりました。

その代償は大きかったです。国家顧問法案を作成し提出した

NLD党員コーニ―が、2017年1月29日に

出張の帰りに、ヤンゴン国際空港で背後から銃で撃たれます。即死。

国家顧問の設置を面白く思わない軍の関与があったと

思われる事件でした。

ミャンマーは、やはり怖い国なんだと思いました。

  

  

 開発や成長の恩恵が農村部に到達したのはスーチー政権下でのこ

とである。世界銀行が発表している農村部の電化率(農村人口のう

ち電気にアクセスできる人口の割合)は、2016年に39.8%

だったものが、2019年には57.5%に改善している。

(147p) 

  

ミャンマーは、貧しい国なんだとこの数字を見て思います。

2019年なんて、ちょっと前です。それで57.5%。

どうにかしてあげないといけない国なのです。

  

  

 

  

  

 

「ミャンマー現代史」① 忘れられた紛争国にしてはならない

       

今日は令和4年12月6日。

   

この本を読みました。

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「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著/岩波新書)

  

1度読み終えて、読み落したところはないかと思い、

すぐに最初から再読しました。

連続して2回読んだことは今までなかったです。

勉強になった本でした。

貼りつけた付箋の数が尋常ではありません。

   

いろいろな場所から、引用していこうと思います。

  

 かつての軍事政権時代、ミャンマーで多くの人々を苦しめたのは、

軍の圧政と、国際社会からの忘却だった。最大の責任が軍にあること

は言うまでもないが、現地の惨状を放置してきた国際社会(日本を含

む)にも、その責任の一端はある。歴史家であり、ミャンマー政府の

顧問も務めていたタンミンウー、かつての欧米による制裁について、

「援助の打ち切りを含めた西側の制裁は数百万人の暮らしを破壊した

が、その説明責任を求める動きはない。制裁は、将軍たちをリベラル

な方向に向かわせることにはまったくならず、むしろ、よりよい将来

への移行をさらに困難なものにしてしまった」と指摘する(タンミン

ウー2021)。2011年からはじまった改革と束の間の民主化は、

その意味で、ミャンマー軍と国際社会、双方の責任を水に流して進ん

だのである。

 いま、かつてと同じことが繰り返されている。ミャンマー軍の暴挙

に非難が集まり、欧米を中心に強い圧力がかかるも、その一方で忘却

も進んで、ミャンマーの国際的な注目度と外交上の優先順位が下がっ

ている。このまま事態が硬直化すれば、ミャンマーでも人権保護も民

主化も進まない。人道危機も常態化する。そればかりか、インド洋と

中国大陸とをつなぐ要衝に脆弱な国家が生まれ、日本の地域戦略にも

深刻な影響を及ぼす。

 日本のアジア外交における構想力と覚悟を示す試金石が、対ミャン

マー政策である。この国を、忘れられた紛争国にしてはならない。

(274~275p)

 

「わすれられた紛争国にしてはならない」が大事です。

制裁は市民にも強い影響力が及びます。

それなのに、制裁した側が忘れてしまっている。

ミャンマーで暮らしている市民にとって、それは過酷なことです。

   

 最も優先されるべきは、ミャンマーという国家と、そこに暮らす人

との生活を壊さないことである。紛争や経済危機の弊害を最小限度

とどめて、アジアの地政学的要衝が極度に不安定化することを防ぐ

とが求められる。

 喫緊の課題は人道支援の拡大だろう。ところが、軍は人道支援の名

もとで抵抗勢力への支援が行われることを警戒しているため、各種

際機関、国際NGOの活動に制限が課されている。また、そうした

織にも軍との接触を回避する傾向が強い。その結果、国内避難民や、

経済的なあおりを最も受ける貧困層、感染症対策や教育のようなサー

ビスを受けられないひとびとは、軍の実効支配下に多くいる。日本は

軍に、中立的で包括的かつ透明性のある国際的人道支援の受け入れを

求めるべきだろう。

(270p)

国際NGOで、ミャンマーの紛争に巻き込まれて、

命を失った人がいることが書いてありました。

そんな中を出かけていく国際機関や国際NGOは、

とてもたいへんなことだと思います。

でも、どうにかして軍にも認めさせる形で、

人道支援が行われなくてはならないのです。

  

  

 ただし、対立する軍と民主化勢力の仲介は、どの国にも国際機関に

もできそうにない。対話の実現には、5年、10年、あるいはそれ以

上の時間がかかり、主体はあくまでもミャンマー人になる。わたした

ちにできることは、混迷が及ぼす一般市民への弊害を可能な限り押し

留め、対立する勢力間に対話が生まれるような環境をつくり出すこと

くらいだ。いまのところの妙案はないものの、すべての当事者と公式、

非公式につながり、混迷が長期化することを見越して、情報や人脈を

蓄積することが必要である。長期的に関与をするために、日本もまた、

ASEANや国連のように、ミャンマー問題全般を担当する特使を任

命することも検討すべきだ。

(270p)

  

著者は、軍と民主化勢力との対話が始まるのに、

5年以上、もっと時間がかかると考えています。

実際に、この本を読むと、解決は簡単だとは思いません。

   

2021年2月1日に起こったクーデター。

これにより、ミャンマーはどうなってしまうのか。

2022年12月 3日 (土)

来年の干支は兎/年賀状のデザイン

      

今日は令和4年12月3日。

  

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いいでしょう。

勤務している中学校の

支援学級の生徒の手作りです。

頭のみかんと鏡餅を連想させる体形がかわいいです。

来年の干支は兎なんだと思い出させてくれました。

  

今日、年賀状を注文しました。

ハガキに必要枚数、配達希望日を書いて投函。

後日、郵便屋さんが自宅まで持ってきてくれます。

本当に来るのかな?

 

来年の年賀状のデザイン。

年賀郵便.jp

ここから転載します。

2

インクジェット紙を頼んだので、このデザインです。

富士山の向こうに巨大な兎です。

シュールです。

  

インクジェットの写真用のデザインもいいです。

3

ニンジンと兎の相性はいいですね。

  

知的には、無地の年賀ハガキのデザインが面白い。

4

「青海波」はおめでたい模様だと思いますが、

「瑞雲」はおめでたいのですね。

調べると、着物の柄としても重宝がられているようです。

勉強になりました。

2022年12月 2日 (金)

12年間ご無沙汰していた中溝裕子さん

   

今日は12月2日。

   

調べものをしていて、そのついでに、

12年前のこのブログの記事を読みました。

ここでも道草 中溝裕子さんの生き方から学ぶ(2010年10月22日投稿)

3本連続で記事を書いていました。

プロゴルファーになって3年目に難病を患い、

骨髄移植をしなくてはならない状況になります。

骨髄移植のリスクを考えて、迷う中溝さん。

いろいろな人に背中を押されて、骨髄移植をします。

骨髄移植の後遺症に苦しんだ中溝さんは、

絵手紙・筆文字に出合います。

当時、中溝さんの作品が載った本を図書館で借りて、

印象に残ったものをコピーしました。

その時の1枚です。

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いいこと言います。

  

12年前、この中溝さんの生き方と作品を使って、

道徳の授業をしました。

  

そんな12年前の記事を読んで、現在も中溝さんはご健在かな?

と思って、ネットで調べました。

ご健在でした。よかったです。

57歳になられていました。

プロゴルファー中溝裕子 オフィシャルサイト

ここを見たら、2023年の絵手紙のカレンダーが

手に入ることがわかったので、さっそく注文しました。

Nakamizo2023

届きました。

来年1年は、中溝さんの絵手紙(笑手紙)を楽しむことになりそうです。

  

NPO法人 食といのちのお結び隊

現在、中溝さんは、食といのちのお結び隊の代表です。

講演会やイベントの開催を行っているそうです。

頑張っています。

  

私も頑張るぞ。

日本が勝っていた/オンデーズのCM第2弾を見る

      

今日は令和4年12月2日。

  

午前4時からのサッカーW杯。

日本VSスペイン戦。

起きることはできたけど、夢うつつでした。

決定的瞬間は見逃して、

いつの間にか日本が勝っていました。

ドイツとスペインに勝って、決勝トーナメント進出。

何はともあれよかったです。

3

Yahoo!ニュース  

  

話は変って・・・

ここでも道草 11月19日オンデーズの新作CMが始まる/新・生活のBGM(2022年11月17日投稿)

オンデーズの新しいCMがいつ見られるかなと

楽しみにしていました。

11月19日に放映されたのは、福岡県だったようです。

愛知県に住む私が、新しいCMを見ることができたのは、

昨日の朝でした。

今調べたら、YouTubeでも見ることができました。


YouTube: OWNDAYSのダンスCM第二弾リピート60分 福岡県先行放送

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遠藤有紗さんが増殖していました。

3人ではなくて、より増やす方の発想で作られたんですね。

ちょっと多すぎて、ガチャガチャした感じ。

う~ん、前作の方が良かったな。

  

メイキングビデオによると、

着物で撮影しているのがあったので、

正月バージョンがある模様。

シンプルなCMになっていることを願います。

最近の写真

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楽餓鬼

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